No.8 三日目・秘書「雨の日の遊び」

午後、雨が小振りになったタイミングを見計らい、絨毯の上で寛いでいるサモエドのユニへ声をかける。


「散歩、行くかユニ。できれば外でトイレしたいんだろ?」


賢い犬は「散歩」という言葉に立ち上がり、玄関ロビーのほうへスタスタと歩いていく。


マドカさんが置いていった犬用のレインコートで、フワフワの毛が濡れるのを防いでから、リードをつけてやる。

俺も、屋敷の中に置かれていた使用人用の雨合羽を羽織り、ぐるっと一周だけ庭を散歩させてやるために、外へ出た。


(子どもの頃に大型犬を飼っていた経験が、こうして秘書になった今、役立つとは。俺は完全な犬派だが、あの執事は何かペットを飼うとしても、猫だろうな……)


雨脚はそこまで強くなかったが、台風の接近を感じさせる強い風が吹いて、樹々を揺らしていた。

広すぎる庭を歩きながら、ユニが木の根元で用を足したのを確認する。

五分ほどで屋敷へ戻ったが、俺もユニも思ったより濡れてしまった。

玄関では眼鏡執事が待っていてくれたが、この男はやはり犬に触れようとはしない。


「どうぞ、お使いください」


そう言ってタオルを差し出してきただけだ。

それでもありがたく受け取り、ユニの足や濡れてしまった毛を丁寧に拭いてやる。

ユニはそれなりに満足そうな顔をして、お礼でも言うように「ワン」と鳴き、定位置である居間の絨毯へ戻っていく。


「今日は庭の水やりはしなくて済みますけど、多少の台風対策をしたほうがいいかもしれませんね」


執事の提案を受け、俺は雨合羽を着たまま、屋敷の周りに風で飛んだら危ないものがないか見て回ることにした。

彼は屋敷内に雨や風が吹き込むような場所がないか、点検をしてくれるという。


プール掃除のときに移動させた用具の一部を倉庫の中に仕舞い、倒れそうな植木鉢を軒下へと避難させた。

日頃から庭師によって手入れされている庭木は、突風が吹いても倒れることはないだろう。

屋敷を見上げると、執事が使われいない部屋の雨戸を閉めて回っているのが見えた。


玄関ロビーへ戻ると、彼は再びタオルを持って立っていてくれる。


「ありがとうございました。窓や扉は問題ありません」


「俺も、風で飛んで行きそうなものは、倉庫へ仕舞った。これで大丈夫だろう」


大きな問題はなかったと確認し合い、二人で居間へ戻ったとき、執事が大きな悲鳴をあげた。


「ヒィーーー。い、いけません!ミカ様っ!」


その声に驚いたミカが、手に持っていたものを落としそうになる。

さらにユニも、ミカに何かあったのかと俊敏に立ち上がり駆け寄ってきて、ローテーブルにぶつかった。

テーブルが揺れ、さらに被害が広がりそうだ。


眼鏡執事は咄嗟にスライディングのように滑り込んでミカが落としそうなものを支え、俺はローテーブルの上で倒れそうなものをダイブして押さえる。


「セーフ……」

「はぁ……」


俺たちの寿命は縮まりそうだったが、ミカもびっくりしたのか泣きそうな顔をしている。

彼女はサイドボードに並んでいた稀少なデキャンタをいくつも持ち出し、色のついたビーズを出し入れして遊んでいたのだ。


「ミカ。バカラのデキャンタを遊び道具にしてはいけない」


「どうして……?小さい頃もこの中にビーズを入れて遊んだわ。おじいさまはそれを見ても、怒ったりしなかった」


ぐずぐずと泣き出してしまった少女に、俺と執事は頭を抱える。

このデキャンタ、一ついくらするのだろう。

細かく精巧な細工は、おそらくアンティークで、見るからに高そうだ。


「ミカ様。お祖父様は許してくださったかもしれませんが、留守を預かる私たちでは、それが壊れてしまったときの責任が負えません。お祖父様が一つ一つ集められた、思い出の詰まった大切なものだからです。どうか、今後は触れられませんよう、お願いいたします」


