第105話 Day 69 人を動かすもの 

 黒崎が目を覚ました時、そこには昨日までと何一つ変わらない朝があった。


 天井に埋め込まれた照明は一定の明るさを保ち、通路を流れる空調からは温かな風が絶えず送り込まれている。起床時刻を知らせる放送が施設内へ静かに響き始めると、簡単な身支度を済ませた人々が部屋から出て、それぞれの職場や食堂へ向かって歩き始めた。


 地上では今も氷点下三十度の世界が続いているというのに、この地下では蛇口をひねれば水が出る。決められた時間になれば温かな食事が配られ、夜になれば凍死を恐れることなく眠ることができる。電気が消える心配も、朝起きた時に部屋の中まで凍っている心配もない。


 ここへ来てから、三日が過ぎた。


 それらを見れば、黒崎たちは間違いなく救われたのだと思う。


 だが昨日から、黒崎の頭には一人の名前が引っかかり続けていた。


 吉岡。


 同じマンションからここまでやって来た五十代の男で、持病があることから第一適性評価ではEに分類されていた。その吉岡が、昨日突然いなくなった。


 職員に尋ねて返ってきた言葉は《再配置》。


 どこへ移されたのか。何のための再配置なのか。無事に別の施設へ着いたのか。それすら、家族ではない黒崎には教えられないという。


 朝食を終えて物流区画へ向かってからも、その疑問が消えることはなかった。


「おはよう。今日も頼むぞ」


「……おはようございます。昨日言われた区画からでいいんですよね?」


「ああ。午前中は昨日と同じだ。新しく入ってきた分が増えてるから、番号だけ間違えるなよ。違う場所へ送ると後で面倒だからな」


 いつもの先輩が、いつもの調子で黒崎を迎えた。


 四十代後半ほどの男で、ここへ来て一ヶ月あまり。本人の話では、入所した当初は怪我と体調不良でEに分類され、回復したことで最近Dへ上がったという。仕事を続けていれば次はCを狙えると笑い、初日に黒崎が虫を原料にした加工食品を前に固まった時には「ゴキブリじゃないだけありがたいと思え」と冗談まで言っていた。


 黒崎にとって、この施設へ入ってから最も長く言葉を交わしている人間だった。


 午前中の仕事も、これまでと大きくは変わらなかった。搬入された保存食や生活用品を仕分け、端末に表示された行き先を確認しながらコンテナへ積み替えていく。物流班にはD評価の人間が多いが、Cに分類された者もかなり混ざっている。特別な資格がなくても、一定の体力があり、端末の指示を理解して正確に作業できれば任される一般労働の一つだった。


 ただ、三日働いた黒崎にも、この仕事が単純な荷物運びではないことくらいは分かり始めていた。


 巨大な地下施設の中では、毎日膨大な量の物資が動いている。一般居住区へ送られる保存食。医療区画へ運ばれる薬品や衛生用品。植物工場から回されてくる野菜。備蓄倉庫から払い出される衣類や日用品。C区画とD区画では行き先ごとに数量も内容も違い、時にはB区画へ向かう物資を専用担当へ引き渡すこともある。


 その中には、黒崎たちの食卓ではほとんど見なくなったものも混じっていた。


 缶詰の肉、卵、甘味、銘柄の付いた飲料。


 たった一箱を見ただけなら大したことではない。しかし毎日ここを通れば、どの区画へ何が流れているかが少しずつ見えてくる。


 黒崎はそれに気づいても、これまで誰かへ話したことはなかった。ただ端末の指示に従い、指定された場所へ物資を運び続けていた。


 昼を過ぎた頃だった。


「黒崎。ちょっと来い」


 先輩に呼ばれ、黒崎は手にしていた端末から顔を上げた。


「次の荷物ですか?」


「いや。少し話がある。端末はそこへ置いてこい」


 いつもと変わらない声だった。


 だが先輩は作業場では何も話さず、そのまま黒崎を連れて歩いた。複数の通路を抜け、資材搬送用の扉を二つ通り、人の出入りがほとんどない資材置き場の脇まで来たところでようやく足を止める。


