第5話 お師匠様、一緒に逃げませんか
蓮は、手首に触れる指の冷たさで目を覚ました。
瞼を閉じたまま、浅く息をする。
寝台の脇に、誰かが座っている。
誰かといっても、薬庵には二人しかいない。
瑛の指が、蓮の脈を取っていた。
いつもとは、あべこべだった。
蓮が朝に目を覚まし、師の寝所へ行く。脈があれば眠らせておき、止まっていれば起こす。それが二人の日課だった。
瑛が蓮より先に起きていることも、ないわけではない。
だが、眠っている蓮の脈を取られたのは、初めてだった。
指先は、しばらく同じところに留まっていた。
蓮が起きたことには、気づいているはずだった。蓮に脈の読み方を教えたのは瑛である。眠りから覚めたばかりの脈を、取り違えるはずがない。
それでも瑛は、声をかけなかった。
蓮も目を開けなかった。
やがて指が離れる。
瑛は掛け布から出ていた蓮の手を戻し、肩まで布をかけ直した。
衣擦れの音がして、足音が遠ざかる。
戸が静かに閉じられてから、蓮は目を開けた。
窓の向こうでは、空が少しずつ白み始めていた。
部屋にはもう誰もいなかった。
*
炊事場へ行くと、竈には火が入り、粥が煮えていた。
青菜は刻まれ、塩漬けの豆も小皿に盛られている。瑛は卓の前に座り、都から持ち帰った黒い木箱の刀子に油を引いていた。
「おはようございます」
「うむ」
「今朝は、ずいぶんお早いのですね」
「目が覚めたからの」
瑛は刀子を布で拭い、箱へ戻した。
蓮の脈を取ったことには触れない。
蓮も、今は尋ねなかった。
「朝餉まで作ってくださったのですか」
「見れば分かるであろう」
「お師匠様が火を見ている間に眠らなかったのは、分かりませんでした」
「わしを何だと思うておる」
「目を離すと、粥より先にご自分を焦がす方です」
「焦がしたことはない」
「眠り込んだことはあります」
「昔の話じゃ」
「十日ほど前です」
瑛は聞こえなかったふりをして、蓮の前へ椀を置いた。
粥は、少し水が多かった。
けれど、食べられないほどではない。
蓮が何も言わず匙を取ると、瑛はその顔をうかがうように見た。
「おいしそうです」
「そうであろう」
瑛は、わずかに得意そうな顔で自分の椀へ手を伸ばした。
都から戻って以来、瑛は毒を口にしていない。
夜には寝台へ入り、朝になれば息をして起きてくる。
蓮が起こさなくても、瑛は生きている。
本来なら、喜ぶべきことだった。
蓮は匙ですくった粥を、しばらく口へ運べなかった。
朝餉を半分ほど食べたところで、表の戸が叩かれた。
訪れたのは患者ではなく、麓の村の男だった。川向こうの町から預かってきたという細い文箱を抱えている。
「都からだそうです。沈瑛様へ、と」
文箱の紐には、周恪の名を書いた木札が結ばれていた。
瑛は男へ礼を言い、乾した果実を一包み持たせた。
戸を閉めると、卓へ戻って紐を解く。
中には、細かな字で埋まった紙が二枚入っていた。
瑛は一枚目を読み、二枚目へ移る。
その間にも、顔色はほとんど変わらなかった。
「何と書いてあるのですか」
「南門の古い脈案と、東へ遣わされた一団の名簿が見つかったそうじゃ」
瑛は紙から目を上げた。
「周恪は、先日のわしが、五十年前に見た娘と同じ者かと問われた」
「何と答えたのですか」
「同じ者にしか見えぬ、と」
「お祖母様のお話は」
「あの場しのぎじゃ。古い脈案に、あやつの名まで残っておっては通らぬ」
蓮は膝の上で手を組んだ。
「それで、宮中は」
「まだ、何も決めておらぬ。ただ、陛下もこの件をご存じになったそうじゃ」
「陛下も」
「うむ。次に召しがあれば、先日のように毒の見立てだけして帰る、というわけにはいかぬかもしれぬと、周恪は書いておる」
「何をさせられるのですか」
「それは、まだ分からぬ」
瑛は紙を畳んだ。
「お師匠様を、また呼ぶのでしょうか」
「そうなるかもしれぬ」
「呼ばれたら、行くのですか」
瑛は少しだけ間を置いた。
「勅命ならばの」
昔の話だとも、腹が減ったとも言わない。
尋ねれば瑛は答えた。宮中では古い記録が掘り返され、周恪もたびたび呼ばれている。東へ渡った一団についても調べが進んでいるが、まだ正式な沙汰はないという。
