第7話 空を飛べるようになったあの日から
消灯の鐘が鳴って、しばらく経った頃。
月明かりだけが照らす学園の片隅を、二つの影が忍び歩いていた。
「スーちゃん隊長! 箱庭入り口の警備は厳重であります!」
ルーシェが、声を潜めて報告する。植え込みの陰から覗き見る箱庭の正門には、警備の職員の姿があった。立ち入りを許さぬ、堅固な守り。
「ま、そうだろうな」
隣でしゃがみ込むスカーレットは、半ば呆れた様子だった。夜中に箱庭へ忍び込もうと言い出したルーシェに付き合わされているのである。一人で行かせれば何をしでかすか分からない、という判断での同行だった。
「夜中までご苦労な事で。気が済んだなら戻るぞ」
「くぅ……竜たちの楽園は、目と鼻の先なのに……」
ルーシェは恨めしげに正門を見つめた。あの向こうに、自分の相棒となる竜が待っている。そう思うと、引き返す気にはなれなかった。
「あと少しだろ? 新入生への開放日まで、大人しく待ってな」
スカーレットがルーシェの襟首を掴んで引き戻そうとした、その時だった。
「ん? あいつは……」
スカーレットの視線が、正門から離れた、囲いの暗がりへと向いた。月明かりの中、一人の少女が、音もなく歩いている。
「フリルちゃんだ……!」
ルーシェが思わず声を上げかけ、慌てて口を押さえる。授業でいつも一人窓の外を眺めている、無口で不思議な雰囲気の少女。
「こんな所で何してるんだろう?」
二人は顔を見合わせ、そっとフリルの後を追った。
「へいへいそこの不良ガール。まさか箱庭に入っちゃおうなんて、悪い事考えてないよねー?」
「どの口が言ってんだか……」
後ろからついてきたスカーレットが、額を押さえて呟く。同じことを企んでいる人間が言う台詞ではない。
フリルは、突然現れた二人に、驚いた様子もなかった。ただ、いつもの感情の読めない瞳で、じっと二人を見つめる。
「……ルーシェと、スカーレット」
ぽつり、と名前を呼ぶ。クラスでほとんど口をきいたことがないのに、二人の名を覚えていたらしい。
「うん。私は今から、箱庭に行くところ」
当然といった様子の、淡々とした口調だった。
「正面の入り口は見ての通りだけど、どうするつもりだ?」
スカーレットが、警戒を滲ませて問う。あの厳重な警備を、この小柄な少女がどうやって突破するというのか。
「抜け道……あるから。 もう……何度も行ってる」
「そんなんアリかよ……」
スカーレットが呆気にとられる。新入生の立ち入りが固く禁じられている箱庭に、この少女は既に、何度も足を踏み入れているという。
ルーシェの目が、これは好機だときらり輝いた。
「あの〜、私たちも着いて行っていいかな? お願い!絶対内緒にするから!」
両手を合わせて拝むルーシェ。フリルは、少しの間も置かずに答えた。
「いいよ」
「随分あっさりだな。信用していいのか?このまま教師にチクるかもしれないぜ?」
「そんなことしないよー」
ルーシェが軽く返すが、スカーレットはフリルの様子を伺う。フリルは、二人を順に見て、静かに言った。
「ルーシェたちも、箱庭に入る為に来たんでしょ? なら……そんな事する意味は、ないから」
スカーレットは、わずかに目を見開いた。
「ふぅん。何考えてるか分からない奴だと思ってたけど、ちゃんと見てるって訳ね」
無口で、気まぐれで、感情の読めない少女。だが、その内側では、しっかりと周囲を見て、考えている。スカーレットは、フリルへの認識をわずかに改めた。
フリルが二人を導いたのは、正門から離れた箱庭の囲いの一角だった。
「ここ」
フリルが立ち止まったのは、何の変哲もない壁の前。月明かりに照らされた、ただの古びた囲いにしか見えない。
「ここ、ってただの壁じゃねぇか……?」
スカーレットが目を凝らす。だが、フリルがその壁に向かって一歩踏み出した瞬間——
水面に石を投じたように、壁の像が波打ち、フリルが溶けるように消えていく。
「うえぇ!? フリルちゃんがすり抜けちゃった!」
ルーシェが目を丸くする。壁だと思っていたものの向こうにフリルが消えていく。
「とにかく、アタシ達も後を追うぞ」
スカーレットがルーシェの手を引き、二人も洞窟へと足を踏み入れた。
洞窟の中は、ひんやりとした空気に満ちていた。
足元のおぼつかない暗がりを、フリルは慣れた足取りで進んでいく。やがて、その先に、別の気配が現れた。
暗闇の中で、ぴょこんと身を起こす一つの影は、警戒するように目を細めルーシェ達を見ていた。
「ルーシェとスカーレット。悪い子じゃないよ」
フリルが、その影に向かって、いつもより少しだけ柔らかい声で話しかけた。
「わぁ! 本物の竜だ……!」
ルーシェが歓声を上げる。洞窟の奥に佇んでいたのは、一頭の竜だった。フリルに身を寄せるその姿には、警戒の色はない。言葉にせずともその信頼関係が見て取れる。
スカーレットが、はっと気づいた。先ほどの壁の幻。今まで誰にも気づかれなかった抜け道。
「まさか、お前の力で、この抜け道を隠してたのか?」
「この子は……多分、幻を作り出す力を持ってる」
フリルが、竜の首筋をそっと撫でる。
「箱庭に入る方法を探してた私を見つけて、ここに呼んでくれた」