 黒崎が怪訝そうに見ていると、先輩はすぐには話し始めなかった。通路の左右を確認し、遠くから誰かが来ていないことまで確かめてから、低い声で口を開いた。


「……黒崎。今日の仕事が終わったら、自主退所の手続きを出せ」


「え?」


「できれば今日中だ。遅くても明日の朝までには、ここを出た方がいい」


 あまりにも唐突な言葉に、黒崎はすぐには意味を理解できなかった。


 冗談を言っているようには見えない。


 昨日まで「次はこの作業を覚えろ」と教えていた男が、今は正面から黒崎を見ながら、この施設から出ろと言っている。


「ちょっと待ってください。何の話ですか? 俺、何かやりました?」


「何もやってない。少なくとも今のところはな」


「だったら、なんで俺が出ていかなきゃならないんですか。外がどうなってるか、先輩だって知ってるでしょう」


「ああ。知ってる。だから、決まってからじゃなく今言ってるんだ」


 その言葉とともに、先輩の声からいつもの軽さが消えた。


「黒崎。第一適性評価について説明されたよな。原則、入所してから三日以内に初期評価を決めるって」


「聞きましたよ。健康状態、これまでの職業、資格、今どれくらい働けるか……そういうのを見てAからEまで決めるんでしょう?」


「表向きはな」


 黒崎の眉がわずかに動いた。


「……表向き?」


「俺がお前についてた本当の理由も、仕事を教えるためだけじゃない」


 先輩は黒崎から目を逸らさなかった。


「お前を見てたんだよ。この三日間ずっとな」


 黒崎は何も答えなかった。


 最初は言葉の意味そのものを理解できず、数秒遅れて、これまでの出来事が頭の中で一つずつ繋がっていった。


 初日に施設のことを教えてくれたこと。同じ飯を食ったこと。C区画の話をしたこと。B区画へ物資を運んだ時、優遇されている住民について何気なく話を振られたこと。自分がEからDへ上がったという話を聞かせたこと。そして黒崎が「Eの下はどうなるんですか」と尋ねた時だけ、「そこまでは知らん」と会話を切り上げたこと。


「……先輩、何者なんですか」


「今それを全部説明するつもりはない。説明したところで、お前にとって得にもならない。ただ、新しく入ってきた人間が、この施設の中で問題なく暮らせるかを見る役目もあると思ってくれればいい」


「問題なくって……仕事ができるかどうかじゃなくて?」


「もちろん、それも見る。だが、それ以上に重要なのは、その人間を中に残しても大丈夫かどうかだ」


 遠くで自動運搬機の走行音が小さく響いている。


 先輩は一度言葉を切り、その音が遠ざかってから続けた。


「物流ってのはな、ここの仕事の中じゃ少し特殊なんだ。作業自体はそこまで難しくない。荷物を運んで、仕分けして、指定された場所へ届ける。体力があって指示を理解できれば、多くの人間ができる。だからDも多い」


 黒崎は黙って聞いていた。


「でも、仕事を続けてりゃ嫌でも色んなものを見る。どこの倉庫に食料があるか、薬がどこへ流れるか、CとDで何が違うか。間接的とはいえB以上の区画にも触れる。施設の中で何がどう動いてるか、一般居住者よりずっと見えやすい仕事なんだよ」


「……」


「だから仕事ができるだけじゃ駄目だ。物を盗まないなんてのは当然だが、それだけじゃ足りない。知り合いを優遇しない。見たことを面白半分に広めない。待遇差を見ても、それを材料に周りを煽らない。自分が納得できないことがあったからって、何十人、何百人を集めて騒ぎを起こさない。そういう部分まで見られる」


「俺がそんなことをすると?」


「するかどうかじゃない」


 先輩は即座に否定した。


「できる可能性があるかどうかだ」


 その言葉に、黒崎の表情が固まった。


「一緒に来た連中にも、それぞれ別のところで聞き取りが入ってる。お前が前のマンションで住民をまとめてたことも、外から襲われた時に前へ出たことも、その戦いで死人が出たあとも残った連中をまとめ直したことも、残り全員を連れてきたことも確認されてる。お前一人の自己申告じゃない。何人も同じようなことを話してる」


「それの何が悪いんですか? 仲間を連れてきただけでしょう」


「悪くねえよ」


 先輩は苦い顔で答えた。


「だから厄介なんだ」


「……どういう意味です?」


「お前は人をまとめられる。しかも無理やり従わせるんじゃなく、人が自分からついてくる。困ってる奴を見たら放っておけないし、自分が損してでも助けようとする。昨日再配置された吉岡のことも、まだ気にしてるだろ」


 黒崎は反論しなかった。


 図星だった。


「それだけで、俺が危険人物になるんですか?」


「危険人物かどうかは知らん。ただ、施設側から見れば警戒対象になり得る。お前自身が暴れるかどうかじゃない。何かあった時、お前の一言で周りが動く可能性がある。それが問題なんだ」


「そんな……」


 黒崎はそこで初めて声を強めた。


「そんなこと、たった三日で決めつけるんですか? 三日ですよ。三日一緒にいただけで、その人がこの先何をするかなんて分かるわけないでしょう。俺だって先輩のこと、何も分かってなかった」


「分からねえよ」


 返ってきたのは、あまりにもあっさりした肯定だった。


「だったら、そんな査定――」


「黒崎。ニュース見ただろ」


 続けようとした言葉が止まった。


「国が直接守れるって発表したのは何人だ」


「……最大で、一千万人」


「そうだ。じゃあ、この国に何人いる?」


 黒崎は答えなかった。


「その一千万人だって、最後まで一千万人のまま維持できる保証なんかない。寒波がいつ終わるのか分からない。備蓄がどれだけ持つのかも分からない。設備が壊れれば生産量も落ちるし、薬も使えばなくなる。それでも今この瞬間、外にはここへ入りたい人間が山ほどいる。指定保護地区を目指して歩いてる奴もいるし、途中で動けなくなってる奴もいる。今日だって明日だって、入口まで辿り着いて『助けてくれ』って言う人間は来る」