瑛が何かを隠しているようには見えなかった。
それなのに蓮には、まだ聞いていないことがあるような気がした。
「返事を書く」
瑛は立ち上がり、文箱を持って表の一間へ向かった。
蓮は一人になった卓で、すっかり冷めた粥を口へ運んだ。
*
それから、都からの手紙は何度か届いた。
瑛は届くたびに返事を書いた。
東の海へ渡ったあと、どこへ着いたのか。何を見つけ、どのように帰ったのか。五十年前、宮中で何を奏上したのか。
何を書いているのかと蓮が尋ねれば、瑛は隠さず見せた。
やがて、問いは東の地で得たものから、瑛の身体へ移っていった。
不老不死の薬を、もう一度作ることはできるのか。
できないのなら、その効は今も瑛の身体に残っているのか。傷はどのように塞がるのか。血を失えばどうなるのか。臓腑を損なっても、再び動き出すのか。
瑛は、分からぬことには分からぬと書いた。
最後の紙には、その不老不死を、ほかの者へ移すことはできるかとあった。
瑛は、その問いにだけ、すぐには返事を書かなかった。
やがて、『わしにも分からぬ』と一言だけ記した。
都から次の手紙が来るまでのあいだ、薬庵の暮らしは、以前よりも整っていった。
瑛は朝に起き、朝餉を作った。
三食を欠かさず、青菜も食べた。
使った薬壺は元の棚へ戻し、破れた袖は、蓮へ渡す前に自分で縫った。
「縫い目が大きすぎます」
蓮が袖口を裏返して言うと、瑛は針を片づけながら顔を背けた。
「塞がっておれば同じじゃ」
「指が二本入ります」
「腕は出ぬ」
「明日には出ます。貸してください」
「もう直した」
「直っていません」
蓮が手を差し出しても、瑛は袖口を押さえたまま渡そうとしなかった。
「自分でできる」
その言い方が、妙に子どもじみていた。
以前なら、蓮も笑って針を取り上げたはずだった。
今は、笑えなかった。
「……そうですか」
手を下ろすと、瑛の眉がわずかに寄った。
それでも袖を差し出さない。
瑛は、何でも自分でするようになった。
乾いた薬草を刻み、減った薬を補い、患者ごとの脈案を新しい紙へ書き直した。
薬種を買う店の名と、品を見分けるときの注意まで、一つずつ蓮へ教えた。
「川向こうの店で黄耆を買うなら、束の内側まで見よ。外だけ新しいものを巻いておることがある」
「知っています」
「乾姜は、隣の店のほうがよい。値は張るが、湿っておらぬ」
「以前、お師匠様と買いに行きました」
「ならば、忘れるでない」
ある日は、薬棚の下から小さな銭箱を出した。
「家の修繕や、急な薬種の買い足しには、これを使え。屋根なら、麓で大工仕事をしておる陳へ頼めばよい」
「なぜ、今その話をなさるのですか」
「雨除けが傷んでおる。急に漏れば困るであろう」
「でしたら、今、お師匠様が陳さんへ頼んでください」
「まだ急ぐほどではない。じゃが、お主も知っておいたほうがよい」
「何のために」
「わしがおらぬとき、困らぬようにじゃ」
瑛は当然のように言った。
蓮は、銭箱を受け取らなかった。
「都へ行っている間だけのお話ですか」
瑛は答えず、箱を元の場所へ戻した。
その日の夕餉も、瑛が作った。
翌朝も、蓮が起きるより先に竈へ火を入れた。
その次の朝、蓮が少し早く目を覚ますと、寝台の脇に瑛はいなかった。
朝餉を作ることも、衣を繕うことも、銭の置き場所を教えることも、一つひとつならおかしなことではない。
都へ呼ばれることになれば、しばらく薬庵を空けるかもしれない。
そのための支度だと思えば、どれも必要なことだった。
けれど、蓮にはどうしても、そうは思えなかった。
瑛は留守にする準備をしているのではない。
自分がいなくなったあとにも、薬庵の暮らしが続くようにしている。
そんな気がした。
宮中へ行ったあと、戻ってくるつもりはありますか。
私に起こされるつもりが、もうないのですか。
何度も喉まで出かかった。
聞けば、今の瑛は答えてしまうような気がした。
だから蓮は、まだ聞けなかった。
*
瑛は、周辺の村への巡回も増やした。
畑仕事が忙しくなれば、膝や腰を痛める者が増える。薬庵まで山道を上れない老人の家には、以前から二人で出向いていた。
