第2話 一時 眠らない建物
一九一七年十月二十四日(旧暦) 午前一時 スモーリヌイ
上等だ――そう答えた声は、まだ喉の奥に居座ったままだった。返事の意味を確かめる間もなく、扉の内側から伸びてきた手におれの肩を叩かれ、廊下へ押し出される。
背後で扉が閉まる音がした。懐には六通の封筒がある。ヴィボルグに二つ、ペトログラード側に一つ、ヴァシーリエフスキー島に一つ、川向こうに二つ。夜明けまでに届けろ、橋が上がる前に渡れ、紙を落とすな――落とせば六つの葬式になる、と言われた。先に出た伝令はもう三時間戻っていないことも、復唱までさせられて頭に叩き込んだ。まぶたの裏に居座っているのは、壁の市街図のヴィボルグの一角に、赤鉛筆で重ねて引かれた二重の丸だ。何を意味するのかは聞かされていない。それでもおれは「上等だ」と答えた。理由はあとから追いついてくる。今はまだ、足だけが先に動いている。
三階の廊下は、宮殿と呼ぶには惨めで、兵営と呼ぶには豪奢すぎた。ここはもとは貴族の令嬢たちが行儀作法を仕込まれた女学院だったと聞いたときは、鼻で笑った。今、その廊下の床には機関銃の弾帯が蛇のようにとぐろを巻き、扉の把手のひとつひとつに予備の帯革がぶら下がっている。金縁の鏡は縦にひびが入ったまま磨かれもせず、天井では漆喰の天使たちが煙草の煙にいぶされて灰色に汚れていた。おれの足もとには外套にくるまって眠る兵士が三人、四人と転がっている。誰かの背嚢を枕にした少年兵の顔は、まだ十六かそこらに見えた。半開きの扉の奥からタイプライターの音が絶え間なく響いてくる。かちかちという固い連打は、機関銃の試し撃ちの音によく似ていた。壁には剥がれかけた金箔の下に、消し残った女学院の紋章がうっすらと透けて見える。かつては良家の娘たちが刺繍の稽古をした壁際に、いまは弾薬箱が積まれていた。ここは、眠らない建物になっていた。
扉のひとつは開け放たれたままで、中を覗くと、机の上に転がった蓄音機のラッパ型集音器が目についた。もとは音楽でも聴くための品だったのだろうが、今はどこかの部屋から運び込まれ、書類の重しに使われて埃をかぶっている。廊下の突き当りでは、割れた窓に古新聞が幾重にも詰め込まれ、隙間風を防いでいた。かつて令嬢たちが仏語の作文を綴ったという教室の扉の向こうから、包帯を巻かれる兵士の低い呻き声が漏れてくる。看護婦らしい女がランプを片手に、その扉を出たり入ったりしていた。革命は、令嬢たちの作法室にまで踏み込み、みずからの都合のいいように作り替えていた。
廊下の中ほどで、腕に赤布を巻いた別の伝令とすれ違った。互いに目を合わせたのは一瞬だけで、言葉は交わさない。相手の額には汗が光り、外套の裾には泥が撥ねていた。よほど遠くから駆けてきたのだろう。おれたちは互いの行き先も名前も知らない。ただ、同じ種類の疲れをまとった者同士だと、匂いでわかるようなものだった。壁の一角には、剥がされた紋章の跡に、刷られたばかりのビラが画鋲で留められている。糊もまだ乾ききっていない。この建物は、壁の貼り紙の順番を見ているだけでも、一晩ごとに書き換えられているのがわかった。
天井の隅では、蜘蛛の巣のように電線が這っている。もとは女学院の舞踏会にでも使ったのだろう、豪奢なシャンデリアの金具から裸電球がひとつぶら下がり、あたりを不釣り合いなほど明るく照らしていた。花模様の壁紙は煙草の脂で黄ばみ、あちこちに軍靴の泥がこびりついている。優雅だったはずの建物が、いまはただ働くための場所に変わっていた。それはそれで、悪くない変わり方だとおれは思う。
案内に立った若い書記は足を止めず、廊下の角を折れて奥の扉を押し開ける。おれはその背中を追いながら、床で眠る兵士のひとりを跨いだ。男は身じろぎもしなかった。眠りというより、意識を失っているに近い眠りだった。天井の電灯は半分が切れ、残った半分がじりじりと音を立てて瞬いている。灯りの下を通るたび、影が伸びたり縮んだりした。
「こっちだ」
書記はそれだけ言うと、扉を大きく開け放って、おれを先に押し込んだ。
