第十九章 日を入れる

 二月三日は、朝から冷えた。

 わしは昼まで部屋におった。何もせんかった。

 昼過ぎに湯屋へ行った。二月三日の昼に湯屋へ行く男は、ほかにおらんかった。番台の婆さんが、めずらしいな、と言うた。

 髭を剃った。

 剃ってから、なんで剃ったんか分からんかった。


 現場は、旭区の、市電の通らん道やった。

 両側が板塀で、街灯が二本。夜になったら、真ん中が暗い。

 六時に行ったら、もう若い男が立っとった。

 二十四、五か。防寒着を着て、手を突っ込んで、道の端に立っとる。

 わしを見て、頭を下げた。

「樽井さんとこの」

「へえ」

 それだけやった。名乗らんかった。

 この男は、車を選ぶ役や。

 わしは、少し離れたとこに立って、この男の仕事を見とった。

 車が通るたんびに、目で追う。追うて、首を振る。追うて、首を振る。

 一時間ほど見とって、この男が何を見とるか分かった。

 まず、荷台や。荷が載ってへん車を見とる。空車は帰りや。帰りの運転手は急いどる。

 次に、車の古さ。新しい車は会社が大きい。古い車は小さいとこか、個人や。

 それから、走り方。真ん中を走る車は見送る。左に寄って走る車を待っとる。

 左に寄る運転手は、慎重な運転手や。

 慎重な運転手を選んどる。

 わしは、そこが分からんかった。

「なんで、丁寧に走っとる車を待っとるんや」

 訊いたら、若い男は、こっちを見んと答えた。

「乱暴な人は、逃げますさかい」

 わしは、その一言を聞いて、板塀に手をついた。

 逃げられたら、金にならん。

 轢いて、停まって、警察を呼んで、泣いて、正直に喋る運転手が要る。

 いちばんまともな人間が、いちばん都合がええ。


 九時半に、園部が来た。

 驚いた。

 髪を刈っとった。

 紺の上着に、ネクタイまで締めとる。靴も磨いてある。

「園部さん」

「どうも」

 園部は、寒そうに肩をすくめた。

「散髪、行かはったんですか」

「今日の昼に」

 わしは、自分の顎に手をやった。

 髭を剃っとった。

 同じことを考えとった、いうことになる。

「雲井さん」

「はい」

「これ、もろてもらえますか」

 園部が差し出したのは、暦やった。

 米屋がくれた、昭和三十九年の暦や。折り畳んで、紐で結んである。

「置いといても、しゃあないさかい」

「わしがもろても、しゃあないですやろ」

「そうですな」

 園部は笑うた。

 笑うたが、わしは受け取った。

 受け取ってしもた。


 十時前に、若い男が手を上げた。

 北から、小さいトラックが来る。

 荷台は空や。左に寄って走っとる。速うない。

 園部が、上着の前を直した。

 直してから、こっちを向いた。

「園部さん」

 わしは、口を開いた。

 開いたが、そこから先が出てこんかった。

 やめとけ、と言うつもりやった。

 言うたら、この男は困る。今日やめたら、薬が止まる。止まったら、三月か四月に布団の上で死ぬ。零や。

 言うたら、この男の四月が無駄になる。

 高田の女房と同じや。

 わしには、この男に渡せるもんが何もない。

 十八万は断られた。

 言葉は、もっと軽い。

「雲井さん」

 園部が言うた。

「書いてくれはるんでっしゃろ」

 わしは、頷いた。

 頷いてしもた。

「ほな、よろしゅうお願いします」

 園部は、頭を下げた。

 深う下げた。

 商売人が客に下げる、ちゃんとした下げ方やった。

 それから、道の真ん中へ歩いて行った。

 わしは、板塀のとこに立っとった。

 園部が、こっちを向いて立った。

 両手を、胸の前で揃えた。

 六車と同じ形やった。辰巳と同じ形やった。

 六車が教えた形と違う。

 樽井が言うた形や。

 トラックのライトが、園部を照らした。

 ブレーキの音がした。

 思うとったより長い音やった。左に寄って走る運転手は、慎重や。慎重な分だけ、踏むのが速い。