ただ、今までと違い、瑛は初めから蓮に診せた。
自分は隣へ座り、蓮が脈を取り、薬を選ぶのを黙って見ている。
蓮が迷えば、答えを教える代わりに尋ねた。
「昨夜は眠れたと言うたか」
「いいえ。痛みで何度も起きたと」
「ならば、昼だけを楽にする薬で足りるか」
「夜の分を分けます。ただし、眠りが深くなりすぎない量にします」
「悪くない」
いつもと同じ教え方だった。
違うのは、患者へ薬を渡すときだった。
「次に痛みが出たら、蓮へ知らせよ」
瑛が言う。
老人はうなずき、蓮を見た。
「瑛様がおらんときには、そうさせてもらうよ」
「おっても同じじゃ。この者が診る」
「お師匠様もご一緒に診てください」
蓮が言うと、瑛は薬箱の蓋を閉じた。
「必要ならばの」
次に訪れたのは、喬家だった。
あの朝、蚕室で倒れた三人は、すでに普段の暮らしへ戻っていた。老女は庭先で桑の葉を選り分け、母親と娘は、風が抜けるよう開け放した蚕室で働いている。
「今度は、煙抜きを塞いでおらぬな」
瑛が屋根を見上げる。
「もう懲りたよ。雨の日も、風の通りだけは確かめてる」
母親は笑い、蓮へ礼を言った。
「あのときは本当に助かった。蓮殿が来てくれなかったら、どうなっていたか」
「お師匠様がいらしたからです」
「戸を開けさせたのも、外へ運ばせたのも、お主じゃ」
瑛が言った。
「もう少し、自分の見立てを信じよ」
「でしたら、そばで見ていてください」
「いつまでも見ておっては、手が鈍る」
「鈍りません」
思ったより強い声が出た。
喬家の者たちが、何事かと二人を見る。
蓮は一度息を整えた。
「……お師匠様がおられても、自分で考えます」
「そうか」
瑛はそれだけ言い、先に庭を出た。
帰り道、瑛はいつもよりゆっくり歩いた。
雨上がりの桑畑。山の間を流れる川。灰色の屋根から上る夕餉の煙。
立ち止まりはしない。
けれど、一つひとつを確かめるように眺めている。
山道へ入る前、瑛は一度だけ村を振り返った。
「お師匠様」
「何じゃ」
「また、来ますよね」
「薬が要ればの」
「そうではなく」
瑛は、蓮の続きの言葉を待った。
急かしも、はぐらかしもしなかった。
蓮のほうが先に目を逸らした。
「……何でもありません」
二人は並んで山道を上った。
*
その夜、蓮は周恪へ初めて手紙を書いた。
『周先生へ』
そこまで書いて、筆が止まった。
宮中では何が起きているのか。
陛下は瑛をどうするつもりなのか。
五十年前、瑛が宮中で何を奏上し、どのような沙汰を受けたのか。
尋ねたいことはいくつもあった。
けれど、その答えを知ったところで、瑛が従うつもりならば、何も変わらない。
蓮は新しい紙を出した。
『もし、再びお師匠様へ召しがあったとき、宮中からお連れ出しいただくことはできますか』
書いてから、墨が乾く前に紙を裏返した。
これでは、周恪まで罪へ巻き込む。
また新しい紙を出す。
『東の海へ渡った一団について、残っていることを教えてください』
今度は、すぐに裏返さなかった。
東へ行った者たちは、老いも死も退ける薬を求めた。
戻ったのは瑛一人だった。
そこに何があったのか、蓮は知らない。
知っている者がいるとすれば、瑛だけである。
そして瑛は、尋ねれば答えるのだろう。
今なら、きっと。
それでも、蓮は聞けなかった。
蓮は紙の下へ、もう一行を書き足した。
『お師匠様には、内密にお願いいたします』
墨を乾かし、折り畳む。
宛名を書いたところで、背後の床がかすかに鳴った。
振り返る。
戸は閉じたままだった。
廊にも人の気配はない。
蓮は手紙を自分の衣の内へしまった。
翌朝、目を覚ますと、枕元に細い紐と、封をするための蝋が置かれていた。
誰が置いたのか、蓮は尋ねなかった。
瑛も、何も言わなかった。
昼前、周恪への返書を受け取りに、先日と同じ村の男が薬庵へ上がってきた。
瑛が文箱を渡したあと、蓮は戸口で男を呼び止めた。
「これも、周先生へお願いします」
封じた手紙を差し出す。
男は宛名を確かめ、何も尋ねず懐へ収めた。
*
その日の夕餉は、蓮が作った。
