第18話 「戦略的撤退」

 梅雨が明けた。


 湿度が高い。暑い。駅まで歩いただけで背中に薄く汗が貼りつく。


 今日も仕事を終え、私はいつもの満員電車に乗り込んだ。帰宅ラッシュ。乗車率は百数十パーセント。皆スマホを見るか、虚空を見るか、眠るかのどれかだ。


 そして私は、今日も運悪くつり革のない空間に押し込まれた。


 逃げ場はない。右はリュック。左は肘。後ろは圧力。前には肩があった。見知らぬ男の肩だった。


 一般的な男性には理解しづらいかもしれない。身長というものは、人生のイベントを勝手に変える。高い人は景色が違う。低い側には低い側の戦場がある。満員電車では、ちょうど肩の高さに顔が来る。


しかも、夏だ。


 嫌な予感がした。違ってくれ。今日だけは違ってくれ。私は静かに祈った。


 しかし神は、祈りに対してだいたい無関心である。


 その肩の周辺から漂う空気が、徐々に私の予測を確信へ変えていく。


ああ。


 これはハズレだ。直接的ではない。暴力的でもない。だが確実に存在している。逃げられない。そんな種類の圧だ。


 せめて動かないでいてくれ。そのまま固定されていれば、被害範囲は限定される。


私はそう願った。


 扉が閉まる。そして車内全体で、あの微調整が始まった。満員電車経験者なら知っている。全員が数センチずつ、自分に最適な立ち位置を探す時間。


 足を半歩。肩を少し。肘を収納。


その瞬間だった。


 前の男が動いた。横のポールへ手を置いた。脇が開く。その瞬間。


来た。『ムワァ』そんな効果音が聞こえた気がした。


 気のせいではない。空気は変わった。顔周辺の環境が、一段階進化した。いや退化かもしれない。


私は思わず顔を逸らす。しかし逃げ場はない。


 右も人。左も人。後ろも人。ここはもう閉じられた空間だ。


 私は少しだけ反抗してみた。前の男を睨む。気づけ。頼む。少しだけ。脇を閉じてくれ。


 だが男はスマホを見ていた。


 完全に別世界。こちらの無言の抵抗など、圏外である。


 制汗剤、スプレー、塗り薬、服、治療。選択肢はいくらでもある時代だ。なのに、なぜこの問題は解決できないのだ。


 これは戦って勝てる相手ではない。次の駅で降りよう。目的地まではまだ遠い。


 一本遅れる。少し時間もかかる。だがいい。人間には、撤退という知恵がある。


 電車が駅に滑り込む。扉が開く。私は静かに人波を抜けた。ホームの空気を吸う。湿度は高い。暑い。


 なのに、外の空気がこんなにも爽やかに感じるとは。


 私は次の電車を待ちながら思った。


 次こそは。

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