おっしゃる通りだと思います。こんなお話を書いてみました。
【今川義元先生の教養授業!】
https://kakuyomu.jp/works/16818792440296721768/episodes/2912051601076387968
作者からの返信
コメントありがとうございます。
拝見しました。何とも味のあるやりとりですね。
三河生まれなのですが、今川が影響力を持っていた東三河は山がちで、織田が影響力を持っていた西三河は平地なんですよね。岡崎平野とはいいますが、平野部は岡崎よりも西にある安城や刈谷あたりが中心です。
三河の石高は戦国時代だと20数万石ですが、米は三河の真ん中あたりを流れる矢作川よりも西でとれるわけです。
そもそも尾張は濃尾平野があって農地が広く、おまけに物流も盛んで金も人も手に入る。
経済力が大きく違ったのは間違いないと思います。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
なるほど勉強になります。地形も考えるべきですね。
第23話 追記――本編で触れきれなかった七つの補足への応援コメント
完結お疲れさまでした。
本当に楽しい時間を共有させて頂きありがとうございました。
私の長いコメントにもお付き合いいただきありがとうございました。
また機会がありましたら(お時間がありましたら)第2段を是非ともお願い致します。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
レビューもありがとうございます。ちょっと繁忙期なので、また返信いたします。
お楽しみ頂けてよかったです。
かつて電子書籍で出したものの再編集なので、あまり手間がかかっていないんですよ。
続編……信長で書きたい事も書けることもあるとは思うのですが、手間が……歴史ジャンルで何か、というのであればいずれ書こうと思います。三国志が第二次世界大戦になると思います。
ただ、歴史考察はやはりそんなに伸びないみたいなので、架空戦記になると思います。
第23話 追記――本編で触れきれなかった七つの補足への応援コメント
こんばんは。完結おめでとうございます!
いや~、面白かったです。結論には全面的に賛同します。
まさに信長は人事を尽くして天命を待ち、天は彼を選んだのだと思います。
時間的空間的背景までをも包括した考察がお見事でした。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
まぁ、全ては私の妄想ですので(笑)
引き続き、よろしくお願い致します。
第23話 追記――本編で触れきれなかった七つの補足への応援コメント
完結お疲れ様です。
余り歴史に詳しくない方ですが、信長の歴史について一つ一つ戦法を描かれていて確かな内容だと感じました。
戦乱の中で戦う男同士の咆哮が今にも聞こえてきそうな感じもしました。
作者からの返信
コメントありがとうございます。全話を見て頂き、感謝致します。
できうる限り調べて書きましたが、当時の文献などは無理なので、間違いなどあったならごめんなさい。今後ともよろしくお願い致します。
編集済
コメント失礼します。今回も非常に面白く拝読しました!
桶狭間直後の密約説、非常に納得がいきます。ただ、眞門様の描く「したたかな元康像」に対し、**「この時元康はまだ17歳だった」**という点から、信長主導のプレッシャー(命令)だった可能性も考えてしまいました。
信長としても、太原雪斎に学んだ元康の優秀さは知っていたはずで、「敵に回すと厄介だが、三河を任せて味方に引き入れられれば最高の緩衝地帯になる」と、信長側から先に抱き込みに動いた(脅しと懐柔をかけた)のではないでしょうか。
そう考えると、大樹寺の自害伝説も「追手に追い詰められた」というより、「信長からの強烈な脅迫・密約の迫りに17歳の元康が精神的に極限まで追い詰められた場面」と捉えることもでき、その後の迅速な今川切り返しも「信長の背後からの圧力があったからこそ」と考えると、しっくり来る気がします。
17歳の元康と20代後半の信長、この二人の「力の勾配」から生まれる心理戦を想像すると、またロマンが広がりますね!