中は煙草の煙で白く曇っていた。マホルカの葉を巻いた安煙草の匂いが、壁に貼られた地図にまで染みついているように思えた。大きな机に広げられたペトログラードの地図には、赤鉛筆の線と待ち針が刺さり、橋という橋、駅という駅に印がついている。ネヴァ川を渡る五つの橋のうち三つに赤い丸、二つにまだ印がない。机を囲む委員たちは書類の山に埋もれ、そのうちの一人は片眼鏡を光らせたまま、椅子に座ったまま船を漕いでいた。
机の隅では、痩せた委員がひっきりなしに受話器を耳に当てては切り、また別の番号を回していた。「回線が混んでいる、少し待て」と誰にともなく呟く声が、部屋の喧騒に紛れて消えていく。壁際の椅子には、外套も脱がずに座り込んだ若い委員がひとり、地図の上の橋の印を数えながら、指先で机を叩いていた。落ち着かない指の動きが、そのまま部屋の空気を表しているようだった。
扉が乱暴に開いて、泥だらけの外套を着た男が飛び込んできた。息が上がって言葉にならないまま、ひげの委員に何ごとかを耳打ちする。ひげの委員の眉間に一瞬だけ皺が寄り、すぐに消えた。感情を顔に出す時間さえ惜しいというふうだった。泥だらけの伝令が壁際に崩れるように座り込むと、痩せた委員が水の入った罐をその手に押しつけた。誰も彼に休めとは言わなかったが、誰も急かしもしなかった。この部屋には、そういう無言の礼儀があるらしかった。
「橋の警備を先に固めるべきだ」と、若い委員が地図を指でなぞりながら言った。「印刷所などあとでいい」
「あとでは遅い」ひげの委員は顔も上げずに答えた。「紙が焼かれてからでは、詫び状も刷れん」
若い委員は口をつぐんだ。反論する材料がなかったのか、それとも反論するだけの気力が尽きていたのか、おれにはわからなかった。ひげの委員はそれで話を打ち切り、机の上の封筒に向き直った。髭の先まで煙草のヤニで黄ばみ、目の下には殴られたような隈がある。三日は寝ていない目だ、とおれは思った。
ひげの委員がおれを見るなり、片手を差し出した。
「六つはもう持っているな」
「持っている」
懐の膨らみを掌で押さえて示すと、委員は頷きもせず、机の端に置かれた封筒を一枚だけ摘み上げた。他のどの紙よりも薄く、隅には赤鉛筆の丸が二重に重ねて引かれている。三階の部屋で示された市街図の、ヴィボルグの一角にあったのと同じ丸だった。何のための印か、理由まではまだ聞かされていない。
「もうひとつだけある。トルート印刷所へ。政府が今夜、機関紙を潰しに来るという情報が入っている。編集部に警告しろ」
「潰す、というのは」
「輪転機を止めさせるか、活字をばら撒くか、印刷そのものを禁じる命令書を突きつけるか――どれでもおかしくない。連中はいつも法律の顔をして来る。今夜のうちに、必ずだ」
「向こうは何人で来る」
「わからん。多くて一個中隊、少なければ将校が数名で紙を焼くだけかもしれん。数を数えている暇はない。来る前に知らせろ、それだけだ」
委員の声には苛立ちも焦りもなかった。ただ、無駄な言葉を削ぎ落とした早口だった。おれはその早さに、逆にことの深刻さを感じ取った。
おれが薄い封筒を指先で挟んだまま見つめていると、ひげの委員は机の端に片肘をつき、地図から目を離さないまま、低く続けた。
「刷れなくなれば、俺たちは口を失う。口を失った革命は三日で死ぬ」
「間に合わなかったら」
「間に合わせろ、としか言えん。それがお前の仕事だ」
言葉の勢いに比べて、声は静かだった。市街図に描かれたヴィボルグの一角――あの二重丸の下には、印刷所という印刷所の名がひしめいている。守るべき場所だと、委員はとうに知っていたのだ。理由を明かさないまま丸だけ引いて、あとの説明はこうして紙一枚に凝縮して寄越す。おれはそれだけで、この一通が懐の六通と並んでも一番重いことを悟った。他の六通は、届けば仕事が済む。これは、届けたあとに何かが始まる類のものだった。急いで用意したはずの封筒なのに、隅の丸だけは妙に丁寧に重ねて引かれている。急ぐことと、雑にすることとは違うのだと、その線二本が言っているようだった。