 先輩の声は静かだった。


 怒っているわけでも、制度を正当化しようとしているわけでもない。ただ、それが現在の状況なのだと伝えているだけだった。


「そいつら一人一人を一ヶ月観察するのか? 半年かけて、本当に問題を起こさない人間なのか確かめるのか? その間にも飯は減る。薬は減る。寝床は埋まる。新しい避難者は来る。どこかで決めなきゃならない」


 先輩は小さく息を吐いた。


「三日でも長いくらいなんだよ」


 黒崎は言葉を失った。


「……じゃあ、間違えることだってあるでしょう」


「ある」


 今度も即答だった。


 黒崎はその答えを予想していなかった。


「あるって……それでいいんですか?」


「いいとは言ってない。担当とたまたま相性が悪かった奴だっているだろうし、家族が再配置されて頭に血が上がって職員へ食ってかかっただけの奴もいるだろう。普段なら何の問題もない愚痴を拾われた奴や、言い方を間違えただけの奴もいるかもしれない。それでも今は、一人一人を何度も時間をかけて調べ直す時間も余裕もない」


「それじゃ、何もしてない人間まで外に出されるかもしれないじゃないですか」


「そうかもしれない」


 先輩は否定しなかった。


「でも、一人を間違って中へ残して、その一人が百人を動かしたらどうなる。千人だったらどうする。物流で見た話を持ち帰って、『倉庫にはまだ食料が山ほどある』『Bの連中は肉を食ってるのに俺たちは虫だ』って広めたら? 食料庫へ人が押しかけたら? 今の制度を疑問視する人を増えたら? その騒ぎで大きくなったら、騒ぎを起こした本人だけの問題じゃ済まない」


 黒崎は何も返せなかった。


 間違っていると言いたかった。


 そんなやり方で人間を決めていいはずがない。三日で一人の人生を判断し、まだ何もしていない人間を危険だと決めるなんておかしい。


 だが、先輩が口にした一千万人という数字の向こうには、そこへすら入れない膨大な人間がいる。


 もちろん今も全員が生きているわけではない。全員がこの場所を目指しているわけでもない。それでも、この地下にいる一人へ使われる食料、水、薬、寝床は、同時に外の誰かへは使えないものでもある。


 だからといって、今ここにいる一人を切り捨てていい理由になるのか。


 黒崎には分からなかった。


「……俺は、再配置されるんですか?」


「まだ決まってない。俺一人で決めることでもない」


 先輩は少しだけ声を落とした。


「だから今なら、自分から出られる」


 その瞬間、黒崎の頭に三日前の声が蘇った。


『なんでもかんでも簡単に人を信用するなよ』


 蓮の声だった。


 あの時は、またこいつは人を疑ってばかりだと思った。国が用意した施設へ入り、温かな食事を食べながら、あそこまで警戒する必要があるのかとさえ感じていた。


 だが今、自分がこの三日間で最も信用していた男から、最初から観察されていたのだと告げられている。


 黒崎はしばらく黙ったあと、先輩を見た。


「……なんで俺に教えたんです? それ、俺に言っていい話じゃないでしょう」


 その問いに、先輩の表情が初めて揺れた。


 施設側の人間でも、仕事を教える先輩でもない、一人の男としての顔が僅かに覗く。


「……弟がいたんだ」


「弟?」


「ああ。俺より十五も下でな。この寒波が始まってから死んだ」


 それ以上を話すか迷うように、先輩は一度唇を噛んだ。


「お前みたいな奴だったよ。困ってる奴を見ると放っとけない。自分の分まで人に渡すし、誰か一人残ってりゃ、自分だけ逃げることができない。正義感が強いって言えば聞こえはいいけどな……馬鹿だったんだよ。最後まで、自分より他人のことばっかり考えてた」


 先輩は笑おうとした。


 だが、口元は少し動いただけだった。


「だから、このまま何も知らないで再配置に回されるのは見たくない」


 黒崎は何も言えなかった。


 信用するなと言った蓮は正しかった。


 自分はこの男のことを何も知らなかった。


 しかし同時に、その知らなかった男が今、自分を助けるために、本来なら口にしてはいけないことを話している。


「いいか。誰にも今の話をするな。一緒に来た連中にもだ。出るなら『自分にはここが合わなかったから出る』とだけ言え。それ以上は話すな。お前が誰を誘うかまでは俺には止められないが、理由は言うな」


「……吉岡さんは?」


 先輩の表情が止まった。


「黒崎、その話はもうするな」


「吉岡さんも再配置されたんですよね。俺と同じように、何かの査定に引っかかったんですか?」


「俺からは言えない」


「じゃあ、どこへ行ったんです?」


「言えない」


「生きてるんですか?」


 先輩は答えなかった。


 ほんの数秒の沈黙だった。


 それだけで、黒崎には十分だった。


◇


「俺、ここを出ようと思う」


 その日の夕方、黒崎は同じマンションからここまで来た住民たちへ声をかけ、居住区の一角に集まってもらっていた。


 全員ではない。仕事中の者もいれば、治療を受けている者もいる。それでもDへ配属された者、Eに分類された者、そしてCへ上がった二人を含め、呼べる者にはできる限り声をかけた。