作者からの返信
コメントありがとうございます。
信長が大高城に入ったわけではないので、直接信長に怯えたとは思わないですが、ただ元康視点だと「義元様を打倒するとか、信長様はやはり只者ではない。一代の傑物だ」と思った可能性は高いでしょう。
私が歴史を見る時は「我々が当たり前のように感じていること」を、当時の人がどう見たか、を大切にしています。今川軍の大動員を元康が知らない可能性はゼロです。つまり「天地がひっくり返るようなことが起こった」と認識するはずなのです。
元康が織田軍本体がどう動くのか、気にしていなかったわけがありません。尾張57万石が根こそぎ動員できたら、2万人近く動員できます。
つまり、信長が本気で攻めてきたら、義元に勝てるかは別として、大高城にいる元康は消し飛ぶのです。
だから、信長の動きを見ていないわけがない。でも、把握できなかったはずです。義元が奇襲を受けたようにね。「信長恐るべし」が感想でしょう。
そして、元康が信長と交流がなかったこともあり得ません。
2年間、信長が熱田に行かないことも、元康に関心がないこともあり得ませんので、どう考えても「竹千代は有望な若者だ」「信長様は恐るべき切れ者だ」という評価だと思われます。
で、恐らく元康は「信長軍本体はどこから湧いて、義元様を討ったのだ」と考えるでしょうね。それくらい移動速度が速くて、情報管理がなされていた戦略的奇襲ですから。
長く清州同盟が守られたのは「信長様は恐るべき英傑」という認識が、桶狭間で元康の思考に刻み込まれたから、というのが個人的見解ではあります。大樹寺の自害伝説は信じていません。「簡単に信長に鞍替えした」と見られるのは、元康の不利益です。
「いやいや、わしも大樹寺で織田軍将兵に追い詰められ、死を覚悟したのじゃ」くらい吹聴するのは彼の立場として当然でしょう。それが事実でなくてもね。
でも、考えてみてください。大高城から信長本隊を無視して三河に帰るのは位置関係として無理なのです。元康は「義元様と戦って、信長軍も疲弊しているから、仇を討てば、今川家内部での発言権が上がる。岡部様と連携して信長を討とう」と考えることもできるのです。
でも、元康は信長本隊と交戦せず、無事に三河に戻れました。そして松平は以後、織田と大きな敵対行為はせずに、清州同盟に至ります。
普通に「密約があるから見逃してくれたんだ」「信長様なら、私との約束は守ると信じよう」だと私は見ます。
密約がなければ1562年までの間に、元康のいる三河を攻めとるという選択肢も信長にはあったはずですからね。信秀が何度もしていた通り、三河攻略は織田の安全保障上、できればしたいことですから。
こんばんは。
軍議をしなかったのが史実だとすると、やはり最初から急襲策しかないと考えていた気がします。しかも体力、気力ともに付いてこられる奴だけこいというスタンスで、ロートルの家老どもはあてにしなかったと。また逆に、今川の間者には軍議もしないアホ・うつけと見せて油断させておくことで、自らの行動を察知させないという、一石二鳥も三鳥も兼ねたような行動だったのかなぁ、な~んて想像してしまいました。
桶狭間の勝利は軍事的にも興味深いところで、必ずそれなりの理由があるはずなんですよね。御作ではそれが次々に明らかになる感じで非常にわくわく感があります。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
ご指摘はそうだと思います。ただ、全ては私の妄想でしかありません。もしかしたら「信長などという、うつけものは我が大軍の前に鎧袖一触よ」とか考えて、蹴鞠とかしていたのかもしれませんからね(笑)
私の中では『そもそも、織田勢が、今川本軍の位置を捕捉できたことが奇跡に近い』だったので、興味深く読んでおります。
作者からの返信
コメントありがとうございます。15・16話は「そのための努力を織田軍はしていて、最高の人材まで投入していたのではないか」という話ですね。
丸根砦勢・鷲津砦勢が、今川の兵力を分断させるという目的意識を持っていたかのようですね。特に丸根砦勢は、服部玄蕃らの進言も見事ながら、敢えて打って出た佐久間盛重も美事です。戦上手の元康の裏をかいて半数で善戦してます。
作者からの返信