瑛は手を出そうとしたが、蓮が炊事場から追い出した。
「今夜は、私が作ります」
「二人で作れば早い」
「お師匠様は、薬棚の紙包みを補ってください」
「もう補った」
「では、座っていてください」
「何もせぬのも落ち着かぬ」
「今まで、何もせず待っておられたでしょう」
「あれは、お主の学びを見ておったのじゃ」
「夕餉を作るところまで、毎日見なくて結構です」
瑛は不満そうに卓へ座った。
蓮は青菜と豆腐の汁を作り、川魚を焼いた。瑛の皿には、少し大きいほうを載せた。
向かい合って食べ始めても、しばらくは器の触れる音しかしなかった。
「お師匠様」
「何じゃ」
「逃げましょう」
瑛の箸が止まった。
「何からじゃ」
「宮中からです」
蓮は瑛をまっすぐ見た。
「最後の手紙は、お師匠様の不老不死を、ほかの方へ移せるかと尋ねていました」
「そうじゃな」
「そのために何をするつもりなのか、お師匠様にも分からないのでしょう」
「分からぬ」
「でしたら、勅使が来る前に、ここを出ましょう。今夜でも構いません」
勅命には背けぬ、と叱られると思っていた。
瑛は、すぐには答えなかった。
卓の上の小さな灯りが、その黒い瞳へ揺れている。
「……それも、よいかもしれぬの」
蓮は息を止めた。
「では、今夜にでも」
「どこへ行く」
「都から離れられるなら、どこへでも。北でも南でも、海の向こうでも」
「その先で、どうする」
「今と同じです。薬を作り、患者を診ます」
「どれほどのあいだじゃ」
「ずっとです」
「ずっと、とは」
瑛は静かに聞いた。
蓮は答えられなかった。
十年。二十年。運がよければ、もっと長く。
けれど瑛にとっては、どれも終わりのある時間だった。
「逃げることはできる」
瑛は箸を置いた。
「お主と二人ならば、宮中の目が届かぬところまで行くこともできよう。名を変え、また薬庵を開くこともできる」
「では」
「じゃが、お主は老いる」
その言葉は、声を荒らげられるよりも強く、蓮を止めた。
「どこへ逃げても、それは変わらぬ」
「まだ、ずっと先のことです」
「わしにとっては、そうでもない」
「だからといって、今から置いていくのですか」
「置いていくのではない」
「同じです」
蓮の声が震えた。
「お師匠様は、私がいなくなる日のために、今の私までいないことにしようとなさっています」
瑛は何も言わなかった。
「朝餉を作って、衣を繕って、患者を私へ渡して。薬庵に何があるかも、誰へ頼ればよいかも、全部教えて」
「教えて困ることではあるまい」
「困ります」
蓮は言った。
「私は、お師匠様のおられない暮らしに、困ります」
瑛の指が、卓の上でわずかに動いた。
蓮は、その手首へ触れたくなった。
けれど、今は手を伸ばさなかった。
「……わしも、少し怖くなったのじゃ」
瑛が言った。
ひどく小さな声だった。
「何がですか」
瑛は灯りへ目を落とした。
「また、見送ることが」
外で、風が軒の下を抜けた。
「ともに歩いた者も、暮らした者も、皆、わしより先にいなくなる。それを見送るのがどういうものか、わしは知っておる」
瑛は淡々と話した。
それでも、卓の上に置いた指だけは、固く曲がっていた。
「お主も、いつかはそうなる」
「まだ、ここにいます」
「知っておる」
「でしたら」
「知っておるから、つらいのじゃ」
蓮は言葉を失った。
瑛がそのように言うのを、初めて聞いた。
「わしは、生きることが嫌になったわけではない」
瑛は言った。
「今、お主とここで暮らすことまで、捨てたいわけでもない」
「ならば、一緒に逃げてください」
「逃げた先で、お主を見送れば、また一人じゃ」
「そのあとのことは、そのときに考えればよいでしょう」
「その『あと』をわしは知っておる」
瑛は、ほんの少し笑った。
笑ったように見えただけかもしれない。
「もう一度、一人へ戻ってまで起きるのは、しんどくての」
「起きる、とは」
「わしは死ねぬ。じゃが、起きぬでいることならできる」
蓮の背を、冷たいものが走った。
「宮中は、わしの不死をほかの者へ移せぬかと考えておる」
「そのために、お師匠様を」
