第5話 淡いさくら色の元結
先生の横で次に使う道具を持って構える。
鬢付け油を馴染ませて次の櫛は…
最初は思い出しながら
先生の手元に構えていた道具も
今は、自分の体が覚えていた。
置き屋から預かった簪を並べる
1月は初春だから…。
きっと…菜の花なんか可愛らしくて…。
「この簪は季節が違う。稲穂と松と梅…持って来てくれるか」
何で稲穂?秋じゃないのかな?
先生に訊きにくいことは
AIに訊いた…。
『豊かさと実りの意味。豊作、繁栄、商売繁盛の…。』
…わからない事ばかりだ…
もう一年が過ぎようとしていた。
最初は週1回、練習のモデル役に来てくれていた雪乃も
最近は稽古が忙しい。
朝一番の仕事を終えた先生は出かける支度を始めた。
「先生どちらへ、いかはるんですか?」
「ちょっと、野暮用や。午後には戻るから…。」
「はい…。」
少しは空気を読めるようになったかな?
語られないことは訊かない。
買出しに出かけると雪乃を見かけた。
歩き方も着物も様になって
いつの間にか、少女の面差しは女性らしくなっている。
「雪乃ちゃん。稽古?」
「大河さん…。はい。今日は三味線。」
「ほんまに忙しいんやな」
「もうすぐ、うち…舞妓になれるって…おかあさんが…。」
「すごい。よかったなぁ」
「大河さん…ありがと。でも…。」
眼を伏せて、戸惑うように言葉を飲み込む彼女が
寂しそうに見えた。
「ん?どうした?」
「大河さんと…。うち…舞妓になったら…今迄みたいに…。」
唇をきゅっと結んだ彼女を覗き込んだ。
潤んだ目で俺を見上げてぽつりと言った…。
「今迄みたいに…親しく話でけへんようになる…。」
「……そうやな…でも…応援してるから」
「うちも…うちも大河さん応援してる」
グッと胸の奥で湧きあがりそうな何かに…そっと蓋をする。
「お互い頑張ろな…。ほら…稽古遅れるで」
「…ほな…」
彼女の後姿をぼんやりと眺めていた…。
…俺が…彼女の髪を結いたい…。
家の前には元結を届けに来た若旦那が立っていた。
「あ、お待たせしました。」
「今、来たとこやから。」
玄関で座ってもらい納品書と元結を受け取る。
「…あの……一本だけって買えるんですか?」
「どうしたん?」
「俺…個人的に欲しくて…。」
若旦那は微笑んで鞄からノートを取り出した。
「この中にええのあるかなぁ?大河君が好きなのある?」
ノートに張り付けてある元結は彩が美しい。
髪の束を束ねる紐。
隠れてしまうその紐に彩を添える…
この街らしい…
「伝統色や…。日本の彩は落ち着くやろ」
「ほんまや。この色…淡いさくら色…きれいや…」
「僕から、プレゼントするわ」
「ええんですか?」
「ええよ。じゃ…」
若旦那は立ち上がる。
ふと、俺を振り返った。
「…雪乃ちゃん…もうすぐ店出しやってな…」
「そうですか…」
彼は微笑んで格子戸をあけた…。
『花街の男は気ぃ使わんとあかん』
先生は何度も言った。
若旦那はそれを肌で感じている人。
彼を見送りながらそう思った。
「大河…今日はお前が結ってみるか?」
「え?」
「横で見てるから…大丈夫や」
「…はい…。」
それからの先生はすこし厳しく…なった。
「声かけてあげな、びっくりしはるやろ。」
「あ、すいません。少しひきます」
「すまんねぇ…腕は確からから堪忍したってな」
先生は舞妓に声をかけながら俺に注意する。
「お座敷の前、一息つく場所や…優しくせな」
「はい」
くすくすと髪を結ってもらいながら舞妓が笑う…。
それから、毎回、俺が髪を結うようになっていた。
楽しかった。
やっと、髪を仕上げられる…。
「今日は、向こうに行って結うから…。準備しといてな」
今日は…。
雪乃の店出しの日…。
大切に仕舞ってあった元結を準備した。
「大河…。おまえが結って送り出してな」
先生は微笑んだ。
緊張が走る…。
よかった。雪乃の髪を結える…。
雪乃の髪を『割れしのぶ』に結い上げる。
雪乃の緊張がこちらにまで感じられる。
まとめた髪に淡いさくら色の元結をきゅっと締めた。
形を作り、額とこめかみの髪を丁寧に整える。
簪をそっと挿す
淡いひとひらの桜が彼女の髪に舞う…。
春の終わり…。これからの始まり…。
藤の花はそれを告げる。
鏡の中の彼女の瞳が真っすぐに俺の瞳を捕らえる。
彼女の静かな決意が感じられた。
石畳の上のおぼこの音が遠ざかった。
