第2話 それぞれの恋人
千尋先輩に彼氏がいると知ったのは、大学に入って一か月ほど経ったころだった。
誰かに教えてもらったわけではない。
ある日の夕方、練習を終えて寮へ戻ると、玄関の前に千尋先輩がいた。
男の先輩と二人で話していた。
見覚えのある人だった。
野球部の先輩で、僕も何度か話したことがある。
二人はただ話しているだけだった。
手をつないでいるわけでもない。
千尋先輩が何かを言う。
男の先輩が笑う。
千尋先輩も笑う。
それだけ。
それなのに、なぜか分かった。
「あの二人、付き合ってるんですか?」
その日の練習後、何気ないふりをして別の先輩に聞いた。
「ああ。知らなかった?」
「知らなかったです」
「結構長いんじゃない?」
「へえ」
それ以上は聞かなかった。
聞く理由もなかった。
千尋先輩のことが好きだったわけではない。
少し話すようになっただけだ。
彼氏がいても、僕には何の関係もない。
実際、そのあとも何も変わらなかった。
廊下で会えば、
「航平君、お疲れ」
「お疲れさまです」
それくらいは話した。
食堂で近くになれば、野球のことを聞かれた。
「今日、試合だった?」
「そうです」
「勝った?」
「負けました」
「あら」
「その顔やめてもらっていいですか」
「どの顔?」
「かわいそうな後輩を見る顔」
「してないって」
千尋先輩が笑う。
僕も笑う。
でも、それだけだった。
彼氏がいると知ってから、僕は自分から千尋先輩を探すことが少し減った。
減った、というより。
探していることに気づいたら、やめるようになった。
理由は自分でもよく分からなかった。
大学生活は、僕が思っていたより速く日常になった。
校舎で迷うこともなくなった。
寮の食堂にはいつも座る場所ができた。
野球部の上下関係にも少し慣れた。
そして、同じ学年の由奈と話すようになった。
きっかけは、授業だった。
「航平、昨日のノート見せて」
授業が始まる前、突然そう言われた。
「なんで?」
「寝てたから」
「知らんよ」
「お願い。航平様」
「絶対思ってないだろ」
「思ってる、思ってる」
「二回言うと余計嘘っぽいんだけど」
「細かい男はモテないよ」
「借りる側が言うなよ」
そう言いながら、結局ノートを渡した。
授業が終わると、
「ありがとう。命の恩人」
と返された。
「安い命だな」
由奈が笑った。
それが最初だった。
次の日も話した。
その次の日も。
気づけば、授業の前には由奈が僕の近くに座るようになっていた。
由奈はよく喋った。
僕が一つ答えると、そこから三つくらい話が増えた。
高校時代の話。
好きな食べ物。
嫌いな先生。
行ってみたい場所。
どうでもいい話ばかりだった。
でも、そのどうでもいい話が楽しかった。
ある日、授業が終わってスマホを見ると、由奈からメッセージが来ていた。
『今日、練習?』
『うん』
『何時まで?』
『たぶん7時』
『頑張れ野球少年』
『少年ではない』
『私から見れば少年』
『同い年だろ』
『精神年齢の話』
『失礼すぎる』
スマホを見ながら笑っていると、隣にいた部員から、
「何ニヤニヤしてんの?」
と言われた。
「してないです」
「女?」
「違います」
反射的に否定した。
でも、たぶんそのころには、少し好きになっていた。
由奈とは、授業以外でも会うようになった。
一緒に昼を食べた。
練習がない日に買い物へ行った。
夜、電話をするようになった。
電話を切ったあと、
明日も話せるかな、
と思うことが増えた。
千尋先輩に感じていたものとは違った。
千尋先輩は、見つけると少し嬉しい人だった。
由奈は、自分から会いたいと思う人だった。
だから僕は、
由奈のことが好きなんだと思った。
夏が近づいたころ、僕から告白した。
帰り道だった。
特別な場所でもなかった。
駅へ向かって二人で歩いていた。
由奈がコンビニで買ったアイスを食べながら、
「暑い」