「六つ回って、そのあとで印刷所か」
「順番はお前が決めろ。俺たちは地図の上でしか歩けん。走るのはお前の方だ」
道理はわかる。だが夜はもう薄くなり始めていて、道理より先に足が動きたがっていた。窓の外を横目で見ると、まだ暗いはずの空の端に、それとわからない程度の青みが差している気がした。
「行く。理由は走りながら考える」
そう言うと、片眼鏡の委員が眠りの中でわずかに口の端を上げたように見えたが、確かめている暇はなかった。ひげの委員は書類の山に視線を戻しながら、独り言のように付け足した。
「気をつけて行け。夜の街は、味方の顔をした者ばかりじゃない」
机の反対側では、若い委員がガリ版の原紙を鉄筆で切っていた。手が細かく震えているのは、寒さのせいか、それとも徹夜のせいか。刷り上がったばかりの指令書の束が、まだインクの匂いを保ったまま隅に積まれている。おれはふと、この部屋にあるものが銃でも剣でもなく、紙と鉛筆と煙草でできていることに気づいた。だが、この部屋が黙れば、外にいる何十万という人間が明日どう動けばいいのかを知らずに終わる。そう思うと、懐に押し込んだ封筒の重みが、さっきまでとは違って感じられた。
痩せた委員はまだ受話器を握ったまま、今度はつながったらしく早口で何かを伝えていた。「橋は落とすな、まだ渡る者がいる」――その声だけが、妙にはっきりとおれの耳に残った。橋を落とすかどうかという話まで、この部屋では交わされているのだ。印刷所の紙一枚と、橋の一本と、この部屋の中では同じ重さで天秤にかけられている。おれが運ぶ封筒も、その天秤のひと皿に乗っているのだと思うと、背筋が伸びた。
おれは封筒の束を懐にねじ込み、扉に手をかけた。そのとき、廊下の遠くから物音がした。誰かが階段を駆け上がってくる足音、それに続く扉の開閉音。委員会の部屋はどこも似たような煙と紙の匂いで、夜通し何かが決められ、書かれ、運ばれていく。この建物全体が、ひとつの大きな機械のように動いていた。
廊下に戻ると、腹が急に鳴った。夜半から何も食っていないことを、体の方が先に思い出したらしい。角を折れたところに湯気の匂いが漂っていて、そちらへ足が引かれる。任務はある。だが空腹の足を黙らせる方法は、飯を入れる以外にない。それに、走り出せば次にいつ食えるかわからない。
かつて生徒たちが行儀よく紅茶を飲んだであろう部屋は、今は炊き出しの湯気で白く曇っていた。壁際には、天使の絵の代わりに赤い布のビラが貼られている。長机に木の椀が並び、割り当ての黒パンが山になっている。座る余裕のある者はおらず、誰もが立ったまま匙を使っていた。壁ぎわの床には、包帯を巻かれた兵士が二人、背をもたせかけて椀を抱えていた。片方は左腕を吊っている。エプロン姿の女がふたり、大鍋から柄杓でスープをすくい、椀に注いでは次へと渡していく。手が荒れて赤くなっているのが、湯気の向こうにも見えた。おれも列の端で椀を受け取り、立ったまま酸っぱいキャベツスープをすすった。塩気は薄いが、腹の底に落ちていく熱さだけはありがたかった。黒パンをちぎって浸すと、かたい耳のあたりがすこし柔らかくなる。ひと口かじると、酸味と麦の匂いが口の中に広がった。こんなふうに突っ立ったまま腹に何かを入れるのは、二月からずっと変わらない。座って食う暇があるくらいなら、まだ余裕がある証拠だ。今はそんな余裕はどこにもない。それでも、熱いものが腹に落ちていく感覚だけは、走り続けるための燃料として悪くなかった。
隣で同じように椀を抱えていた白髪頭の男が、おれの顔をじっと見てから、匙を止めた。厚い掌に、旋盤の油が染み込んで抜けなくなった皺が刻まれている。
「お前さん、見た顔だな。……プチロフの争議のときにいたろう。先頭のあたりで、旗を持っていなかったか」
「いたかもしれん」
「名前は……」
男はそこで一度言葉を切り、隣で椀を洗っていた別の男に声をかけた。
