2. 図書館の法則②
二階から三階へ上がってみると、そこは正六角形の内壁に囲まれた空間であった。壁の中央にはそれぞれ一枚の扉があり、螺旋階段の続きは上階へと続いている。三階の構造は扉の枚数を除いて二階とまったく同じである。
「この階から上はすべて書庫だよ」
螺旋階段の手摺から身を乗り出し上の方を覗いてみる。渦を巻く階段は各階の明かりを受けて闇の中にぼんやりと浮かんで見えるが、十も数えないうちに暗闇に溶けて奥は見えなくなる。
「何階まであるんですか?」
「さあ? たくさんであることは確かだよ」
「最上階ってどれくらい上にあるんでしょうね?」
「そりゃ建物なんだから、どこかにはあるだろう」
「そうですよね」
あまり意味のない問いであることは察せられた。じっと上方を覗いている私を、おばけがそわそわしながら待っている気配がする。あまり待たせるのも可哀想なことだ。手摺から体を戻した私に対し、おばけは手招きして扉の一枚に誘った。
促されるままに扉を開くと、そこは台形の大きな部屋であった。入口は台形の短辺にあたるところにあり、奥に行くほど部屋は幅広になっていく。その空間に書棚が並び、どの書棚にも書物がぎっちり詰まっている。壁に沿って並ぶ書棚に加えて、部屋の中央にも入口から見て垂直方向に書棚が向かい合わせに並んでいる。その書棚群の手前には閲覧席に相当する小机と椅子がある。そして入口からまっすぐ正面には奥側の壁があり、さらに奥へ続く扉を確認できる。
「上階含めた他の部屋は全部ここと同じつくりをしている。台形の部屋に書棚と本がたくさん。君たちは好きな部屋で好きな本を好きなだけ読んでいいし、気に入った本があれば部屋に持ち帰ってもいい」
「全部で何冊くらいあるんです?」
「どれくらいだろうね。ここには原理上存在しうる本は全て存在するから、無限という答えになる」
途方もない答えに私は思わずおばけの方に向き直る。
「本、特に文字だけで書かれた本というのは、突き詰めて言えば例外なく文字の順列だ。有限の種類の文字を全通り並べてやれば、原理上全ての本が存在することになる。歴史から抹消されたものも含めたあらゆる本、あるいはこれから先の未来に書かれうる全ての本、それらは等しく文字の順列なのだからね。かの伝説の図書館には、そうやって書かれたあらゆる本が収蔵されている。初めてその話を聞いた時、ぼくはとても感銘を受けてね、伝説の図書館と同じものを作ることにしたんだ」
おばけは宙高く舞い上がり、手を広げて書棚の間をくるくると回りながら自慢げに飛んでいる。
私は書棚から適当な一冊を手に取り、開いてみる。でたらめな文字の羅列が飛び込んできて、目がちかちかする。とても次のページをめくる気にはなれない。他の本も同様で、まともな本を見つけることは極めて困難であることが察せられた。どこかにちゃんと読める本だけをまとめた場所があるのだろうか? しかし手に取った本の表紙、裏表紙、背表紙のいずれも濃緑の無地の布で装丁されており、その本の内容を伝える情報は一切見当たらない。書棚にも本を分類して整理しようという意思の痕跡は見当たらない。
「こんな状況だと読みたい本がどこにあるかわからないのでは?」
「おや、君はその本の見た目や表題だけでその本が自分の読みたい本かどうかがわかるのかい?」
「開いてみて、目に入るのが文章ですらなかったら、それは読みたい本じゃないってことくらいはわかります」
「ははは、それはそうだ」
おばけは頷きつつ「だけど」と切り返して続ける。
「ありとあらゆる本が自分の手中にある、という事実が大事なんだよ。本はとてもいいものだ。体をここに残したまま、心はあらゆる場所とあらゆる時代を旅することができるのだから。そして最後の一ページを読み終えて、ぱたん、と背表紙を閉じたときの浮遊感! ぼくはそれがたまらなく好きなんだ。ぼくはおばけで、ぼくには永遠の時間がある。ぼくは時間さえかければ、本を通してありとあらゆる場所と時間の全てを旅することができる。開いてみた本がでたらめな文字の羅列だった? じゃあ次の本をあたればいい。それだけのことさ」
おばけは私の目の前に下りてきて、にいっ、と笑った。
「それはなんというか、とても根気の要る話ですね」
「根気強さもひとつの才能だね。ぼくは才能に恵まれたというわけだ。ありがたいことだよ」
おばけの時間感覚とは大したものだと感心してしまった。
