第9話 使命感に燃える教師、夜の黒鉄家へ強襲家庭訪問!? おじさんの鉄壁の防衛線に挑む!

 今月最後の金曜日。十九時十五分を回った住宅街の空は、今にも泣き出しそうな暗灰色に淀んでいた。


 黒鉄家のインターホンを鳴らしたのは、学校での事務作業を終えたその足で、激しい焦燥感を募らせて駆けつけてきた担任の川島先生だった。


――進路希望調査用紙の最終締め切りは、今日だった。


 他の生徒全員が提出を終える中、ゆかりだけが白紙のまま。放課後、川島先生が「お父様とお話しできた?」と尋ねたとき、ゆかりは気まずそうに目をそらし、「……まだ。……おじさん忙しいから」と小さな嘘をついたのだった。


 既存の東京の通学圏内という狭い枠を飛び越え、川島先生が全国から選りすぐった、先進的な英語教育にとらわれない最高峰の特殊な学校。全寮制を選択肢に含み、将来的な海外大学進学への切符となるその道は、通常の高校進学とは比較にならないほどの莫大な費用がかかる。


 けれど、ゆかりが提出期限当日の夜まで白紙のまま用紙を抱え込んでいた本当の理由は、経済的な気兼ねだけではなかった。


(誰も私を知らない場所へ行きたい……でもそれって、ただの逃げなんじゃないの?)


 自分の海外志向が、過去の傷から逃げ出したいだけの逃避であり、弱さであるということ。それを、人生を賭けて自分を救い出してくれた、世界で一番完璧なヒーローであるおじさんに、その鋭すぎる観察眼で見抜かれ、幻滅されてしまうのが、何よりも怖くて仕方がなかったのだ。


 川島先生は、ゆかりの具体的な過去など一切知らない。あの三者面談の場でおじさんが放った、大人の都合に振り回されてきたのだろうという冷徹なセリフの行間と、ゆかりの怯えるような瞳の観察だけで、その心理を完璧に読解していた。


(ゆかりさんは、お父様があまりにも完璧なヒーローだからこそ、自分の“どこか遠くへ逃げ出したい”っていう後ろ向きな弱さを見せて、幻滅されるのが怖いのね……。だから、お父様に相談できずに白紙だったんだわ!)


 かつて、完璧だった亡き父に自分の弱さを見せられず、勝手に心を閉ざしていた自分自身のトラウマをゆかりに重ね合わせた川島先生は、深夜を前に、白紙の用紙を握りしめて家の前に立っていた。


「夜分遅くに、本当に申し訳ありません! 黒鉄さん、ゆかりさんの進路のことで、どうしても今夜中にお父様にお伝えしたいことがありまして……っ」


 玄関のドアを開けたゆかりは、カバンに白紙の書類を隠したままの気まずさを隠すように、持ち前のトゲを剥き出しにして言い放った。


「先生、こんな時間になんですか!?非常識です!帰ってください!!」


 その言葉に合わせるように、奥から洗剤とお香の渋い匂いを微かに漂わせ、圧倒的な体躯のおじさんが姿を現した。感情を排した声で静かに、けれど社会規範としての絶対的な正論を告げた。


「川島先生。ゆかりの言う通り、現時刻における本地域での対人接触は、教育委員会の防衛ガイドライン、および双方のコンプライアンス順守の観点から深刻なセキュリティーリスクを伴います。教育の現場としても、社会通念上も適切ではありません。お引き取りください」


 実務の範囲を明確に線引きする、おじさんの大人の防衛線。


(……あの薫り……)


 三者面談の日、初めて至近距離で感じた、どこか古い図書館を思わせる薫り。


 ダークグレーのスーツ姿のおじさんを目の前にした瞬間、春奈の鼻腔をくすぐった、あの薫りが今も変わらずそこにあった。


 一瞬だけ、春奈の文学オタク脳が、その記憶に引き戻される。


 けれど、すぐに顔を上げた。


 今日は、文学少女としてここへ来たのではない。


 一人の生徒の未来を守る、担任教師として来たのだ。


 ここでおとなしく引き下がるような、頼りない新米教師ではもうなかった。ゆかりのデリケートな心理をおじさんに直接暴露するような不躾な真似も、プロの教師として絶対にしない。


 彼女はあくまで、一人の生徒の未来を背負う教師としての実務のロジックと、強い瞳で、まっすぐにおじさんを見据えて粘った。


「お言葉ですが、黒鉄さん! ゆかりさんは今、既存の英語教育にとらわれない、全国の選りすぐりの学校への進学を視野に入れています! 通常の進学より遥かに費用がかかることも、東京の家を離れることになることも、彼女は全部分かっています。でも、この特殊なカリキュラムゆえに、今すぐ動かなければ最終締め切りに間に合わないんです! 提出期限はまさに、今日の今日なんです。ですから、お父様がご提示されたあの万全のバックアップという確定事項を前提として、今夜ここで具体的な選択肢を共有し、実務的な進路指導へ舵を切ることが、担任である私の、今なすべき『本当のお願い』なんです……っ!」


「…………っ」


 その言葉を聞いた瞬間、玄関先に立ち尽くしていたゆかりは、激しい衝撃に打ちのめされた。


 先生は、自分の弱みをおじさんにばらすことなく、ただ提出期限という大人の社会の盾を構えて、おじさんの鋭い目の前に身を挺して立ちはだかってくれている。


 おじさんに近づくキモい女だなんていう邪推をすべて吹き飛ばすほどの、本気の熱量。


 私の未来のために、ここまで一生懸命になってくれる大人が、おじさん以外にもこの世界にちゃんといる。


 その純粋な教育者としての姿に、ゆかりのトゲトゲしていた心が、解きほぐされていく――。


 おじさんは、川島先生のその覚悟の行間を、一瞬で読み解いた。


「……川島先生。あなたの進路指導に対するプロとしての姿勢、そして生徒の未来を想う熱意。


 提出期限というタイムリミットを利用して直接交渉のテーブルをねじ込む強硬外交の手腕。それだけは、私は百パーセント肯定し、深く尊敬いたします。……どうぞ、中へ」


――次回。


第10話

『神の仕掛けたバグ、我が家の家族システムが一年ぶりに復旧しました』


明日15時公開。

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