「おい、この兄さんの名前、覚えてるか」
声をかけられた男も顔を上げ、おれをしげしげと眺めてから首をひねった。
「さあな。プチロフの旋盤工だったか、造船所の方だったか……。顔は覚えてるんだが」
「イワンじゃなかったか」
「イワンなんて、この街に何百人いると思ってる」
二人は顔を見合わせて笑い出した。おれは黙って成り行きを見ていた。訂正する気も、名乗る気も起きなかった。
男は眉間に皺を寄せ、記憶の抽斗を片端から開けるような顔をした。しばらく唸っていたが、結局出てこなかったらしい。首を振って、諦めたように笑った。
「なんだったか、な。まあいい、忘れても顔は覚えてる。それで十分だ」
隣の男も釣られたように笑い、椀の底に匙をこすりつける音を立てた。
「まあ、革命だ。名前より先に、腹が減る方が確かだよ」
そう言って、豪快に笑いながらまた匙を動かし始めた。おれは名乗らなかった。名乗ったところで、次に会うときにはまた同じやりとりを繰り返すだけだと知っている。二月の広場でも同じだった。誰もが顔を覚え、誰も名前を覚えなかった。それがどこか可笑しく、そしてほんの少しだけ、寂しくもあった。名前のかわりに、顔だけが人から人へと伝わっていく。刷り上がったばかりの新聞の見出しが、活字の並びごと人の記憶に刷り込まれていくのと、どこか似ている気がした。おれはそれで構わないと思っているし、今もそう思っている。ただ、白髪頭の男の困った笑い方を見ていると、悪い気はしなかった。
「あんたはここで何を」
「タイプの紙が足りん、複写紙が足りんと、あっちこっち駆けずり回ってる。若い者にゃ負けんつもりだったが、この時間になると膝が笑うわ」
「歳のせいだろう」
「歳と、この十日のせいだ。お前さんも気をつけろ、伝令。走り通しの体は、止まったときに一気に来る」
老工員はそう言って、椀の縁を指でなぞった。男はスープの底に沈んだキャベツの切れ端を匙ですくいながら、ふと真顔になった。
「この建物、眠らんな。昔はここで、ご令嬢たちが夜十時にはもう蝋燭を消されて寝かされてたって話だぜ。今じゃ誰も寝かせちゃくれん」
「悪い話でもないだろう。おれたちは眠らせてもらえたことがない」
「違いない」
老工員は歯の欠けた口で笑い、椀の底に残った黒パンの欠片を指で拾って口に放り込んだ。「まあ、腹さえ膨れりゃ、あとは体が勝手に走ってくれる」
そのとき廊下の向こうから、よく通る声が響いてきた。姿は見えない。だが声だけで誰の演説かわかる、そういう声だった。言葉の切れ端が食堂の入口まで届く。「――歴史は、待つ者には冷たい。動く者だけを記録する」。食堂にいた何人かが、匙を持ったまま扉の方を振り返った。声は近づくことなく、そのまま別の部屋へ吸い込まれるように遠ざかり、扉が開いて閉じる音がした。白髪頭の男は肩をすくめた。
「相変わらず、声だけは会議室の外まで届くお人だ」
壁にもたれた腕を吊った兵士が、鼻で笑った。
「あの声を聞くと、こっちまで演説したくなる。厄介な人だよ」
白髪頭の老工員が、椀の底に残ったスープを名残惜しそうに啜った。
「厄介で結構。声を張れる人間がひとりもいなくなったら、そのときは終わりだ」
誰も異を唱えなかった。食堂の空気が、ほんの少しだけ張り詰めて、またゆるんだ。もうひとりの兵士は何も言わず、黙々と黒パンを飲み下していた。革命だろうが戦だろうが、腹が減ることだけは誰にも平等らしい。おれは椀を空にし、最後に残った黒パンの耳を口に押し込んだ。喉に詰まりかけて、水も貰わずに飲み下す。男が「気をつけて行けよ、坊主」と背中を叩いてきた。坊主と呼ばれるのは、マトヴェイだけの特権だと思っていたが、この老工員にはそれを咎める理由もなかった。老工員たちの笑い声を背に、おれは食堂を出た。名前も知らない男に背中を叩かれて送り出される――それだけのことが、こんな夜にはやけに温かく感じられた。