 突然の言葉に、全員が黒崎を見た。


「……出るって、この施設を?」


「ああ。ちょっと俺には合わないみたいでな。もう一度地上へ戻って、新しい生活拠点を探そうと思ってる」


「本気で言ってるのか? 黒崎、外はまだあのままだぞ」


「分かってる。ここより安全な場所が簡単に見つかるとも思ってない。それでも、俺は出る」


 それ以上の理由を、黒崎は説明しなかった。


「お前らにも一応聞いておこうと思ってさ。俺はここを出る。もし一緒に来たい奴がいるなら止めない。でも、外が安全だとは言わないし、次の場所が見つかる保証もない。飯だって、今ここで食えてるようにはいかないと思う。だから俺についてこいとは言わない。ここに残りたいなら、残ればいい」


 少し前までの黒崎なら、もっと違う言い方をしていたかもしれない。


 みんなで行こう。


 みんなで助かろう。


 自分が何とかするから、一緒に来てくれ。


 だが今は、その言葉を口にできなかった。


 人にはそれぞれ、自分の人生がある。


 それを蓮から何度も聞いてきた。


「……悪い、黒崎さん」


 最初に答えたのは、Dへ配属された男だった。


「俺は残るよ。ここ、暖かいし、水もあるし、毎日飯も出る。仕事してれば少なくとも今すぐ死ぬことはないだろ。それに嫁もいるんだ。あいつをまた雪の中へ連れ出すのは……俺にはできない。ここまで連れてきてもらったのに、本当に悪い」


「謝ることじゃない。家族がいるなら、なおさら自分で決めろ」


 それをきっかけに、他の者たちも少しずつ口を開いた。


「俺も残る。もう一回あそこを歩くのは正直怖いんだ」


「うちも子供がいるから……黒崎さんには感謝してる。でも、やっと暖かいところまで来れたのに、また出るっていうのはちょっと……」


「私もここで頑張ってみます。まだ何がどうなるか分からないけど、外へ戻るよりはきっと……」


 誰も黒崎を責めているわけではない。


 申し訳なさそうに目を逸らしながら、それでも全員が自分の答えを出していった。


 黒崎は一人一人に頷いた。


 内心では、Eに分類された者なら一緒に出ると言うかもしれないと考えていた。ここに残っていても待遇は良くなく、昨日には吉岡が突然いなくなっている。


 しかし、その男も迷った末に首を横へ振った。


「俺も……ここに残ってみます。今の教育係の人が、最初はEだったのにDへ上がったらしいんです。だから俺も、身体が戻ってちゃんと仕事できるようになれば上がれるかもしれない。まだ三日しかいないし、もう少し頑張ってみたいです」


「そうか。なら、無理しすぎるなよ」


「……すみません」


「だから謝るなって。お前が決めたなら、それでいい」


 Cへ分類された農業経験者も、少し申し訳なさそうな顔をしながら断った。


「黒崎さんがいなかったら、俺たちはここまで来られなかった。本当に感謝してる。でも、俺はここの植物工場でも役に立てるかもしれないって言われたんだ。昔の経験なんて大したものじゃないと思ってたけど、今は必要としてもらえてる。だから俺は、ここに残ってみようと思う」


「ああ。それでいい。せっかく役に立てる場所があるなら、大事にしろ」


 そして最後に、同じCへ分類された設備関係の男が口を開いた。


「……なあ、黒崎。さっきから聞いてたけど、一つだけ聞いていいか?」


「ああ、何だ?」


「お前、自分がDだったのがそんなに気に入らなかったのか?」


 その声には、それまでの者たちとは違う棘があった。


「……え?」


「俺たちがCになってから、お前ずっと区分とか制度のこと気にしてただろ。せっかくこんな安全な場所まで来たのに、三日で突然出ていくなんて普通じゃない。何か気に入らないことがあったんじゃないのか?」


「おい、そんな言い方するなよ。黒崎さんがここまで連れてきてくれたんだぞ」


 隣の男が制止したが、設備関係の男は引かなかった。


「分かってるよ。俺だって感謝はしてる。でも外はマイナス三十度だぞ? ここには水もある、電気もある、暖房だってある。飯だって毎日出るし、俺たちはやっと死ぬ心配をしなくて済む場所へ来たんだ。国がここまで用意してくれてんのに、それでも気に入らないから出ていくって、俺には理解できない」


「黒崎はそんなこと言ってないだろ。もうやめろって」


「じゃあ何なんだよ。理由も言わずに『俺は出る、お前らも来るなら来い』って、何かあるみたいじゃねえか。俺たちまで巻き込まれるのは御免だぞ」


 黒崎は何も言わなかった。


 設備関係の男は、その沈黙を別の意味に受け取ったのかもしれない。


「死にたいなら、一人で勝手に死ねよ。俺はもう外には戻らない」


 周囲が静まり返った。


 三日前。


 彼らは同じマンションを出た仲間だった。


 同じ車両に乗り、道が塞がれば一緒に降り、氷点下の雪の中を歩いた。疲れた者がいれば肩を貸し、足を止めそうになった者を励まし、外来者の襲撃で四人の仲間を失ったあとも、生き残った者たちは互いを頼りながら、ようやくこの地下まで辿り着いた。