竜は、得意げに胸を反らした。誰にも気づかれぬ抜け道を作り、こっそり一人の少女を招き入れる。その悪戯めいた所業を楽しんでいるような素振りだった。
「まさかルーシェより早く、不法侵入を企てている奴がいるとはな」
スカーレットが苦笑し、それから周囲を見回した。
「……って、ルーシェはどこ行った?」
いつの間にか、ルーシェの姿が消えていた。
「外……出て行った」
フリルが、洞窟の——外へと続く出口の方を、指し示した。
「ったく……フリルはここに残るのか?」
「うん。私はこの子と、遊びに来たから」
フリルは竜に寄り添ったまま、こくりと頷いた。
「あいよ。じゃ、アタシ達はテキトーに見て回って来るか」
スカーレットは軽く手を上げて、ルーシェを追おうと歩き出す。
「案内してくれて助かったぜ」
フリルは相変わらず表情を変えずに軽く頷くだけだったが、その傍らで竜の尾が、上機嫌に揺れていた。
「おいルーシェ……! お前、勝手に……」
洞窟を抜けたスカーレットの声が、途中で止まった。
そこに広がっていた光景に、二人とも、言葉を失っていた。
洞窟の出口は、高い山の上に開けていた。眼下には、月光に照らされた箱庭の全景が、どこまでも広がっている。深い森、銀色に光る湖、遠くには噴煙を上げる火山、その向こうに白く凍てつく氷雪の地。一つの場所とは思えないほど、多様な自然が、月の下に静かに息づいていた。
そして、そのあちこちに——竜たちがいた。
眠る竜、水を飲む竜、月を見上げる竜。様々な姿の竜たちが、思い思いに夜を過ごしている。厳格な管理などは無く、竜たちは望んでここで生きていた。
「っ……すげぇ……これが箱庭……!」
崖の縁に立つルーシェが、振り返って叫んだ。その瞳は、月明かりよりも輝いている。
「スーちゃん! 行こう! 冒険に!」
二人は、崖を下りて、箱庭の中を歩いた。
「っと、この辺りは森林洞窟エリアで、危険は無さそうだが……遠くに見えた火山とか氷雪エリアは、普通に死ねそうだよな」
「それだけ色んな場所に住んでた竜が、ここに集まってるって事だよね? すごいなぁ」
ルーシェが、感心したように周囲を見回す。砂漠の竜も、雪原の竜も、火山の竜も。本来なら決して同じ場所にはいないはずの竜たちが、この箱庭には集っている。
「15年前の、竜人の大規模な襲撃が与えた影響って奴だろうな」
スカーレットの声が、少しだけ沈んだ。
「奴らの脅威を目の当たりにした竜達が、共に立ち向かう為アカデミーに集まった。……実感ねぇけど、またいつ起こるかも分からないしな」
学長が語った事件。目の前の平和な光景の裏に、確かに刻まれている、空の脅威の爪痕。
歩くうちに、ルーシェが足を止めた。
岩陰で、一頭の小柄な竜が、丸くなって眠っている。
「寝てる。かわいいね」
ルーシェが顔をほころばせ、近づこうとする。
「起きて騒ぎにでもなったら即アウトだからな。触るなよ」
スカーレットが慌てて釘を刺す。ルーシェは名残惜しそうに手を引っ込めた。
それからしばらく、二人は静かに辺りを見て回った。
「さて、そろそろ戻るか。朝になったら竜達も起き出すだろうし面倒だ」
「えぇ? まだ火山まで見てないよ?」
「そりゃまた今度なー」
スカーレットが歩き出す。ルーシェも、後ろ髪を引かれながら、その後に続こうとした——その時だった。
《ルーシェ……アイオライト……》
声が、聞こえた。
ルーシェの足が、ぴたりと止まる。それは、竜の声だった。明瞭で、まっすぐに、彼女の名を呼んだ。
「えっ!? 誰……?」
ルーシェは辺りを見回した。だが、声の主の姿はない。
「ん? どうしたルーシェ?」
スカーレットが振り返る。彼女には、当然何も聞こえていないようだった。
《キミを待っていた……空を飛べるようになったあの日から》
声は、近くにいるようでいて、どこか遠くからも響いているようだった。
「どこ? 近くにいるの?」
《今はまだ早い……来るべき時に、キミに会えるのを楽しみにしているよ》
「あなた……あなたは、誰なの?」
しばしの沈黙。そして、声は、自らの名を告げた。
《私は……『ディアナ』……》
声は、それきり聞こえなくなった。後に残ったのは、夜風の音と、月明かりに照らされた箱庭の静けさだけ。
「おいルーシェ! まさか、聞こえてたのか?竜の声が」
スカーレットが、ルーシェの様子に気づいて問う。契約していない竜の声を聞ける——それが、この少女の持つ不思議な力だということを、スカーレットはもう疑う余地も無い。
「うん。 ディアナって子が、私を待ってるって。でも、今じゃないって」
ルーシェは、声の消えた方を見つめたまま、答えた。
「……なるほどな。なら早く戻って、正式に箱庭に入れる日を待つしかないって事じゃないか?」
スカーレットの言葉に、ルーシェは静かに頷いた。
「そう……だよね」
ルーシェは、月の浮かぶ夜空を見上げた。その遥か高くを、いつか自分は、あの声の主と共に飛ぶのだろうか。
「待っててね、ディアナ。絶対に、会いに行くから……!」
夜風が、ルーシェの誓いを、静かに運んでいった。
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