第8話 伝えられない真実
涼太との食事は、都心の隠れ家的なイタリアンレストランで行われた。個室のテーブルにはキャンドルが灯り、由貴は少しだけ緊張していた。
「由貴ちゃん、今日は本当に綺麗だね。そのワンピース、初めて見たけど、すごく似合ってる」
涼太はワイングラスを手に、優しい笑顔を向ける。由貴はその言葉に、心臓がほんの少し跳ねた。
「ありがとうございます。涼太さんに呼んでいただいて、嬉しいです」
「そんなに堅苦しくしないで。今日は仕事の話じゃなくて、ただ君と話したかったんだ」
涼太はそう言って、由貴に料理を勧めた。彼はいつも通り、由貴の好みをよく知っている。彼女が何を食べたいか、何を飲みたいか、まるで全てを把握しているかのように。
食事が進むにつれ、涼太は徐々に話題を蒼石に向け始めた。
「由貴ちゃん、蒼石くんとはこれからも一緒にいるつもり?」
由貴はフォークを止めて、涼太を見上げた。
「……どういう意味ですか?」
「だって、彼は君に『綺麗』と言わないだろう?君がどれだけそれを求めているか、彼は知っているのに、それでも言わない。それは、君を傷つけているんだよ」
涼太は真剣な目で由貴を見つめた。その瞳は、まるで由貴の心の奥まで見透かそうとしているかのようだった。
「……彼には、彼なりの考えがあるんだと思います」
「考え?彼は君に言葉を与えないことで、君を『自分だけのもの』にしようとしているんだ。それって、愛情なのかな?」
由貴はその言葉に、胸の奥がざわついた。蒼石は確かに「俺だけのものだ」と言った。あのすっぴんの撮影のとき、彼はそう言ったのだ。
「……でも、蒼石は私のことをよく見てくれています。細かいところまで」
「それは彼が観察好きなだけだよ。君が求めているのは、観察じゃない。言葉だ。愛情のこもった、具体的な言葉だ。それを彼は与えない」
涼太はワイングラスを置き、由貴の手にそっと触れた。
「由貴ちゃん、君はもっと幸せになる権利がある。君をちゃんと褒めてくれる人と一緒にいるべきだ。俺は、君にその幸せを提供したい」
由貴はその手の温もりに、心臓が大きく脈打つのを感じた。
(……涼太さんの言う通りかもしれない。蒼石は確かに、言葉をくれない。でも……)
彼女の頭の中に、蒼石の言葉がよみがえる。
綺麗だと思う。誰にも見せたくないくらいに。
あの言葉は、由貴の心に深く刻まれている。彼が初めて口にした「綺麗」という言葉。それは、涼太の「綺麗」とは、明らかに重みが違っていた。
「……少し、考えさせてください」
「もちろん。でも由貴ちゃん、時間は有限だよ。君の青春は、そんなに長くない」
涼太はそう言って、再び優しく微笑んだ。
その夜、由貴が帰宅すると、蒼石の部屋の灯りが点いていた。彼女はドアの前で立ち止まり、声をかけるかどうか迷った。しかし、酔いのせいか、今日は彼の顔を見たかった。
「蒼石、起きてる?」
「……ああ」
ドアが開き、蒼石が現れた。彼はいつもより少しだけ疲れた顔をしているように見えた。
「……今日、涼太さんと食事だったんだろ」
「うん。あなた、知ってたの?」
「……靴を見れば分かる。由貴がいい匂いのする店に行くときは、いつもあの靴を履くから」
由貴はその言葉に、少しだけ驚いた。自分でも気づいていなかった自分の癖を、彼は当たり前のように知っている。
「……そうなんだ。知らなかった」
「……由貴、今日はもう休め。明日も撮影があるんだろ」
「うん……でも、ちょっと話したいことがあって」
由貴はリビングのソファに座り、蒼石もその隣に座った。二人の間には、少しだけ距離があった。
「……涼太さんに、『蒼石は君に綺麗と言わない』って言われた」
蒼石は何も言わなかった。彼の顔は相変わらず無表情だが、由貴は彼の指先がわずかに震えていることに気づいた。
「……それで、どう思った」
「……私も、そう思う時がある。どうしてあなたは、私に『綺麗』って言ってくれないの?」
蒼石はしばらく沈黙した。そして、静かな声で言った。
「……言ったら、終わりだと思っている」
「……終わり? 何が?」
「……由貴が『綺麗』と言われて満足したら、もう俺の目には、君の新しい『綺麗』を見つけられなくなる気がする」
由貴はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「……何それ。意味が分からない」
「……そうだな」
蒼石は立ち上がり、キッチンに向かった。そして戻ってきたときには、湯気の立つほうじ茶が入ったマグカップを持っていた。
「飲め」
由貴はそれを受け取り、一口啜った。やっぱりちょうどいい温度だった。
「……蒼石、あなたは私のこと、どう思ってるの? 本当の気持ちを教えてよ」
蒼石は由貴の隣に座り直し、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、いつもより深く、何かを隠しているように見えた。
「……由貴は、俺にとって、唯一の『言葉』だ」
「……言葉?」
「……俺は、由貴を言葉にすることで、やっと生きている。由貴がいるから、俺は小説を書ける。由貴を書くために、俺は生きている」
由貴はその言葉に、息を呑んだ。
(……私が、彼の『言葉』?)