それからは、ほとんど俺が髪を結うようになった。
先生は横で俺の手元を睨むように見ていた。
盆地はなんでこんなに暑いんだろう…
台所仕事をしていると汗が噴き出る。
坪庭に面した小窓を開ける。
申し訳程度に風が通った。
台所の窓から先生の部屋が見える
椅子の背もたれに身体を預けて、ぼんやり庭を眺めている。
…夏バテかな?食欲もない…
ふと、時計を見ると出かける時間が迫っていた。
「先生、行ってきます」
「頼むな。行っといで」
独りで髪結いに出かけることも多くなっていた。
帰り道、馴染みの魚屋に寄る
「大河、仕事の帰りか?」
何代目か知らないが、同じ年の魚屋に声をかけられた。
「うん…なんか…先生の好きなんあるやろか?」
「先生、この時期は鱧が好きやな」
「難しそうや」
「ほら、これやったらそのまま梅肉で」
「ほな、それにする」
「先生喜ぶわ。」
「さっぱりしてんの?」
「何や、食べたことないんか?」
「知らん。先生、夏バテみたいやし」
「それやったらお勧めや」
戻るとお客さんのようで、
玄関には革靴が揃えられていた。
お茶の用意せな…
あわてて中に入ると革靴の主はもう帰るようだ。
「あ、すんまへん。お茶もお出ししてなくて」
「大河やな?」
「は…い」
暑いのにスーツ姿だ。
彼は名刺を差し出した
「佳樹の兄や。なんか…困ったことあったら頼ってきぃ」
「は…い」
言ってる意味がよく解らない…
「じゃあ…」
彼は帰って行った。
「先生…あの……」
「腹減ったな」
「え?…はい…支度します」
湯引きした鱧に梅肉を添える
先生に差し出す
「おっ。鱧か、ええな」
喜んでくれた。
食べてくれてほっとした。
嬉しい事でもあったのか
先生は冷酒を少し飲んでいた…。
雪乃の髪を結う
すっかり、舞妓姿が様になる。
「お座敷は慣れた?」
「緊張しますけど…呼んでくれはったら嬉しい」
「綺麗にせなあかんなっ」
俺が笑うと、鏡の中の雪乃も微笑んだ…。
髪を結う時間だけ…。雪乃の笑顔を見ることができる。
「今日先生は?」
「出かけてはる」
「そう…。」
雪乃の結い上げた髪に簪を挿す。
もう、桔梗…。
秋は近づいているはずなのに
やけに暑い日だった…。
電話が鳴った…。
俺は急いで病院に向かう。
病室に着くと雪乃の女将が付き添っていた。
「先生…」
ベットに横たわる先生がやけに小さく見えた。
「大丈夫や。ちょっと立ち眩みしただけや」
女将は心配そうな顔を伏せる。
「でも…。」
「仕事に戻らんか。まだ、夕方に来はるやろ」
「でも…。俺、先生の傍に…」
「あほ。若い女の子の方がええわ。お前は仕事に戻れ」
「………」
「吉乃さん。つれて帰ってやって」
「大河君…。帰るえ」
半ば強引に手首を掴まれタクシーに乗る。
「堪忍な。うち…つい。知らせてしもて」
「そんなん。知らせてくれてよかったです」
「でも…。うち…余計なことした」
その知らせを聞いたのは、舞妓の髪を結いあげてお座敷に送り出した後だった。
俺は呆然としていて、
先生のお兄さんが来て
テキパキと手配する姿を
ぼんやりと見ているだけだった。
先生が…亡くなった。
そのことを受け止められずにいた…。
小さな白い包みの中の先生がようやく家に帰って来た。
その前に座る先生のお兄さんは俺の名を呼んだ。
「大河。お前の事…佳樹から頼まれてるんや。ここはそのままや。」
「え?」
「おまえは、ここで髪結いを続けて。ええな」
「………いいんですか?」
「それが、こいつの願いや」
「先生…」
枯れは果てたと思っていた涙が溢れ出す。
お兄さんを玄関の外まで見送った。
「困ったことがあったら、俺を頼って来たらええからな」
「はい」
いつの間にか日が暮れていて
碧い夜の始まりを知らせるように
下弦の月が銀白に滲む
先生にもっと教えて欲しかった…
先生は…どんなふうに感じていたんだろう…。
近いようで、遠い存在だった。
格子戸を開けた…。
そこには図書館が広がっていた…。
背の高い本棚が幾つも並んでいる
奥の窓にはやはり下弦の月…。
目の前にひとりの男が立っている。
綺麗に整えられた黒髪。
額に軽くかかる前髪
切れ長の眼に黒い瞳
薄い唇の口角が計算されたように美しく上がる。
30歳くらいだろうか…。
「おかえりなさいませ。大河様」
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