信長が意味もなく、丸根砦勢・鷲津砦勢を置いていたとは考えにくいです。籠城するなら兵の引き上げをすべきところをしていませんからね。つまり最初から籠城する気は全くなく、領内を馬で廻っていたからこそ、大規模な軍の休憩を桶狭間でするだろう、みたいなアタリを付けていたと考えられます。そして、丸根砦・鷲津砦の包囲兵力とは、信長本隊からすれば遊撃路近辺の敵兵力と言えます。
つまり、丸根砦・鷲津砦の包囲兵力を、何らかの形で拘束しなければ、今川義元本隊を直接狙いにくい。
こうした観点で、敵兵力を拘束するために、信長は両砦を撤収させなかったと理解しています。両砦側の織田軍がその意図を理解していたかは、調べようもありませんが、小兵力ながら降伏せずに、ほぼ全滅まで戦うということ自体が信長への忠誠心を示しているようにも思えます。
コメント失礼します。
先日は熱量が高すぎて長文になってしまい失礼いたしました!(周りに語れる人がおらず、ついはしゃいでしまいました…)
今回もとてもワクワクしながら拝読しました。
ひとつ気になったのですが、利家が熱田で千秋家に身を寄せていた経緯を考えると、千秋秀忠を置き去りにして行動するというのは、感情的に少ししっくり来ない部分もありました。
ただ、250人もの兵を伏兵や警戒にあたらせるとなると、やはり佐々や千秋のような指揮官の存在は必要不可欠ですし…うーん、考えれば考えるほど深まりますね。
本当に戦国時代はロマンに溢れていて尽きないですね!次回も楽しみにしています。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
私も語れる人はいませんし、反響がある方が楽しいですから、どうぞ長文で語ってくださいませ(笑) こちらに返信できない場合は、近況ノートの16話スレでお願いします。
利家については、眞門説(笑)としては、熱田神宮の松岡家と信長は、ほぼ一体だったと理解しています。
熱田神宮の門前町は当時も栄えていたでしょうし、だからこそ旅人が集まっても怪しまれることがない。だからこそ、情報機関を対今川の最前線に近い熱田に置き、最も信頼する利家をその長とした。
熱田の門前町や街道にも、多額の投資をした(しからこそ、信長は恐ろしい速度で熱田に辿り着けたわけです)。
松岡家、千秋家は当然、織田側として協力しているということです。実際、今川の別動隊は熱田を狙い、撃退されています。織田軍の兵がいたということなのです。
で、利家は千秋秀忠と共に、今川軍に威力偵察を行ったと考えています。それだけ、義元の居場所を把握することは決戦要件であり、無能な人間にはできなかった、任せられなかったということですね。
コメント失礼します!
最近、歴史に興味を持ち始めたので、新鮮に感じる情報がてんこ盛りで楽しいです!
物語の中の信長は残虐性や、新しいもの好きというところをフューチャーしがちですが(北野武監督作品『首』では特に)このエッセイを読んでいるとそれだけではないと再確認できました。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
信長は「筋が通らないこと」に譲歩できないタイプであり、講和破りとかルール違反を重ねた陣営に対しては苛烈なのだと理解してます。身内女性も政略結婚で他国に嫁がせた例は非常に少ないですし、荒木村重とか松永久秀など、裏切った将に対してもむしろ寛容な方です。ちなみに、秀吉が浮気しているのを窘める手紙を書いたりとか、細やかな感性を持つ人でもありますね。
性格面も新しいもの好きということはそうだとは思いますが、伝統的な価値を無視するわけではないです(そもそも古典に詳しい男です)。桶狭間で勝った後に熱田神宮の修復をしたりもしています。
こんばんは。いよいよ桶狭間の真実が・・・ですね。手に汗握ります。
ところで少し本題から外れますが、弟の信行→信勝は最近の定説なのでしょうか。
(あ、拙作にレビューをありがとうございました)
作者からの返信
コメントありがとうございます。
『信長公記』では「勘十郎」とだけ書かれているのが信勝なのですが、江戸時代の『織田系図』では信行とされています。ただ、同時代の一次資料では花押や通称、文書内容を検討して「勘十郎信勝」「勘十郎達成」「武蔵守信成」とされており、「信勝」→「達成」→「信成」と改名したにしても、信行ではないと言うのが現在の研究のようです。