「血を採るだけで済むかもしれぬ。じゃが、身体の要を取り出されれば、それを戻されるまで、わしは起きられぬやもしれぬ」
「戻されるまでとは、どれほどですか」
「分からぬ。十年か、百年か。それより長いかもしれぬ。お主の生あるうちに戻されるとは限らぬ」
蓮は、すぐにはその言葉を理解できなかった。
瑛が次に目を覚ましたとき、自分はもう、どこにもいないかもしれない。
「それが戻れば、また起きられるのですか」
「おそらくはの」
「そのとき、私がもういなければ」
瑛は、蓮を見なかった。
「……そのまま、起こされぬのも悪くないと思うておる」
「誰も起こさなければ、ですか」
「起こす者がおらねば、死んだ者と変わらぬ」
「私が起こします」
蓮は即座に答えた。
「何を取り出されても、探します。戻します。お師匠様がどこへ連れていかれても、見つけて、起こします」
瑛は、困ったように蓮を見た。
「お主は、いつまでもおらぬ」
「おります」
「蓮」
「私はここにいると、前にも申し上げました」
「今は、じゃ」
「今だけではありません」
「お主の身体には、限りがある」
瑛の声は、どこまでも静かだった。
「その限りを、わしのために逃げ続けることへ使わせとうない。勅命に背けば、お主まで罪人になる」
「私がどう生きるかを、勝手に決めないでください」
蓮が言うと、瑛は目を伏せた。
「お師匠様は、私が一人でも生きていけるよう、何でも教えてくださいました」
「そうじゃ」
「ですが、一人で生きたいと申し上げたことは、一度もありません」
瑛は答えなかった。
魚も、汁も、すっかり冷めていた。
やがて瑛は箸を取り、冷えた青菜を一口だけ食べた。
「今夜は、もう休め」
話を終わらせる言葉だった。
けれど、以前のように、何も知らないまま終わらされたわけではない。
瑛が何を恐れ、何を諦めようとしているのか、蓮は知った。
宮中から逃げれば、此度の沙汰は避けられるかもしれない。
けれど、どれほど遠くへ逃げても、自分が老いて死ぬかぎり、瑛はいつかまた一人になる。
宮中は、二人に残された時間を奪おうとしている。
だが、二人の時間は、もとから同じ長さではない。
ならば。
探すべきものは、逃げ道だけではない。
*
周恪から返事が届いたのは、その数日後だった。
蓮の手紙は、瑛の返書と同じ便で都へ送られていた。
戻ってきた文箱には、瑛宛ての厚い紙束とは別に、蓮の名を書いた小さな封が入っていた。
瑛はそれを見ても何も尋ねず、自分の分だけを持って席を立った。
蓮は封を切った。
中の紙には、短く書かれていた。
『東へ渡った一団について、宮中に残る記録は多くない。目指した地も、そこで何を得たかも分からぬ。沈瑛がただ一人戻り、不老不死の薬を得たと奏上したことだけが残っている』
その下には、さらに強い筆で一行あった。
『お前が何を考えているかは知らぬが、危ういことは考えるな』
尋ねていないことへの答えだった。
周恪も、蓮がただ昔話を知りたがっているだけではないと察したらしい。
蓮は紙を折り畳んだ。
周恪にも分からない。
宮中の記録にも、まだ答えはない。
蓮は返書を衣の内へしまった。
表の一間では、瑛が周恪への返事を書いている。
筆の走る音は、いつもと変わらない。
蓮は白い紙を一枚出した。
そこへ、東へ遣わされた一団について、今までに分かったことを一つずつ書き始めた。
*
その日の夕暮れ、二人は山の向こうの村から戻るところだった。
蓮は空になった薬箱を背負い、瑛は患者から礼にもらった豆の包みを抱えていた。
山道の半ばまで来たところで、上のほうから蹄の音が聞こえた。
一頭ではない。
複数の馬が、薬庵の前で足を鳴らしている。
蓮の足が止まった。
木々の隙間から、黒い衣をまとった男たちが見えた。門前には、宮中の印をつけた馬がつながれている。
男の一人が、細長い書状を両手で持っていた。
瑛はしばらく、その姿を見上げていた。
それから、抱えていた豆の包みを蓮へ渡した。
「……来たか」
夕暮れの山へ、蹄の音が低く響いた。
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