 あの時は、誰がCになるかも、誰がDになるかも、誰がEになるかも知らなかった。


 ただ全員、生き残ろうとしていた。


 それから三日。


 暖かい部屋と、毎日配られる食事と、自分に与えられた役割ができただけで、彼らはもう、それぞれ違う場所に立ち始めていた。


 それを責めることができるのか、黒崎には分からなかった。


 設備関係の男には、Cとしてここに残れる未来が見え始めている。外へ出れば、その未来を自分から捨てることになる。


 恐怖に震えながら一緒に歩いていた三日前とは、条件が違う。


 黒崎はしばらく男を見ていたが、怒ることはなかった。


「……分かった。悪かったな。変なこと聞いて」


「黒崎……」


「お前らには、お前らの人生があるからな。俺が決めることじゃない。ここに残るなら、ちゃんと飯食って、仕事して、生きろよ。俺がいなくなったからって無茶だけはするな」


 誰もすぐには答えなかった。


 黒崎はその顔を一人ずつ見た。


 三日前まで、生き残るために自分の後ろを歩いていた人たちだった。


 黒崎は少しだけ笑った。


「ここまで一緒に来てくれて、ありがとな。じゃあ、気をつけろよ」


 それだけを残し、黒崎は背を向けた。


 通路を歩いていく足音だけが、静かな地下施設へ響いていく。


 後ろから自分を呼ぶ声も、追いかけてくる足音も、最後まで聞こえなかった。


◇


「殺るぞ!」


 柴田の怒号が、割れたエントランスへ響き渡った。


 その声とほとんど同時に、柴田の握ったハンマーが横薙ぎに振り抜かれる。真正面から踏み込んできた外来者は咄嗟に鉄パイプを立てたが、まともに受け止められるような一撃ではなかった。金属同士が激しくぶつかり、甲高い音がエントランスの壁へ反響した次の瞬間には、鉄パイプが男の腕ごと大きく外へ弾かれていた。


 柴田はその隙を逃さない。


 踏み込んだ勢いのまま身体を捻り、戻したハンマーを今度は男の肩口へ叩き込んだ。


「ぐあっ!」


 男の身体が横へ崩れ、床へ膝をついた。


 それを見た外来者たちが一瞬だけ動きを止めたが、怯んだのはほんの僅かな時間だった。


「ハンマーの奴に一人で行くな! 二人で回れ! 後ろから入れ!」


 一人が叫ぶと、別の男が柴田の正面へ出て注意を引き、その横からもう一人が回り込む。さらに三人目が柴田ではなく住民の集団へ突っ込み、人数の少ない場所を狙って鉄パイプを振り回した。


 彼らは、このマンションの住民より明らかに戦いに慣れていた。


 どこで、何度、こんな争いを経験してきたのかは分からない。ただ闇雲に武器を振るうのではなく、一人が相手を引きつけている間に別の者が回り込み、弱そうな相手を見つければそちらを狙う。誰かが倒れれば無理に助けることもなく、空いた場所へすぐ別の人間が入る。


 対する住民たちは、手に武器を持っていても動けなかった。


 鉄パイプ、金属バット、工具、ハンマー、家具から外した棒きれ。昨夜から自分の部屋を探し回り、少しでも武器になりそうなものを持ち寄った。


 だが、武器を持つことと、それを人間へ振り下ろすことはまるで違う。


「来るぞ! 下がるな!」


「う、うわっ!」


 外来者の一人が住民へ突っ込み、勢いのまま鉄パイプを振り下ろした。逃げきれなかった住民の肩へまともに当たり、鈍い音とともに男が悲鳴を上げて床へ崩れる。その隣にいた住民が助け起こそうと手を伸ばしたところへ、別の外来者が身体ごとぶつかり、二人まとめて壁へ叩きつけた。


「押し返せ! 人数はこっちの方が多いんだぞ!」


 松本が叫んだ。


 それでも前へ出る者は少なく、住民たちの足はじりじりと後ろへ動いていった。


 人間を殴ったことなどない。


 殴られた経験すらない者がほとんどだった。


 目の前で鉄パイプが人間へ当たり、口元から血を流した男が倒れ、つい昨日まで同じ廊下ですれ違っていた人間が床を這って逃げようとしている。それを見れば見るほど、頭では戦わなければならないと理解していても身体が固まっていく。


 その間にも、柴田だけは前へ出ていた。


「邪魔だ、どけ!」


 横から振られた鉄パイプを左腕で受け、顔を歪めながらも踏みとどまる。そのまま相手の腹へ蹴りを入れ、身体を折った男の背中へハンマーを叩き込んだ。振り返ったところへ別の外来者が飛びかかり、二人の身体がもつれたまま壁へ激突する。


