第四部 消された都
第16話 追手と同じ夜を越える
二つ目の橋は、橋台だけが残っていた。
一つ目は昨日の夕方に越えた。谷が浅く、倒れた松を二本渡して、馬を引いて渡った。半刻かかった。
二つ目の谷は、底が見えなかった。渡す木がなかった。あっても、届かない幅だった。
橋台の石は残っていた。橋桁だけが落ちていた。
落としたのは魔物ではない。切り口が真っ直ぐだった。人が落としたものだった。
桁を落とすには、人手と、落とす理由がいる。二十年前、この道の先を通らせたくない誰かがいた。
旧軍道は、二十年以上前に使うのをやめた道である。やめるときに、渡らせない措置を取ったのだろう。
「上流に道があります」
カイルが言った。
「峠の切り通しを抜けます。距離は、ここから三里ほど」
「日没までに抜けられる?」
カイルは日を見て、道の勾配を見て、荷馬の脚を見た。
「抜けられません」
アルマは日の位置を見た。西へ傾いている。残り、十二日。
抜けられないという答えは、峠の中で夜を越えるという意味だった。
峠は線の外にある。フェイがそう言った。まともな旅人は通らない、と。
戻る道もあった。グレナまで一日、そこから主街道で五日。旧都に着くのは、五日あとになる。
(五日は、ない)
アルマは数えて、口に出さずに捨てた。
「行きます」
「はい」
カイルが左腕の布を解いた。
肩を固定していた布だった。グレナを出てから、一度も外していなかった。
「なぜ外すの」
カイルは布を丸めて荷へ入れた。理由を言わなかった。
リネットが、ノアの手綱を引いて前へ出した。ノアは馬が下手だった。下りで遅れる。
四人と、馬が三頭と、荷馬が一頭。峠へ入った。
入ってすぐ、空気が変わった。谷の底の匂いだった。日の当たらない場所の土の匂いが、道の上まで上がってきている。
§
切り通しは、両側が岩だった。
人の背の三倍ほどの高さで、削ったのではなく、崩れて出来た形をしていた。幅は馬二頭ぶん。
岩のあいだを風が通る。抜けるときに、細い音がした。
馬が耳を伏せた。
霧は、斜面の上から下りてきた。
昼のうちから丘に溜まっていたものが、日が落ちるより早く動いた。
アルマは、まだ空が明るいうちに、前方の道が見えなくなるのを見た。
最初の一頭が、前から来た。
二頭目と三頭目は、ほとんど同時だった。
「後ろ」
カイルが言った。
アルマは振り返った。来た道のほうにも、影が動いていた。
数えようとした。三、四、五まで数えて、やめた。数える対象が、一頭ずつ離れていなかった。
(挟まれている)
退がる先を探しているとき、後ろから別の音がした。
馬だった。四つ足の走り方が、
七騎。
先頭の兜を、アルマは知っていた。
知っている兜が、いま後ろから来ている。追われていたはずのものが、退路になっていた。
「殿下」
ガレスだった。
「隊を、二つに分けておりました」
「主街道へ行ったはずでしょう」
「十三騎は行かせました。荷と、足の遅い者です」
ガレスは馬を降りた。降りながら、前方と後方の両方を見た。
見て、状況を理解するのに三つ数えるほどしかかからなかった。
「我々も、退がれません」
§
アルマは指揮を求めなかった。
求めても渡されない。渡されたところで、神殿騎士は王女の号令で動かない。
分けたのは、方角だけだった。
「前を、わたしたちが持ちます」
「後ろは、こちらが」
それだけだった。話し合いは、それで終わった。
決めることが少ないのは、どちらも同じものを数えているからだった。
アルマは荷を開けた。矢が二十七本。油が二壺。包帯。フェイが数えて渡したものだった。
十一人いた。四人と、七人。
アルマは矢を分けた。ガレス隊の弓は二人だった。その二人に、九本ずつ渡した。手元に九本残した。
ガレスは受け取り、数を口に出した。
「九本。二人で十八本。承知しました」
数える人だった。アルマは、その一点だけで、この夜が成立すると思った。
油を一壺、後ろへ回した。カイルは前の一壺を岩の根元へ置いた。押し込まれたときにだけ使う、と言った。
狭いことは、悪いことばかりではなかった。
幅が馬二頭ぶんしかないので、一度に来られるのも二頭までだった。前で三人が立てば足りた。
足りるかわりに、その三人が交代できなかった。
カイルの剣は、二度目からもう長く振れなかった。左腕が上がらない。
彼は前へ出ず、二列目の位置を直し続けた。半歩右、いまの位置で止まれ、下がるな、と声だけで動かした。
アルマは前に立った。剣は儀礼用の細いものだった。振るのではなく、突いて押し返すのに使った。
腕より、足の置き場所のほうが早く疲れた。踏み替えるたびに、砂利が鳴って、置き直すことになる。
息が続かない。吸っても、胸のいちばん上までしか入らなかった。
三度目に位置を直したとき、アルマは彼の左肩を見た。
布が濡れていた。
「リネット」
アルマは呼んだ。呼んでから、続きを言わなかった。
妹は治癒を使おうとして、手を上げかけていた。
「使うな」
カイルが言った。声を張らずに、はっきり言った。
「手が震えれば、荷が運べません。今夜は、油のほうが要ります」
