第15話 お前、作ってるだろう
第十五章
「……その一人が、俺だ」
誰も、何も言わなかった。
郡司はそれきり黙って、卓の一点を見ていた。長い息を、一度、吐く。
「郡司さん」和知が静かに声をかけた。
「無理に、話されることは」
「いや」
郡司は首を振った。
「俺は、語りしか能のない人間でね。腹の中のものを出すときも、こういう形でしか出せない。……一席、やらせてください」
和知が深く頷いた。
郡司は湯呑みを両手で包んで、しばらく湯気を見ていた。
それから、話しはじめた。
あいつと会ったのは、十年ばかり前だ、と郡司は言った。
当時、郡司には少しばかり名前があった。地方の小さな会に呼ばれては、一晩に四つも五つも語って、酒を飲んで帰る。そういう暮らしだ。
「俺が始めたころは、怪談師なんて言葉もなかったですよ」郡司は思い出したように言った。
「肩書きが要るときは、蒐集家だの、語り部だの、そのへんを適当に書いてました。……名前がついたのは、ずいぶん後です」
ある会の楽屋に、痩せた若いのが立っていた。二十歳そこそこ。手ぶらで来て、話を聞かせてほしい、とだけ言う。
「気味の悪い子でね」郡司は懐かしそうに笑った。
「こっちが喋ってるあいだ、瞬きをしない」
その若いのが、一之瀬だった。
「名前も、何も、持ってませんでしたよ。あのころは」郡司は言った。
「持ってたのは、俺のほうだ」
それから、二人でやるようになった。
二人会というやつだ。郡司が先に出て場を温め、一之瀬が締める。あるいは逆。
地方の公民館だの、居酒屋の二階だの、客が十人いれば上等という現場を、何年も回った。
「楽しかったですよ。あんな時期は、二度とない」
三雲が、目を赤くしたまま、小さく頷いていた。
「あいつが化けたのが、いつだったか、俺は正確に覚えてる」
郡司の声の色が少しだけ変わった。
どこかの、五十人ほどの小屋だった。その晩、一之瀬が後ろだった。
郡司は先に語り終えて、袖のところに立って、あいつの背中を見ていた。
一之瀬はいつも通りだった。
声を張らない。
溜めない。
ただ、見てきたことを報告するみたいに、淡々と喋る。
「そのうちに」郡司は言った。
「俺が、怖くなってきた」
卓の誰かが、身じろぎした。
二十年、この商売をやっている。人を怖がらせる仕掛けは、全部知っている。
どこで声を落とせば背筋が寒くなるか、どこで間を空ければ客が息を止めるか。
手の内が見えているから、もう自分では怖くならない。そういう体になっている。
「なのに、袖で、鳥肌が立ってるんだ。……手品の種を知ってる人間が、種の見えない手品を見せられてる。ああいう気分でした」
あの話が何の話だったか、いまだに思い出せない、と郡司は言った。
覚えているのは、最後の一行だけだ。一之瀬はしずかに客席を見て、こう言って締めた。——その人のことは、誰も、名前で呼びませんでした。
高梨の腕の産毛がふっと立った。偶然だ、と思った。
この商売で、名前の話などいくらでもある。今夜だけでも、もう何度聞いたか分からない。——それでも、指の先が少し冷たくなっていた。
「その晩、俺は、あいつと飲みました」
郡司は続けた。
いい会だったな、と言って、盃を合わせた。心からそう思っていた。
同時に、腹の底に見たことのない色のものが溜まりはじめているのも、分かっていた。
「あの子は、俺より、うまくなってた」
それだけなら、まだ良かった。
うまいだけの若いのなら、いくらでも見てきた。そうではなかった。
一之瀬には、郡司が身につけてきた技術がどれも要らなかった。
飾りも、盛りも、間も。
何も足さずに、ただ喋るだけで、袖に立つ玄人の鳥肌を立てさせる。
「積み上げてきたもんが、ぜんぶ、要らんかったってことです」
郡司は湯呑みを置いた。
それから一年ほどして、和知が一之瀬を見つけた。
「和知さん、覚えてますか。あんた、あいつを東京に連れてった」