ちなみに、この先の見どころは前田利家と松平元康です。
第8話 700対1700――信長はなぜ兵を集めずに戦ったのかへの応援コメント
面白かったです。私の中では、信長って数で負ける戦いはあまりしないと思っていたのですが、勝てると分かればその限りでもなかったのか、戦うしかないときはよく分からなくても戦ったのか……
作者からの返信
コメントありがとうございます。
あまり言われていませんが、信長自身が重度の鍛錬マニア、軍事教練マニアなんです。変な恰好をしていたのでうつけ扱いされていたとよく言われますが、全て実戦的だったようですからね。つまり、信長側近の700人って、それについて来れる人たちで、多分、田圃を耕さないで、戦闘訓練ばかりしていたと思います。お金ありますからね。
ですから、人数が多い敵に対して、負けると思っていなかったんだと思うのです。尾張国内の敵は実力を熟知していたと思いますしね。
上洛軍は6万らしいので、必要なら集める人ですけどね。
第7話 暴風雨でも進んだ信長――村木砦で見えた決断と鉄砲運用への応援コメント
長篠の戦い。織田・徳川連合軍による鉄砲の3段撃ちが成り立たない理由
(yahooニュースより)
渡邊〇門
株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
2024/8/21(水) 5:00
天正3年(1575)5月21日、設楽原(愛知県新城市)において、かねて敵対していた武田勝頼と織田信長・徳川家康連合軍が雌雄を決するべく戦った。この戦いは、長篠の戦いといわれている。
この戦いが注目されたのは、武田勢が戦国最強の騎馬軍団で戦いに臨み、織田・徳川連合軍が最新兵器の鉄砲を3000挺も揃えていた点にあった。戦いの結果は、織田・徳川連合軍の勝利に終わったのである。
とはいえ、この戦いには大きな謎が残った。本当に武田の騎馬軍団はあったのか、あるいは織田・徳川連合軍が本当に鉄砲を3000挺も用意し、3段撃ちをしたのかという点である。今回は、後者を取り上げることにしよう。
小瀬甫庵『信長記』には、1000挺ずつ鉄砲を放ち、一段ずつ入れ替わるよう指示したという記述がある。3000の鉄砲部隊を1000ずつ3つに分け、代わる代わる撃つという合理的なものだった。
しかし、『信長記』は史料の質が劣るので、この記述は疑わしいとされている。一方、同じ二次史料でも信頼度が高い太田牛一『信長公記』に3段撃ちのことが書かれておらず、3000という鉄砲の数も疑問視されている。
『信長公記』には、1000挺の鉄砲を佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人の奉行に配備したと書かれている。単純計算すれば、1人あたり200挺ずつということになろう。
実際のところ、鉄砲を撃つのは高度な技量を必要とし、3段撃ちは難しいと考えられる。また、1000人が横1列に1m間隔で並ぶと、端から端まで約1kmも離れてしまう。射撃の準備の指示から、「撃て!」との号令に至るまで、全員にその声が届くかどうか疑問である。
つまり、鉄砲の3段撃ちというのは、史料の問題というよりも、現実的に考えて不可能ということになろう。
◇
だ、そうです。私は3段撃ち有ったと思いますよ。馬防柵は2kmもありますし、号令を一人が出すとは考えられません。5奉行ならば5人が号令を出す方が効率がいい。(一人だとまだ敵が来ていない所も発砲することになるし)また、号令自体、例えば左側が打てば自分も撃つとか決めておけば1人か2人に号令を出せばいいだけです。
あと、空堀や土嚢でかさ上げをした高台から撃ちおろすので、かなりの命中力があったと思われます。信長公記も牛一が3段撃ちを普通の運用と思っていれば書きません。
長々と申し訳ありません。以前読んで、ちょっとムカついた記事だったので愚痴りました。ごめんなさい。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