と何度も言っていた。
「由奈」
「ん?」
「付き合わない?」
由奈の足が止まった。
「……今?」
「今」
「ここで?」
「場所いる?」
「もうちょっとあるでしょ」
「じゃあ今のなし」
「なしにするな」
由奈が笑った。
少しだけ歩いてから、
「いいよ」
と言った。
「ほんと?」
「嘘で言わないでしょ」
そう言って、またアイスを食べた。
もっと劇的なものだと思っていた。
でも実際は、そんなものだった。
その日から、由奈は僕の彼女になった。
千尋先輩に知られたのは、それから数日後だった。
食堂で会った。
「航平君」
「はい」
「彼女できたんだって?」
「なんで知ってるんですか」
「知ってるよ、それくらい」
「早くないですか」
「寮をなめないで」
千尋先輩が笑った。
「由奈ちゃんでしょ?」
「名前まで知ってるんですか」
「かわいい子じゃん」
「そうですね」
「お」
「なんですか」
「ちゃんと即答した」
「何のテストですか」
「大事にしなよ」
「分かってます」
千尋先輩は満足そうに頷いた。
僕は少し迷ってから聞いた。
「千尋先輩も、彼氏いますよね」
千尋先輩が僕を見る。
「知ってたんだ」
「まあ」
「誰に聞いたの?」
「最初は、見てたらなんとなく」
「見てたんだ」
一瞬だけ、返事に困った。
「いや、二人をですよ」
「分かってるって」
千尋先輩が笑う。
「お互い恋人いるんだね」
「そうですね」
「なんか変な感じ」
「何がですか?」
「別に」
そう言って、千尋先輩は友達のところへ戻っていった。
僕はその後ろ姿を少しだけ見て、
すぐに食事へ戻った。
由奈と付き合ってから、僕の毎日は少し忙しくなった。
授業。
野球。
寮。
その合間に由奈と会った。
夜になれば電話をした。
楽しかった。
由奈から連絡が来ると嬉しかったし、次に会える日を考えるのも好きだった。
僕はちゃんと、由奈が好きだった。
それは間違いなかった。
ある夜。
「じゃあ、明日ね」
「うん。おやすみ」
由奈との電話を切った。
喉が渇いて、僕は部屋を出た。
消灯後の寮は静かだった。
廊下の突き当たりにある自動販売機だけが白く光っている。
小銭を入れようとしたとき、
「あ、航平君」
振り返った。
千尋先輩だった。
部屋着の上に薄いパーカーを羽織っていた。
髪も、昼間より少し無造作だった。
「まだ起きてたんですね」
「それ、こっちのセリフ」
「飲み物です」
「私も」
千尋先輩が僕の隣に立った。
「何してたの?」
「電話です」
「由奈ちゃん?」
「はい」
「仲いいね」
「まあ」
「幸せそうで何より」
「千尋先輩は?」
「何が?」
「彼氏と」
「ああ」
千尋先輩は少しだけ考えて、
「普通だよ」
と言った。
普通。
その言葉が、なぜか少し気になった。
でも聞かなかった。
千尋先輩が水を買う。
ガタン、と音が響いた。
ペットボトルを取り出して、
「航平君」
「はい?」
「彼女、大事にしなよ」
「大事にしてますって」
「そっか」
「なんでそんなに言うんですか」
僕が笑うと、
千尋先輩も笑った。
「なんとなく」
それだけ言った。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
千尋先輩は廊下を歩いていった。
僕は自動販売機の前に残った。
ボタンを押す。
ガタン。
缶を取り出して、部屋へ戻った。
机の上に置いたスマホが光る。
由奈からだった。
『おやすみ。また明日ね』
『おやすみ』
そう返して、ベッドに横になった。
由奈のことが好きだった。
明日も会いたいと思った。
それなのに、
眠る直前に思い出したのは、
自動販売機の白い光の中で、
「なんとなく」
と言って笑った千尋先輩だった。
どうしてなのかは、
まだ、
僕にも分からなかった。
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