第5章 パイロット志望、7秒の宣言(三)
朝の空気は、まだ少し冷たかった。
三沢航空科学館の前に立った航平は、深く息を吸い込んだ。昨日と同じ空なのに、今日のそれは、ほんの少しだけ、広く感じた。
「再テスト、受けてきます」
おばけ社を出るとき、そう言った自分の声が、まだ胸に残っている。名札には、ふたたび「Ghost-01」の文字が戻っていた。
扉の向こうでは、スタッフたちが準備に追われていた。再試験とはいえ、正式な手続きと設備を使った本格的な訓練。受験者は、航平ひとりだけだ。
「今日は、リラックスして臨んでくださいね」
案内係の女性が優しく声をかける。けれど、航平の耳には、その声がどこか遠く感じられた。部屋の奥。シミュレーターの操作席が、まるで舞台の主役を待つように静かに鎮座している。
航平は、ゆっくりとその前に立った。ヘッドセットを装着すると、耳に機械音と風のようなノイズが混じる。その音が、彼の記憶を引きずり出した。
――忘れなさい。
母の声が、また心の隅にこだまする。
けれど、その声のあとに、別の音が重なった。
――あったかい……それに……おいしいですっ!
ぷるりんスープを飲んだ櫻子の、なんとも言えない声。くるみのスコープで見た、自分の声の「色」。
(ぼくの声は……ちゃんと、ある)
そう思った瞬間、手にしていた操縦桿が、じんわりと温かく感じられた。あれほど冷たくて、硬くて、凍るようだったのに。
試験官の声が、スピーカー越しに聞こえた。
「Ghost-01, cleared for takeoff, over.」
7秒の壁が、目の前に立ちはだかる。
一秒、二秒……。
航平は目を閉じた。そして、胸の奥にしまっていた、父の声をそっと思い出す。
『パパが空で迷子になったら、この名前を呼んでくれ』
それは、約束だった。
自分の声で届ける、たったひとつの約束。
三秒、四秒……。
(言える。今なら――)
五秒、六秒。
航平は、マイクに向かって、まっすぐに口を開いた。
「Ghost-01, ready for takeoff. Over.」
声が、出た。
その瞬間、目の前の滑走路が、ぱっと広がったように見えた。シミュレーターの中の世界が、本物の空のように息づいている。
スピーカーの向こうで、試験官の声が弾む。
「交信、確認しました。テスト完了です。川村くん――合格です」
その言葉に、航平は、静かに、でも確かにうなずいた。
シミュレーターを降りると、名札の「Ghost-01」が、まるで誇らしげに胸の上で光っているように感じられた。
その帰り道。
空を見上げると、一機のジェット機が、高く高く、雲を突き抜けて飛んでいた。
その尾を追いながら、航平は小さく、でもはっきりとつぶやいた。
「届いたよ。Ghost-01」
梅雨明け前の三沢市。朝の空には薄い雲がかかり、風が湿った草の匂いを運んでくる。
その日、航平は母とふたりで、父の眠る墓地に向かっていた。無言のまま歩く時間が、妙に長く感じられる。ふたりの間には、言葉よりも重い「なにか」がずっと横たわっていた。
墓前に立ち、手を合わせる。父の名前と、「Ghost-01」の刻まれた小さな碑が、しんと静かな空気の中にあった。
ふと、母が口を開いた。
「……あなた、飛ぶつもりなの?」
その声は、少しだけ震えていた。
「うん」航平は小さくうなずいた。「言えるようになったんだ。「Ghost-01」って。ちゃんと、自分の声で」
母の目が、わずかに見開かれた。
「そう。すごいことね」
航平は名札を取り出す。そこには、戻された「G」の文字があった。
「でもね、今はちょっと違うかもしれない。「Ghost」って、父さんの名前だったけど……」
航平はゆっくりと母を見る。