同時代の事例としては、明の戚継光が1560年ごろに「火縄銃兵を二層あるいは五層に編成し、前の組が射撃している間に別の組が準備し、順番に撃たせる方法」を考案して、『紀効新書』に記載しています。
そもそも中国では弩の輪番射撃という事例があり、再装填しながら順番に撃つのは当たり前のことです。
で、1594年にオランダのウィリアム・ルイス・オブ・ナッサウも「前列が撃ったら後ろへ移動し、次列が撃つ。その間に最初の列が装填する」というカウンターマーチを提案していますので、「現実に考えて不可能」と言い切るのは理解しがたいです。
東京大学史料編纂所の金子拓氏も「3000挺を1000挺ずつ三列にして交替射撃」という意味での三段撃ちは否定されているが、「交替射撃的な攻撃がまったくなかったと言っているわけではない」と説明しています。
『信長公記』でも「鉄砲隊に複数の奉行を置いたことを記録している」わけですから、当然、射撃タイミングを統制したり、優れた射手に装填済みの銃を渡して命中率を高めるといったことは、当然行われていたでしょう(第7話で書いた通りです)。
で、別に「撃て」なんて言う必要ないでしょ。旗でも上げればいいだけじゃないですか。どの兵士だって敵軍が迫っているのは見えるわけですから、不可能なわけがないです。射撃タイミングの統制は、黒煙が一斉に上がって視界を遮らないためとか、別の意味で必要ですよね。
凄く勉強になります。
たしか、当時は東尾張や西三河での織田家と今川家のいざこざが有った位の認識でしたが、そうした背景があるとは思ってもおりませんでした。(恥ずかしながら信定なんて蚊帳の外でしたので)
次回も楽しみしています。
作者からの返信
コメントありがとうございます。この後で語ることになりますが、織田信秀と今川家の抗争もかなり深い歴史があったりします。例えば、そもそも那古野城を作ったのは、今川義元の父・今川氏親です。1538年に織田信秀は義元の兄弟とも言われる、今川氏豊を騙して、那古野城を奪い取ったようです。『信長の野望』では1534年シナリオでも那古野城が今川ではない記憶がありますが、実はそんな因縁もあります。信秀が41歳で早死にしなければ、歴史は大きく変わったと思います。
今川義元の再評価、めっちゃ楽しみにしています!
本当に信長勝利が謎ですよね(๑´◡`๑)
作者からの返信
コメントありがとうございます。かなりきっちりやりますので、お楽しみに。今日の18時更新予定です。義元は本当の名将だと思っています。義元を討ち取った後の信長の弔いは、敬意しかありませんもの。
すっごく興味深く読まさせて頂きました。
私の某シュミレーションゲームで得た知識とは……、比べるのも失礼でした。
申し訳ありません。
作者からの返信
コメントありがとうこざいます。
何をおっしゃいますか。池田さん滅茶苦茶詳しいじゃないですか。貴方に褒められるのは、正直励みになります。
いつか文珠みたいに生き生きと、力強く戦国時代を描いてみたいですが、私がやると多分理屈っぽいものになりそうです(笑)
歴史に詳しくないのですが、織田勢が今川軍を破ったというのが奇跡らしいですね。
作者からの返信
コメントありがとうございます。兵力差からすれば北条氏康の河越夜戦や、毛利元就の厳島の戦いと同じく、奇跡としか言いようがありません。ただ、何もしないで都合よく奇跡が起きたわけではない。そのことを書いていく考察です。
第23話 追記――本編で触れきれなかった七つの補足への応援コメント
私も歴女の類で、戦国史は好きですが、桶狭間に関してここまで綿密に調査し、詳細に書かれたエッセイは初めてみました。史実に沿って丁寧に論述され、理路整然としていて面白かったです。
最近、戦国三英雄の曲を創ってYoutubeにアップしましたので、是非ご覧下さい。
・信長疾走曲 ・秀吉ロッケンロール ・家康逆襲曲 ・辞世の唄 ・夢の如し…です。下記、ポッドキャストキャストで全曲連続で見れます。↓
https://www.youtube.com/watch?v=r6zvrY5D4GI&list=PLU2i0TVIFg4k
作者からの返信
コメントありがとうございます。
詳しい方に褒めて頂き、光栄です。
曲についても聞かせていただきます。多彩で凄いですね。