「君はこの図書館にある本を自由に手に取っていいし、もし面白い本を見つけたらぼくに紹介してほしいと思っているけど、まあ、大抵の客人はすぐに諦めてしまうものだよ。仕方ないね。だから、『こんな本を読んでみたい』というのがあれば、ぼくの知っている範囲の中から紹介することもできるよ。お気に召さないものだったら申し訳ないけども」
「はあ、ありがとうございます」
とりあえず礼を言ってみたが、どうやらおばけの期待した答えではなかったようだ。おばけはじっとこちらを見て、何かを待っている。
やがて何か見切りをつけたらしい。
「まあ、今すぐ思い浮かばなくても、もしかしたらそのうち何か思いつくかもね。もし何か読んでみたい本があれば、遠慮なく言ってね。すぐに紹介してあげるから。それでね、ぜひ感想を聞かせてほしい」
「感想?」
「そう。本というのは自分ひとりで読むだけでなく、同じ本を読んだ人と感想を語らいあうのも楽しいことなんだよ。そういうのはさすがにぼくひとりだけではできないことだからね。あ、もし、これだっていう本が思い浮かばなかったら、ぼくの勘で君に合いそうな本をおすすめすることもできるからさ」
「考えておきます」
「くれぐれも頼んだよ。どうせ君はしばらくここから離れられないのだからね、のんびり読書をしたらいい」
頼んだよ、と繰り返し念押しをしておばけは、すうっと薄らいで消えていった。
一人残された私は、一応何冊かの本を手に取り開くということをしてみたのだが、やはりいずれもでたらめな文字の羅列であった。二文字か三文字くらいであれば、稀に意味のある単語になっているものもあったが、それは広大な砂浜にぽつんと埋まっているガラスの欠片のようなもので、それ単体では何の物語も見出すことができないものである。自力で私に読める本を探すことは早々に諦めた。
それよりも、私には先ほどから気になっているものがあった。それは、入口から真正面にある扉である。奥へ続く扉は二階の客室にはなかったものであるから、その先に何があるかを覗いてみたく思う。
おばけの気配がしないことを確かめて、私は奥へ向かい、その扉に手をかけ引いてみる。
きい、と軽い音と手応えとともに扉は開いて、すぐ目の前は壁であった。左右には細い廊下が続いていて、外側には格子状の窓があり、通路の先はそれぞれ内壁に沿って斜め前方に折れている。窓からは明るい光が射しこんで、壁や床の木目の陰影を浮かび上がらせていた。
うん、わくわくする。
とりあえず右側の方から歩いてみることにする。廊下の幅は私一人分しかなく、とても他のひととすれ違うことなどできなさそうであった。窓の外は深い霧に覆われている。霧がなければそこには何があるだろうか。森、平野、山、あるいは海など、考えられる可能性は色々あるが、実際に今何が外にあるのかはわからない。そしてもちろん、窓は開かない。(取っ手はあるのに!)
そのような廊下を歩くうちに、私は元の場所に戻ってきたらしく、廊下や建物の構造を理解した。この建物はどうやら全体が正六角形のかたちをしているようだ。今私が歩いた廊下は外壁に沿って作られたものであるらしい。百二十度の曲がり角を曲がるたびに、書庫に通じているだろう扉が一枚右手側にあり、窓は左手側に等間隔で二枚並んでいた。そのような曲がり角を六回曲がって辿り着いたのが元の場所であるというのは、幾何学的に考えて当然の帰結である。
書庫を通り抜けて、階段のある正六角形の間に戻る。三階から四階へ上ってみれば、やはりそこにあるのは三階と同じつくりの空間である。扉を開ければそこは書庫である。奥には扉が一枚あり、開けてみれば先ほど下階で見たものとまったく同じ構造の廊下がある。窓の外は深い霧に覆われている。
曲がり角を三度曲がって、扉を開ければ案の定そこは同じ構造の書庫である。本を手に取って開けば、やはりそれはでたらめな文字列のページである。書庫を通り抜けて中央に戻れば、そろそろ見慣れた正六角形の空間である。
五階、六階も確かめてみたが、まったく同じ構造であった。もうおなかいっぱいだった。
階段を降りて、自室に戻る。シーツを脱いで、ベッドに両腕を投げ出し、天井を見上げる。なるほど、ここはそういう場所なのか、と認識を更新する。あのおばけの言う通り、ここはありとあらゆる本が収蔵されている場所で、無限にある本を書棚に収めるために、おそらく空間自体が歪んでいるのだろう。七階以降も上階は無限に続いているのだろうし、だから、最上階の有無について訊ねたときもおばけの回答が曖昧だったというわけだ。今さらながら、自分はとんでもない場所に迷い込んでしまったらしい、という事実を受け止めた。
私はちゃんとあなたのところに帰れるのだろうか?