リネットは手を下ろした。下ろして、油の壺を抱えて岩の根元へ走った。震えは、まだ出ていなかった。
§
後ろで人が倒れる音がした。
二人だった。一人は腹、一人は脚。ガレス隊の騎士だった。
ノアが後ろへ回った。
誰も言わなかった。アルマも言わなかった。気づいたときには、ノアは灯りを持って岩の陰にしゃがんでいた。
「神殿の」
若い騎士が言いかけた。
「よせ」
ガレスが名前を呼んだ。それだけで止まった。
ノアは手を止めなかった。腹のほうから始めた。傷の上に手を置いて、光を移した。
光は弱かった。三日前にも使っている。
治しながら、ノアは自分が何を止めたのかを考えていた。
彼が止めたのは、旅程の報告だった。大神官への三行だった。
神殿を止めたわけではなかった。
神殿には、灯りの油を分ける係の老人がいて、写字室に指の曲がった先輩がいて、いま腹を裂かれて息をしている二十歳の騎士がいた。
「記録では」
言いかけて、やめた。
今日は、書くことがなかった。
書くのは、あとで手が空いたときにする。手が空くという言い方を、この旅の前は使ったことがなかった。
脚のほうへ移るとき、ノアの手が一度止まった。光が出なくなっていた。しばらく待って、また出た。出る量は、さっきの半分だった。
アルマは前を向いたまま、後ろの気配だけを聞いていた。
今夜、治す者が一人しかいない。そういう数え方を、彼女はこの旅で覚えた。
(数えるな)
覚えたことを、いまは使わないようにした。使えば、ノアを止めることになる。
§
荷馬が脚を折ったのは、夜が明けかけたころだった。
岩を蹴って跳ねたときに、前脚が石の隙間へ入った。音がした。
カイルが荷を降ろした。降ろしてから、右手だけで処理した。
アルマは見ていた。目を逸らさなかった。逸らす資格がないと思った。
音は一度だけだった。二度目がないように、カイルが場所を選んでいた。
薬箱は半分が谷へ落ちた。矢は、拾ったぶんを入れて九本になった。油は、後ろで一壺を使い切り、前の一壺が残った。
リネットが、ガレスの前へ行った。
朝の光が入りはじめていた。ガレスは兜を脱いで、隊の負傷者を数えていた。
「聞きたい」
リネットが言った。
「馬が一頭減った。あなたの隊には七頭ある」
「六頭です。一頭は昨夜」
「六頭。私を王都へ運ぶのに一頭使うつもりなら、今夜の怪我人に使って」
ガレスは数え終わってから答えた。
「今夜は、そういたします」
今夜は、という四文字を、彼は落とさなかった。
落とせば、そのぶん自分の言葉が軽くなる。この男は、軽くなるほうを選ばない。
リネットも聞き逃さなかった。聞き逃さないまま、「わかった」と言って、包帯の残りを取りに戻った。
§
霧は薄くなった。消えはしなかった。
夜が明けても、斜面の中腹に帯が残っていた。日が当たっているのに、白いまま動かない。
ハルメ村でも、グレナでも、朝には消えた。ここでは消えなかった。
峠を下りきるまでに、半刻かかった。誰も速く歩けなかった。
カイルは熱があった。触らなくても分かる歩き方をしていた。
リネットが水を差し出したとき、彼は右手で受け取って、飲む前に一度だけ目を閉じた。
「隊を返さないのですか」
アルマは聞いた。
「返しません。同行いたします」
「理由を聞いても」
「文面に、今夜死なせろとは書いてございません」
ガレスは前を見たまま言った。
「ただし、日を切ります。一日ずつ」
下りきったところで、道が広くなった。
城壁が見えた。
高い壁だった。グレナの外壁の倍はあった。石は大きく、積み方は丁寧で、二十二年ぶんのつたが根元まで覆っていた。
グレナの壁は、二十二年前に急いで積んだものだった。こちらは、二十二年前より前からある壁だった。積んだ人間の数が違う。
門は開いていた。
正確には、倒れていた。
片方の扉が、内側へ向けて外れて地面に落ちている。閂が、外側ではなく内側から外されていた。
アルマは門をくぐった。
くぐってすぐ、門柱の内側の壁に、白いものが見えた。
印だった。
三角が一つ。その上に、二本の線を交差させてある。
石灰で書かれていた。雨に打たれて薄くなっているのに、消えていなかった。
一つではなかった。門の内側の壁に、横へ並んでいた。数えると十二あった。
その列の下に、日付が削り込まれていた。石を彫った字だった。二十二年前の、夏の終わりの日付だった。
ノアが、馬から降りた。
降りて、印の前に立った。
「祈らぬ家の印です」
声が小さかった。
「記録で、読んだことがあります。二十二年前の西部でだけ使われた、と」
「何のために」
「共同の祈りに、出なかった家に付けたそうです。……そう、書いてありました」
「誰が付けたの」
「付けた者の記録は、ありません」
ガレスが門をくぐってきた。印を見て、足を止めた。止めただけで、何も言わなかった。
アルマは、門の内側から、通りの奥を見た。
朝の光が、まっすぐ入っていた。人が一人もいない道に、同じ白い三角が続いていた。
一軒おきではなかった。二軒か三軒に一つずつ、途切れずに、通りの奥まで続いていた。
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