(確かに金額だけでなく、亡きお祖父様の形見でもあるのだ。あのコレクションが減ってしまったらCEOも悲しまれるだろう)


執事の丁寧な言葉に、ミカは鼻を啜りながら「わかったわ」と小さく呟いた。



しょんぼりとしてしまったミカを励ますため、15時のおやつの時間にすることにした。


「ミカは何が食べたい?」


「パンケーキ……」


「よし、分かった。任せておけ」


俺は彼女の元気が戻るように、SNSの映え写真で見かけるような、ふわふわのパンケーキを作り始める。

眼鏡執事も、食堂の真っ白なテーブルクロスを、レースをあしらったより上品なものへ掛け替え、テーブル中央には真鍮のキャンドルホルダーを飾った。

そして普段使いの中でも、より華やかな皿とカトラリーを並べる。


「なんだかパーティみたい!私、ワンピースに着替えてくるね!」


俺と執事の本気を察した彼女には笑顔が戻り、二階へと階段を駆け上がっていく。

パンケーキが焼きあがる頃、ミカは先ほどとは違う、ゆったりとした足取りで階段を下りてきた。

大きなリボンが揺れる黄色いワンピースは、彼女によく似合っている。


執事が椅子を引き、ミカが腰掛ける。

俺は、所詮タンクトップにエプロン姿だったが、できるだけ胸を張り、一流シェフになった気分で、パンケーキを彼女の前へサーブした。


(この屋敷に来て、初めてタンクトップしか持ってきていないことを後悔したな)


「ふわふわパンケーキのバナナ添えでございます。お好みで蜂蜜をかけてお召し上がりください」


執事の口調を真似てみる。

眼鏡執事も花柄のティーカップへ、美しい所作で紅茶を注いだ。


「フォションのアップルティーでございます」


「ありがとう。いい香りね」


おしゃまにそう返事をした彼女は、上手にナイフとフォークを使いパンケーキを口へ運んだ。

匂いに釣られたのか、居間からユニもやってきて、クンクン匂いを嗅ぎながら尻尾を振る。


「うん!とっても美味しいわ。でも、ユニは食べちゃだめよ」


「クゥーン」と残念そうに鳴いた白い犬は、大人しくその場に寝そべって、パーティの様子を見守っていた。


「シェフのおじさんも、ウエイターのおじさんも一緒に食べましょう」


「では、ご一緒させていただきます」


窓の外には台風が近づいていても、屋敷の中ではなかなかに優雅なお姫様ごっこが行われている。

お姫様はご機嫌麗しく、美味しそうにおやつの時間を満喫された。


「お礼にバレエを踊ってあげるね」


そう言って、俺たちの前でメロディを口ずさみながら、踊ってくれるほどに喜んだようだ。

靴下で踊るバレエのお姫様は、俺の想像したよりもずっと可憐で、可愛らしかった。


「秋の発表会で踊る予定の曲なの、どうだった?」


観客である俺たち二人は、バレリーナに惜しみなく賛辞の拍手を送った。



昨日は夕食後だったマドカさんからの電話が、夕方、眼鏡執事のスマホに掛かってきた。

彼はちょうど、バスルームの掃除をしていたので、許可を得て俺が電話に出る。


今日のイベントは早仕舞いになったそうだ。

すでに湾岸のほうでは台風の猛威を感じられるようで、「ミカは怖がっていないかしら?」と心配していた。


ミカに電話を替わると、彼女はマドカさんに生意気な口をきく。


「ママ、台風がくるから気を付けてね。夜、出歩いたりしちゃダメだよ。一人で寂しいだろうけど、しっかり寝ないと、明日お仕事失敗しちゃうからね」


彼女の大人びた物言いに、きっとマドカさんは癒されているのだろう。

支え合う母子に、俺の胸は温かな気持ちになった。

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