椀を返し、おれは廊下の窓際に立って、封筒を数え直した。先の六通は近い場所ばかりだ。あとから足された一通だけが、道順の外れにある。委員は「もうひとつだけ」と言ったが、委員は机の上の地図の上でしか歩かない人間だ。地図には距離しか描かれていない。夜が明けるまでの時間は描かれていない。
おれは頭の中で街の地図を広げた。委員会の壁に貼られていたのと同じ地図だが、こっちのものには橋の数字も通りの名前もない。ただ、どこの角を曲がれば近道か、どこの通りは夜になると巡邏が多いか、そういう体で覚えた地図だ。ヴィボルグの二つは互いに近い。ペトログラード側とヴァシーリエフスキー島は、それぞれ橋を渡った先にある。川向こうの二つは、さらにそこから離れている。そして印刷所は、ヴィボルグの中でも、そのどこからも微妙に外れた場所にあった。
六通をまとめて先に届けてから印刷所に回れば、委員に示された順序どおりになる。だが、そのぶん印刷所に着くのは確実に遅くなる。政府の連中が今夜のうちに動くというなら、遅れの一分が命取りになるかもしれない。おれは封筒の束を睨みながら、頭の中で二つの道筋を何度も比べた。
窓の外はまだ暗い。だが東の端が、ほんのわずかに青みを帯び始めている。政府が印刷所を潰しに来るつもりなら、動くのは夜が明けきる前だ。役所仕事の連中は、いつだって朝が来てからようやく重い腰を上げる。だとすれば、こっちが先回りするしかない。連中の朝より、おれの夜の方が早くなければならない。考えるのに使った時間は、たぶん十を数えるほどもなかった。伝令の仕事に長々とした思案は要らない。要るのは、決めたら迷わないことだけだ。
おれは封筒の順番を自分の手で並べ替えた。トルート印刷所を一番上に。ヴィボルグの二通は、その帰り道で拾えばいい。ペトログラード側とヴァシーリエフスキー島、川向こうの分は、そのあとで構わない。誰に指図されたわけでもない。地図の上に印をつける権利は委員にあっても、走る順番を決める権利はおれにある。伝令とはそういう仕事だと、おれは思っている。
封筒の端を軽く指で弾いて順番を確かめる。これでいい。あとは足だけの仕事だ。誰かに指図された仕事をこなすだけなら、これほど気は張らない。だが順番を自分で決めた瞬間から、結果の責めも自分で負うことになる。もし印刷所より先に、ヴィボルグの誰かが痛手を負うようなことがあったら、この判断を悔やむのは他の誰でもない、おれ自身だ。それでも、迷う暇があるなら走った方がいい。それが伝令という仕事の道理だった。
階段を駆け下りる途中、下りてくる別の伝令とすれ違いざまに肩がぶつかった。互いに「悪い」とだけ言い合って、それぞれの夜へ散っていく。一階の玄関ホールでは、机を並べた受付が徹夜で書類を捌いていた。壁の大時計は一時二十分を指している。まだ夜は長い。
外に出ると、夜気が頬を刺した。振り返ると、スモーリヌイの正面には、こうこうと灯りが点っている。窓という窓に明かりが灯り、建物全体がひとつの大きな灯台のようだった。この街でいちばん明るい建物は、今夜もやはりここだった。
正面庭には、幌をかけたトラックが何台も列を作って停まっていた。荷台には木箱が積まれ、覗くと銃身の先が覗いている。運転台では、運転手が居眠りをしながら煙草の火だけは絶やさずにいた。この庭もまた、眠らない建物の続きだった。おれはその明るさを背中に置いて、暗い方角へ走り出す。
門の脇では、赤衛隊の哨兵が二人、焚き火に手をかざしていた。おれの足音に気づくと、片方が銃を構える真似だけして、すぐに緩めた。
「伝令か」
「印刷所まで。急ぎだ」
「通行証は」
懐から皺だらけの紙を出して見せる。哨兵はろくに読みもせず、焚き火の明かりにかざしただけで頷いた。
「顔が通行証代わりか、お前は」
「そう言われるのは二度目だ」
哨兵はにやりと笑って、焚き火の方へ視線を戻した。おれは会釈もそこそこに、門を抜けて走り出す。背中で、焚き火の爆ぜる音が小さくなっていった。