「今だ! そいつ押さえろ!」


 外来者が二人、柴田へ殺到した。


 それを見ても、多くの住民はまだ動けなかった。


 「剛さん……!」 


 松本と仲間二人はすぐに駆けつけようとしたが、外来者に囲まれ身動きが取れないでいた。


「てめえら……!」


 柴田は掴みかかってきた男の顔へ肘を打ち込み、もう一人を肩で押し返す。額から流れた血が頬を伝い、息もすでに荒くなっていた。


 それでも柴田は振り返り、武器を持ったまま固まっている住民たちへ怒鳴った。


「いつまでビビってんだ、てめえら! 今が殺る時だろうが、ボケ! 殺らなきゃお前らが殺られんだぞ!」


 その直後だった。


 外来者の一人が、床へ倒れていた住民を見つけた。


 住民の男は片膝をついたまま逃げようとしている。だが肩を殴られたせいで片腕が上がらず、うまく立ち上がることもできない。


 外来者がその背後から鉄パイプを振り上げる。


 すぐ近くにいた住民の一人は、両手で金属バットを握ったまま、震えながらその光景を見ていた。


 助けなければならない。


 そう思った。


 しかし身体が動かない。


 自分が今持っている金属バットを、人間へ向けて本気で振る。その行為だけがどうしても頭の中で現実にならなかった。


 鉄パイプが振り下ろされる。


 床に倒れた住民が咄嗟に腕で頭を庇った。


「やめろおおおっ!」


 気づいた時には、住民の男は走っていた。


 両手で握った金属バットを大きく引き、外来者がこちらを向くより早く、腰ごと捻って全身の力を乗せる。


 振り抜いたバットが、男の頭を捉えた。


 手の中へ、これまで経験したことのない衝撃が返ってくる。


 硬い。


 けれど、コンクリートや柱を叩いた時のような硬さではない。表面の奥に何かがあり、その全てを一緒に揺らしたような重い感触が、バットから掌へ、掌から手首へ、さらに肘まで伝わってくる。


 外来者の顔が横へ弾かれた。


 身体は一拍遅れて傾き、足がもつれたあと、肩から床へ落ちる。


 住民はその場に立ち尽くした。


 バットを握った両手が小刻みに震えている。


 自分がバットで人間を殴った。


 生まれて初めて、本気で。


 喉の奥から酸っぱいものが込み上げ、心臓は胸を突き破りそうな勢いで鳴っていた。気持ちよくなどなかった。嬉しくもない。手の中に残る感触が気持ち悪く、今すぐバットを放り出して、その場から逃げてしまいたかった。


 床へ倒れた外来者が小さく呻いた。


「ぐ……っ」


 まだ生きている。


 男は震える腕で床を押し、起き上がろうとした。


 その動きを見た瞬間、住民の中で何かが変わった。


 何が変わったのか、本人にも分からなかった。


 数秒前まで頭の中を埋め尽くしていた恐怖が、急に遠くなっていた。殴られたらどうしよう。怪我をしたらどうしよう。逃げたい。死にたくない。そんな考えばかりだったはずなのに、今は目の前で身体を起こそうとしている男の姿しか見えていない。


 何か新しい感情が生まれたわけではない。


 もっと古く、もっと原始的な何かが、今までそれを押さえていたものを失い、身体の奥から表へ出てきたようだった。


 住民はもう一度バットを握り直した。


「おおおおおおおおおおおっ!」


 意味のある言葉ではなかった。


 叫びながら、二発目を振り下ろす。


 バットが当たり、起きかけていた外来者の身体が再び床へ崩れた。


 その声を聞いた別の住民が、鉄パイプを握り直した。


「うおおおおおおおっ!」


 今度は、その男が前へ出た。


 さらに一人。


 その後ろからもう一人。


 それまで壁際で武器を握りしめ、柴田や誰かが何とかしてくれることを願っていた住民たちが、次々と外来者へ向かって走り出した。


「来いよおおおお!」


「やられる前にやれ! ぶっ殺せええ!」


 振り下ろされた鉄パイプを外来者が腕で受ける。その瞬間、横から別の住民が身体ごとぶつかり、二人でもつれながら床へ倒れた。すぐに三人目が駆け寄り、手にした工具を振り下ろす。


 肩へ一撃を受けた外来者が身体を捻って逃れようとすると、別の住民がその足へしがみついた。


「押さえろ! そいつ押さえろ!」


「後ろ来てるぞ!」


「離すな! 絶対離すな!」


 誰に教えられたわけでもない。


 一人が押さえれば、もう一人が殴る。


 相手が振りほどこうとすれば、別の者が飛びつく。


 怒号と悲鳴が重なり合い、誰が何を叫んでいるのかも次第に分からなくなっていった。


 もちろん外来者たちも必死だった。


 ここで食料を奪えなければ、自分たちが死ぬ。その恐怖は彼らにとっても同じだった。鉄パイプを振り回し、バールを突き出し、斧を持った男が住民へ襲いかかる。


 刃が一人の住民の腕を裂いた。


「ぎゃああっ!」


 男が腕を押さえながら後ろへ倒れる。


 別の場所では、金属棒を頭へ受けた住民が膝から崩れ、そのまま床へ倒れて動かなくなった。


 それでも、もう住民たちは後ろへ下がらなかった。


 仲間が倒れるたび、周囲にいた人間が叫びながら相手へ殺到した。外来者が一人を殴れば二人が飛びかかり、一人を倒せば三人が囲む。武器を落とした住民は相手の腕へしがみつき、その隙に後ろから来た別の住民がバットを振り下ろす。