「僕にとっては、『はじまりの声』なんだ。父さんの声を追いかけてきたけど、やっと……やっと、自分の声として言える気がする」
風が、ふっと吹き抜けた。母は、目を伏せたまま、何も言わない。
「怖かったんだよ。父さんのこと、話すたびに、母さんの顔が曇るから。言っちゃいけない気がして。でも、それって……」
航平の声が、少しだけ震える。
「声を失うってことと、きっと同じなんだ」
長い沈黙のあと、母が静かに答えた。
「……ごめんなさい。私が凍らせてたのよね。あなたの声を」
その言葉が、凍った地面にひびを入れるように、航平の胸に染みわたっていく。
「あなたの声、ちゃんと聞かせてちょうだい」
航平は、もう一度、墓に向き直る。
「――Ghost-01、ready for takeoff.」
7秒を超えて、声が空に解き放たれた。
母は、静かに目を閉じて、うなずいた。その頬に、ひとすじの涙が伝っていた。
三沢市、米軍基地裏通りの夜は、どこかしら懐かしいにおいがする。醤油と香辛料が混じった異国の風。ネオンの光がぼんやりと滲む中、古びた木造の建物がひとつ、静かに灯をともしていた。
三沢おばけ社。
そのガラス戸を、少年が小さくノックした。
「こんばんは」
「あっ、Ghost-01!」と最初に飛び出してきたのは、ぷるりんだった。「じゃなくて、host-01だったぷるか!」
続いて、櫻子が湯呑み片手に顔を出す。「あっ、航平くん! 訓練、どうだった?」
「成功しました!」と航平は胸を張る。「Ghost-01って、ちゃんと、言えました!」
事務所の奥から、ぽんぽんぽん、と小皿の音が鳴り、ゲン爺がひょっこり顔を出す。
「ほう……それは立派になったのう」
「ようやくGが戻ってくる日が来たか」と、センが契約書のファイルを取り出した。「では名札の修復を――」
そう言って、センがぱちんと指を鳴らすと、航平の胸元の名札に「G」の文字がふわりと浮かび上がる。
「Ghost-01、復元完了」
その瞬間、事務所の中に、ほんのりとあたたかい風が流れた。
櫻子が微笑む。
「ねえ、航平くん。声にしなきゃ届かないことも、声にしなくても伝わることも、世の中にはいろいろあるけど――まず、『声にしてみる』って、大事なことだよね」
「はい……でも、僕ひとりじゃ言えなかったと思います。みんなのおかげです」
航平が深く頭を下げると、櫻子が慌てて手をふった。
「もう、そんな固くならないで!」
そのとき。
「ぷるっぷるっ! そんな立派になったGhost-01には、特別サービスぷる!」と、ぷるりんが勢いよく飛び出してきた。
ぱしゃーん!
またもや湯呑みにダイブして、ぷるぷるとエキスを抽出しはじめる。
「心霜ぷるスープ第二弾、銀色ぷる〜!」
「もう一杯どうぷる〜?」
「飲まないですっ!」
航平が満面の笑みで叫んだ。事務所中に、どっと笑いが広がる。
「よし、契約終了」センがぴしっと判を押す音を立てた。「収支は……珍しく、黒字だ」
「また来てね、Ghost-01くん!」櫻子が手を振る。「次は「おばけ側」でのスカウトもあるかもよ?」
「それ、ちょっと面白そうかも」
そう言って笑った航平の声は、もう少しも震えていなかった。
事務所を出た航平は、ネオンのにじむ裏通りを歩きながら、ふと立ち止まった。
空を見上げる。星の見えない空の奥――その先に、ジェット機の轟音が遠く響いた。
耳元で、確かに聞こえた気がした。
Ghost-01、ready for takeoff.
それは誰かの声じゃなく、自分の中から響いた、自分の声。
航平は、まっすぐに夜空を見つめて、小さくつぶやいた。
「ありがとう、おばけ社」
そして、もう一度、笑った。
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