雪はまだ降っていない。だが空気の底に、降る前の匂いだけがある。息を吐くたびに白く固まって、すぐに闇へ溶けた。石畳は霜で薄く光り、靴の底が滑る。市電はもう動いていない。人通りもない。ネヴァの方角から吹いてくる風が、川の匂いと鉄の匂いを混ぜて運んでくる。遠くで工場の汽笛がひとつ、短く鳴った。誰かが夜勤の交代を告げているのか、それとも別の何かの合図か、おれには判じようがなかった。時折、巡邏の足音が別の通りから聞こえてきて、そのたびに建物の陰に身を寄せてやり過ごした。委員が言った「味方の顔をした者ばかりじゃない」という言葉が、走りながら頭の隅にこびりついている。
橋のたもとを抜けるとき、欄干に凭れて煙草を吸う男の影があった。兵士の外套を着ているが、どちらの側の兵士かは暗くてわからない。おれは足を緩めず、会釈だけして通り過ぎた。背中に視線を感じたが、呼び止められはしなかった。こういう夜は、誰もが互いの正体を測りかねている。声をかけるより、かけない方が安全なときもある。
運河沿いの道に出ると、凍りかけた水面に建物の灯りが揺れて映っていた。灯りは動かないのに、映った像だけが小さく震えている。水が完全に凍るまでにはまだ間があるらしい。おれは足を止めずにその上を通り過ぎた。こんな時間に景色に見とれている余裕はないと分かっていても、目だけは勝手にそれを拾っていく。
同じヴィボルグでも、印刷所のある通りは奥まっていて、まっすぐには抜けられない。順番を変えたぶん、遠回りを踏むことになる。だがその無駄足を選んだのは自分だ。誰かに命じられて選んだ道より、自分で選んだ遠回りの方が、走っていて後悔が少ない。そういうものだと、これまでの伝令仕事で知った。地図の上の距離と、足で稼ぐ距離とは別物だ。それを知っているのは、机に向かう委員たちではなく、夜を走るこっちの方だった。
角を折れるたび、暗い窓と、まだ起きている窓とが交互に現れた。あるアパートの窓では、女が肩掛けを羽織って外を見下ろしていた。目が合ったが、何も言わずに窓を閉めた。別の路地では、犬が一匹、ゴミ箱を漁っていた。革命の最中でも、犬は犬のままだった。
トルート印刷所は、通りの奥まった場所に窓明かりを漏らしていた。ついさっき、封筒の束を抱えて走り抜けたときに横目で見ただけの灯りだ。今度はその灯りだけを目指して走っている。看板の文字はペンキが剥げかけて読みにくいが、鉛の匂いだけは通りにまで漏れ出ていた。窓ガラスの向こうに動く人影はない。灯りが点いているのに、物音がしない建物というのは、それだけで妙に薄気味悪かった。走りながら、いつのまにか道順のことは考えなくなっていた。腹の底にあるのは、ただ「間に合わせろ」というひと言だけだった。
建物の脇には、明日の朝刊を積むためだろう荷車が一台、空のまま停められていた。轍の跡が、まだ真新しい。中で誰かが働いていることは間違いない。灯りと沈黙という取り合わせが、かえってその確信を強くした。息を整え、拳の関節を一度握り直してから、おれは扉に向かって足を踏み出した。足音を殺したつもりだったが、靴の底が石畳を打つ音までは消せない。もし中の連中が政府の手先に寝返っていたら、この足音だけで気づかれているかもしれない。そう思っても、足を止める理由にはならなかった。
扉の前に立ち、拳で叩く。返事はない。息を整える間も惜しんで、もう一度、今度は強く叩いた。
「軍事革命委員会の伝令だ。開けてくれ」
木の内側で小さな音がした。錠の外れる気配ではない。もっと慎重な、様子をうかがう類の音だった。覗き窓の板がわずかにずれる。隙間から覗いたのは、片方だけの目――黄色みがかった、乾いた光をたたえた目だった。
その目は、しばらく動かなかった。おれを値踏みするように、上から下まで見て、また目のあたりに戻ってくる。灯りを背にしているせいで、目の持ち主の顔かたちはまるでわからない。ただ、その一点だけが、闇の中でやけにはっきりしていた。
おれは封筒を覗き窓に押しつけるようにして見せた。
「開けろ。急ぎの用だ」
目は、まだ動かなかった。
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