 数分前まで、人を殴ることすらできなかった者たちだった。


 今は、倒れた外来者を三人が囲んでいる。


 男は床の上で身体を丸め、両腕で頭を庇っている。


「待て! もう……もういい!」


 何かを伝えようとしている。


 だが、住民の一人が振り下ろしたバットが腕へ当たり、その言葉は悲鳴へ変わった。鉄パイプが肩へ落ち、別の男が持っていた工具を振り下ろす。


 最初は必死に身体を丸め、少しでも攻撃から逃れようとしていた外来者の動きが次第に弱くなっていった。


 やがて、頭を守っていた腕が床へ落ちる。


 それでも住民たちは止まらなかった。


 誰も「殺せ」とは命令していない。


 柴田さえ、とどめを刺せなどは言っていなかった。


 それでも、一人が武器を振ると、もう一人も続いた。相手がすでに抵抗しているのかどうかを確かめる者もいない。動かなくなった身体へ、興奮した住民がさらに一撃を加えても、それを止めようとする者はいなかった。


 その頃には、戦況は完全に逆転していた。


「くそっ……こいつら……!」


 外来者の一人が、住民たちを見ながら後退する。


 戦う技術なら、自分たちの方が上だった。


 人を殴ることにも、奪うことにも、誰かが目の前で血を流すことにも、マンションの住民よりずっと慣れていた。


 だが今、目の前にいる者たちは上手く戦っているわけではない。技術があるわけでもない。ただ人数が多く、一度前へ出始めてから誰も止まらなかった。


 顔から血を流しても前へ出る。腕を傷つけられても、反対の手で相手へしがみつく。仲間が倒れれば、その身体を跨ぎ、次の人間がそのまま襲いかかる。


「おおおおおおお!」


「うおおおおおお!」


 あちこちから声が上がる。


 最初は「押さえろ」「後ろだ」「離すな」と意味のある言葉だった。


 やがて、それすら少なくなっていった。


 怒鳴る。掴む。押し倒す。殴る。


 一人が倒れれば、その周囲へ人が集まる。


 柴田は荒い息を吐きながら、その光景を見ていた。


 最初に怒鳴ったのは自分だった。


 戦えと命令した。


 殺らなければ殺られると煽った。


 だが、もう誰も柴田を見ていない。


 指示を待つ者もいない。


 住民たちは自分たちで相手を囲み、自分たちで押さえ、自分たちの判断で武器を振るっている。


 柴田が開けたものは、もう柴田自身にも閉じることができなかった。


 そして先に耐えられなくなったのは、外来者たちだった。


「無理だ!」


 後方にいた一人が叫んだ。


「もう無理だ! 引け! 逃げろ! ここはやばい!」


 一人が背を向けた。


 それを見た別の男も後ろへ走り出す。


「逃げろ! 早くしろ!」


 残った外来者たちが次々と割れたエントランスへ向かい、そのまま外へ飛び出していった。


 食料は守られた。


 建物も奪われなかった。


 侵入してきた者たちは自分たちから逃げている。


 もう戦う必要はない。


 ほんの数十分前までの住民たちなら、その背中を見た瞬間に力が抜けていたはずだった。助かったと息を吐き、勝ったと喜び、二度と戻ってくるなと割れた入口から罵声を浴びせる。それで終わっていたはずだった。