「……ええ」和知が目を伏せた。
「あのとき、郡司さんには、一度、ご挨拶に伺うべきでした」
「よしてください。あんたのおかげで、あいつは世に出たんだ」
二人会は、自然に減った。
喧嘩をしたわけではない。
日が合わなくなり、そのうち声がかからなくなった。よくあることだ、と郡司は言った。
この商売では、本当によくあることだ。
「最後に会ったのは、四年前です」
郡司の声から温度が抜けた。
その晩は、たまたま同じイベントに出て、たまたま同じ店で飲んだ。あいつは変わっていなかった。郡司さん、郡司さん、と昔と同じように呼んで、昔と同じように瞬きをせずに話を聞いた。
「いい晩でしたよ。……途中までは」
酒が回った。
誰かが、一之瀬を褒めた。
あの子の話は本物だ、作り物の匂いがしない、と。
皆が頷いた。
郡司も、頷いた。
頷きながら、腹の底のあれが、喉のところまで上がってくるのを感じていた。
そして、言った。
「——お前、作ってるだろう」
部屋の空気が止まった。
卓の誰も、動かなかった。
宇津木の目が初めて綴じ込みから離れて、郡司を見ていた。
郡司は続けた。
「本気じゃなかった、なんて言いません。あのとき、俺は、本気でそう思いたかったんだ」
種があるはずだ、と思いたかった。何か手を使っているはずだ、と。
そうでなければ、二十年が説明できない。
「あいつは、言い返しませんでした」
一之瀬はしばらく郡司の顔を見て、それから笑ったのだという。困ったような、静かな笑い方で。
——郡司さんに言われるのは、いちばんこたえます。
それだけ言って、勘定を置いて、先に帰った。
「それが、最後です」
和知がそっと目を閉じた。
「何度も、電話しようと思ったんですよ」郡司は言った。
「番号は消してない。何度も、開いた。……そのたびに、なんて言えばいいのか分からなくて、閉じた」
言葉が、そこで途切れた。
郡司は口を開いたまま、少しのあいだ、何も言わなかった。喉の奥で、何かが引っかかったような音がした。
「……返せって」
彼は卓を見たまま言った。
「返せって、言えばよかったんだ」
高梨は廊下でこの人が笑っていたのを思い出した。
あいつの間の取り方は俺のなんですよ、ぜんぶ盗まれた、返せって言ってやろうと思ってたんだ、ずっと——あのときの、あの温かい笑い声を。
あれは、この電話のことだったのか、と思った。
「なんでもいいから、口実があれば、かけられたんだ。返せ、って一言だけ言えば。……それが、四年、言えなかった」
郡司はそこで頭を下げた。
「すみません。しんみりさせて」
誰も、郡司を責めなかった。
むしろ、その逆だった。
百目木が、そりゃあ、あんた、と言いかけて、うまい言葉が見つからずに黙った。
七海は下を向いていた。
和知は、両手を組んだまま、何も言わない。
ただ一人、三雲が白い顔をしていた。高梨はそれに気づいた。
彼女は郡司を見ていなかった。どこも見ていなかった。口を半分開けて、何かを頭の中で照らし合わせている顔だった。
高梨の頭の中でも、同じものが、勝手に並んでいた。
いちばん分かってくれてた人に、いちばん分かってもらえなかった。三十分前に、この部屋で聞いた言葉だ。
そして、一之瀬という語り手にとって、いちばん深く刺さる言葉が何かといえば——お前、作ってるだろう。
やめろ、と高梨は自分に言った。
それは、俺の癖だ。
話を聞けば、勝手に筋が通ってしまう。
通ったからといって、それが本当だということには、ならない。
今夜さんざん、そういう話を聞いてきたばかりじゃないか。
だが、頭の中の絵は、消えなかった。もう、組み上がってしまっていた。
卓の全員が、たぶん、同じ絵を見ている。誰も、口には出さない。高梨は、そのことのほうが、よほど嫌だった。
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