これまでもうんと遠いところまで旅することはあったけど、いざとなれば来た道を戻ればよいという点で、帰り道は見えていた。しかし今回はどうだろう? 漂流する船のように、帰り道自体が絶たれてしまっているようなものだった。帰り道がないならば、前進した先にしか帰路はない。あのおばけの言う通り、この図書館がいつか同じ時間と場所に出現するというなら、その機会を逃さないようにしなければならない。それがいつのことなのかはわからないが、いつか来るならば、その時を待つほかにないのだろうか。
急に心細くなる。涙が出そうになる。
だけど私は、ぐっと堪える。
私は必ず帰るのだ。そして、あなたに、こんなことがあったんだよ、という土産話をするのだ。だから、私はここに永遠に閉じ込められるわけにはいかない。私は、必ず帰るのだ。
そのためにどうしたらいいか、というのはわからないけど、それは必ず今現在の延長線上にあるものだ。だから私は愚直に今の状況、今の心境を記録し続けるのである。そう、今この瞬間のこともである。
――そのように考えて、私は机に向かって今日の日記を書き始めようと試みたのだった。そして、はたと気付いた。
あのおばけの言う通り、本とは突き詰めれば文字の順列であり、ここには全てのパターンの文字列が並べられている。そして、この旅日記もまた文字で書かれたものである以上、【今私が書いているこの旅日記と同じものが、この図書館の中にあるということになる】。
それだけではない。私がこれまで書き綴ってきた旅の記憶、そしてこれから先の未来に書き綴ることになる旅の記憶、それらも全て漏れなくここにあるはずだ。だから、たとえば――これは言葉にしてしまっていいものか……ううん、だけど、だけど、そんな迷いすらもここでは内包されるものであるから、書いてしまうのがいいのだろう。
たとえば、未来の旅日記を探しだして、それを持ち出すことができたならば、もうこれ以上私が旅を続ける理由さえもなくなるのではないか? そんなことに気付き、動揺し、逡巡した気持ちを記した文章もまた、この図書館の中のどこかに。
それだけではない。私が今書いているこの文章の続き。たとえば私が旅をするなかで二又にわかれた道があって、どちらに進むか悩む一文があったとしよう。悩んだ末に私はどちらかを選んで道を進み、その先での体験を日記に書き記す。だが、もし私がもう一方の道を選んだとしたら、私はその先でも特別な体験をしたはずで、それを記述した架空の日記もまた、ここには既に書かれたものとして存在していることになる。
無数の存在しうる限り全てのスピラが、いる。それぞれのスピラの旅日記が、ここにあるのだ。
では、今こうやって筆を握りしめている私は? 誰なのだろう?
そんなことを考えたら、自分という存在が、すうっと薄らいでいったようで、冒頭の通りさびしくなってしまったというわけである。
しかし書きながら私は気付いていた。たとえここには無数の「スピラの旅日記」があるとしても、今こうして筆を握る私はただ一人なのだということに。
たしかに、私が最後に書き上げる旅日記とは、この図書館の中に無数に存在するもののうちの一冊なのかもしれない。しかしその一冊に辿り着くまでの旅の軌跡は他ならない私自身と、そしてあなた、私たち二人で歩んだ唯一の旅の軌跡なのである。
私はこれまで書いてきた旅日記を見返してみた。旅の記憶がありありと蘇る。たとえば直近のものであれば、渡り鳥の墓場での出来事。空気が重たく湿っていたこと、厚い雲の奥に鈍い光が透けていたこと。旋回する渡り鳥の鳴き声のさびしさ、そこで触れた骸の冷たさ、墓前で捧げた祈りの静けさ。これらは今なお私の五感に残るものである。文字にすればそういう出来事があったということだけど、そこで想起される感覚は私たちの想像力に委ねられるものである。
私の日記を読み追体験することで得られる感覚とは、はたして無機的な文字列からも同程度に得られるものだろうか。二本の足で、二つの目で、二つの耳で、きちんと生きて考え悩み、己の心に届いたものを愚直に感じ続けてきた私と、私という人間をよく知るあなただけの特権ではなかろうか。
あのおばけには、そういう生きた記憶があるのだろうか。ありとあらゆる本を手に入れたと喜んでいた姿を思うと、ほんのちょっとだけ、あのおばけが可哀想だと思ってしまった。
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