 だが、誰からも歓声は上がらない。


 一人の住民が走った。


 逃げる外来者の背中を追い、そのまま割れたエントランスを越える。


 その横をもう一人が走り抜けた。


 さらに三人、四人、その後ろから十人ほどが続いた。


「待てえええ! こらああああ!」


 逃げていた男が振り返った。


「なんで追ってくるんだよ! もういいだろ! 俺たちは帰る!」


 誰も答えなかった。


 雪の中を必死に走っていた外来者の一人が足を取られ、前のめりに転んだ。


「待て! 待ってくれ!」


 起き上がろうとした時には、住民たちがすぐ後ろまで追いついている。


「もう取らねえ! 食料もいらねえ! 帰るから! だからもういいだろ!」


 三人の住民が男を追い越すように左右へ回り込み、逃げ道を塞いだ。


 男は雪の上に尻をついたまま後ずさった。握っていた鉄パイプを自分から遠くへ投げ捨て、何も持っていないことを示すように両手を高く上げる。


「待ってくれ! もうやらねえ! 本当に帰る! 俺たちが悪かった! 食料もいらないし、もう二度とここには来ないから!」


 つい先ほどまで互いに武器を振るっていた相手が、もう戦おうとしていない。


 武器も捨てた。


 逃げる意思しかない。


 雪の上で後ずさりながら必死に許しを乞っている。


 ほんの少し前までなら、その姿を見ただけで住民たちは安心したはずだった。


 もう襲われない。もう戦わなくていい。自分たちは勝った。


 そう理解するために必要なものは、目の前に全て揃っていた。


 それでも、三人の足は止まらなかった。


「頼む……待ってくれよ。本当に帰るから。俺だって死にたくないんだ。だから――」


 男が言い終えるより先に、一人の住民が両手で握った鉄パイプを振り下ろした。


 咄嗟に上げられた腕へ鈍い衝撃が入り、男の口から短い悲鳴が漏れる。身体を丸めたところへ、横から金属バットが振られた。


 肩口へまともに当たり、男は雪の上へ横倒しになった。


「やめろ! もう抵抗してないだろ! 武器も捨てた! やめてくれ!」


 身体を起こそうとして伸ばした手を、別の住民が靴底で踏みつけた。


「ぎゃあああっ!」


 男の指が雪の上で大きく開く。


 その悲鳴に怯む者は誰一人いなかった。


 むしろ遅れて追いついた住民が、何が起きているのかを確かめるより早くその輪へ加わった。雪の上で身体を丸める男へ近づき、手にしていた武器を振り下ろす。


 男は両腕で頭を覆いながら、片手だけを伸ばし、近くにいた住民の足首へ触れた。


 引き倒そうとしたわけではない。


 反撃でもない。


 その手はただ、やめてほしいと縋りつくように足首を掴んでいた。


「頼む……頼むからもうやめてくれ……」


 何度目かの一撃で、その手が雪の上へ落ちた。


 指先も動かなくなる。


 だが、それでも終わらなかった。


 さっきまで聞こえていた命乞いは、いつの間にか聞こえなくなっていた。雪の上に横たわった身体から抵抗する力がなくなっても、住民たちは荒い息を吐きながら武器を振り続けている。


 そこにはもう、相手を倒すための連携も、食料を守るための判断もなかった。


 誰かが振る。


 だから隣にいる者も振る。


 まだ目の前に敵だった人間がいる。


 それだけだった。


 やがて一人の住民が、荒い息を吐きながら顔を上げた。


 さらに先を、別の外来者が逃げている。


 その姿を見つけた瞬間、三人は雪の上に倒れた男をそのまま残し、何も言わず再び走り出した。


 少し離れたところでも、同じことが起き始めていた。


 逃げ遅れた一人へ二人の住民が追いつき、そのさらに先では四人が別の外来者を雪の上へ引き倒している。外来者たちはもう戦おうとすらしていない。武器を捨てて両手を上げる者もいれば、膝をついて「帰る」と何度も繰り返している者もいる。


 それでも住民たちは止まらなかった。


 一つの身体が動かなくなると、それを雪の上へ残し、次に逃げている人影を探してまた走り出す。


 そこにはもう、食料を守るという最初の目的さえ残っていなかった。


 目の前に逃げる者がいる。


 その人間が、さっきまで自分たちとは反対側にいた。


 追いかける理由は、それだけで足りるようになっていた。


 マンションから少し離れた雪の中に、まだ数人の人影が残っていた。


 建物の中へ入らず、外で仲間を待っていた者たちだった。


 その中に、若い女がいた。


 女の隣には年老いた男がいて、片腕を女の肩へ回すようにしながら、深い雪の中を必死に歩いている。


 二人の手には何も握られていなかった。


 逃げてきた仲間たちの姿を見て、何が起きたのかを悟ったのだろう。女は老人の身体を支えながら、マンションから離れようとしていた。


 だが、老人の足では速く進めない。


 雪に沈む足を一歩ずつ引き抜く間にも、背後から複数の足音が迫ってくる。


「待って……待ってください!」


 女が振り返った。


 住民たちは止まらない。


「私たちは何もしてません! 本当です! 中にも入ってないです! ずっとここで待ってただけなんです!」


 返事はなかった。


 女が老人を庇うように自分の身体を前へ出す。


 老人も震える手を上げ、空の掌を住民たちへ向けた。


「もう……帰ります。食べ物もいりません。何も取りませんから……だから、どうか……」


 住民たちは足を緩めなかった。


 ほんの少し前までなら、それで終わっていたはずだった。


 二人が武器を持っていないことは、見れば分かる。


 女が戦闘へ加わっていなかったことも、老人がまともに走ることさえできないことも分かる。


 今の住民たちは、それすら理解できなくなるほど意識を失っていたわけではない。


 女だと分かっていた。


 老人だとも分かっていた。


 武器を持っていないことも、戦う意思がないことも分かっていた。


 それでも、止まらなかった。


「いや……来ないで……もう帰りますから。お願いします……本当に、もう何もしませんから……」


 女は老人を庇うように前へ立ったまま、何度も首を横へ振る。


 追いついた男たちは何も答えなかった。


 一人が握っていた鉄パイプを持ち上げる。


 その隣では、別の男が金属バットを両手で握り直した。


 それを見た女の顔から、最後に残っていたものが消えた。


「や、やめてえええええええ!」


 雪の中へ高々と上がった悲鳴は、二秒ともたなかった。


──────────────────


Day 69


電力 ▲

ガス ×

水道 ×

通信 ▲

降雪 微弱


生存確認者 79人


今日のメモ:

「武器を持つ手に宿るものは、勇気とは限らない。」


──────────────────


【あとがき】


ここまで読んでいただきありがとうございます!

氷スト連載以来、最長話になってしまいました。

読み疲れもあるかと思いますので本日は早めに休みましょう!


先輩が言うことは賛否両論だと思いますが、そもそも先輩もどこまで理解しているのか。いろんな見方があると思いますので、ぜひコメントに残して頂けたら幸いです!


あ、蓮の再配属説は大丈夫です。

間に合ってます。

次話で仕事してもらいます。



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