「……でも、由貴は俺の言葉を『難しい』と言う。『バズらない』と言う。それでいい。でも、俺は由貴を書くことをやめられない。それが、俺のすべてだから」
蒼石の声は、いつもより少しだけ震えていた。由貴はその震えに、何か大切なものを感じた。
「……涼太さんは、君に『綺麗』と言う。それは、君が求めているものだ。でも、俺は君に『綺麗』とは言わない。言ったら、由貴という『言葉』が、ただの『綺麗』になってしまう気がするから」
由貴はその言葉の意味を、必死に考えた。彼は、由貴を「綺麗」という一つの言葉に閉じ込めたくないと言っているのだ。彼にとって由貴は、もっと多様で、もっと深い、無数の言葉の集まりなのだ。
「……蒼石、あなたは……」
「……伝えたいことは、それだけだ。由貴は、それをどう受け取るかは、由貴が決めればいい」
蒼石は立ち上がり、自分の部屋に戻ろうとした。由貴はその背中に、声をかけた。
「……蒼石、明日の撮影、来る?」
「……行く」
「嫌々じゃないよね?」
「……嫌じゃない」
蒼石はそれだけ言って、ドアを閉めた。由貴は残されたほうじ茶を手に、その言葉を何度も反芻した。
(私は、彼の『言葉』。彼は私を書いて生きている……)
由貴はその言葉が、涼太のどんな言葉よりも重く感じられた。それは、自分の存在そのものが、彼の人生の一部だということだった。
しかし、その翌日、涼太からまた新しい提案が届いた。
『由貴ちゃん、次の撮影のプランだけど、ちょっと過激な企画を考えたんだ。君の『素』をもっと見せるために、ライブ配信をやってみない?もちろん、俺が全面サポートするよ。』
由貴はそのメッセージを見て、蒼石の言葉と涼太の言葉が頭の中でぶつかった。
(……ライブ配信? すっぴんの次は……?)
彼女はまだ返信を迷っていた。そのとき、蒼石の部屋から、何かが落ちる音が聞こえた。
由貴は慌てて蒼石の部屋に駆け込んだ。彼は床に原稿用紙を散らばらせて、それを拾っているところだった。
「……大丈夫?」
「……ああ」
蒼石は顔を上げた。その顔は、いつもの無表情だったが、どこか疲れが見える。
「……何かあったの?」
「……いや」
彼はそう言って、原稿用紙を拾い集め始めた。由貴はその背中を見ながら、声をかけるかどうか迷った。しかし、彼が「いや」と言うなら、それ以上は聞かない方がいいと思った。
由貴は自分の部屋に戻り、涼太のメッセージをもう一度読んだ。
(……ライブ配信。それも、過激な企画って……)
彼女は指を動かして、涼太に返信を打った。
『どんな企画か、もう少し詳しく教えていただけますか?』
すぐに返事が来た。
『久しぶりに君の素顔をファンに見せよう。メイクも加工もなしの、リアルな由貴ちゃんを。それで、君の本当の魅力を伝えたいんだ。』
由貴はその言葉に、心臓がドキドキしているのを感じた。
(……それって、蒼石が言ってた『誰にも見せたくない』ってやつじゃないの?)
しかし、涼太の言葉は甘く、魅力的だった。由貴はその矛盾に気づきながらも、返信を打った。
『……わかりました。やってみます。』
その夜、由貴はベッドの中で、自分のスマホを見つめながら考えていた。
(蒼石は、私のすっぴんを『誰にも見せたくない』と言った。でも、涼太さんは『見せるべきだ』と言う。どっちが正しいんだろう……)
その答えを出す前に、由貴は眠りに落ちた。
隣の部屋では、蒼石が静かにPCを閉じている。彼は由貴の「すっぴんの写真」を保存したフォルダを見つめながら、静かに呟いた。
「……伝えたいのに、伝わらない。これが、俺の運命なのか」
彼はその言葉を、原稿用紙に書き写した。そして、一つの決断を胸に刻み始めた。
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