 速う踏んでも、間に合わんかった。

 音は、辰巳のときと同じくらいやった。


 そのあとのことは、体が勝手に動いた。

 運転手を、車から降ろした。二十九か三十の男で、鉄工所の名前が入った作業着を着とった。膝が笑うて、立てんかった。板塀に座らせた。

 派出所へ走って、電話を借りた。蒲生の名前を出した。

 救急車が来た。医者が来た。園部は病院で死んだいうことになった。ほんまは道の上で死んどった。

 運転手の名前を訊いた。西尾いうた。

 西尾はんに、名前と勤め先と、家族のことを訊いた。所帯持ちやった。子が二人おった。

「わし、どないなりますねん」

「なりまへん」

 わしは言うた。

「あんたは何も悪いことしてまへん。相手が急に出てきたんです。急に出てきた者を避けられる車はありません」

「せやけど」

「せやけど、やない。あんたは左に寄って、速度も出さんと走っとった。それはこっちが見とった」

 西尾は、わしの顔を見た。

「見とったんですか」

 わしは、そこでいっぺん、間を置いた。

「たまたま、そこにおりました」

 嘘やない。

 嘘やないことだけ言うのが、わしの流儀や。


 蒲生が来たのは十一時過ぎやった。

 現場を見て、わしを見て、それから何も訊かんかった。

 手帳を出して、鉛筆を舐めた。

「下書きは」

「これから書く」

「そうか」

 蒲生は、それだけ言うて、板塀のほうを見た。

 園部が立っとった位置に、石灰の輪が引かれとる。

「クモはん」

「なんや」

「あんた、ここにおったんか」

「おった」

「なんでや」

 わしは、答えんかった。

 蒲生も、それ以上は訊かんかった。

 七年や。訊かんことで成り立ってきた仲や。

 その七年が、この晩、いちばん役に立った。

 いちばん役に立ったいうことは、いちばんあかん形で使うたいうことになる。


 部屋へ帰ったのは、二時過ぎやった。

 火鉢に炭を足して、机の前に座った。

 鞄から紙を出した。

 書いた。

 書きやすかった。

 十年でいちばん、書きやすかった。

 事実は揃うとる。運転手は左に寄って、速度を出してへんかった。被害者は道の真ん中に立っとった。それは書かん。書かんでも、書くことは幾らでもある。夜間、照明不足、前照灯下向き、進路前方の注視不十分。

 全部、ほんまのことや。

 一時間で上がった。

 上がってから、しばらく紙を見とった。

 この紙で、園部フサ子に百万円が渡る。

 この紙は、間違いなく人を助ける。

 その紙を書いた手で、わしは何をしたか。

 考えるのをやめて、内ポケットから封筒を出した。

 園部から預かった、娘への手紙や。

 差出人の下が、少し空いとる。

 わしは鉛筆を持った。

 持って、そこへ日を入れた。

 昭和三十九年二月三日。

 入れてから、その字を見た。

 わしの字や。汚い字や。

 園部の丁寧な字の下に、わしの汚い字で、あの男が死んだ日が入っとる。

 その手紙は、娘が一生持っとるやろ。

 持っとるあいだ、その日付だけが、わしの書いたもんや。

 そう思うたら、鉛筆が置けんようになった。

 置けんいうのは、手が震えたんやない。

 置けんかったんや。

 しばらく、持ったまま座っとった。


  園部フサ子様


  前略 お父さんです。

  長らく音沙汰なしにて申し訳ありません。

  このたび思いがけぬ事故に遭い、残念なことになりました。

  保険金が下りることになりましたので、そちらへ回るよう手続きをしてあります。

  金額のことは樽井様にお尋ねください。悪いようにはされません。

  母さんの位牌のことだけ、頼みます。

  草々


  園部末吉


  昭和三十九年二月三日

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