第1話
人は与えられた環境に慣れるもの。
特に人生の目標なんぞという大層なものを持っていない私が、密かに座右の銘としている言葉だ。ただし、これは前向きではない。一種の諦めのようなものだった。
別にこの会社だって望んで入社をしたわけではない。与えられた役割に沿って進んだ結果だった。しかし、厄介なのはその場所で私は人生で初めて目標を見つけてしまったことだ。
望んではいけない人間が初めて希望を持ってしまった世界。周りの雰囲気に合わせて始めた就活で出会ったこの会社で、私は仕事に熱中した。
それが間違いだったのだ。
パチンと本日最後の文章を打ち込み、静かにエンターキーを押す。電話はあまりならないこの部署では、ひたすらタイプ音があたりから聞こえてくる。この静寂も最初は居心地が悪かったものの、数週間で適応が出来て今に至る。
前の部署から使っているノートパソコンをシャットダウンする。すぐに使うだろうとタブもそのまま溜めて、スリープをし続けたのはもはや過去の話。明日の朝までパソコンは開かない。パソコンが睡眠の準備に入ったのを確認して、上司のデスクに向かった。
「お先に失礼いたします」
「お疲れ様。明日も頼みます」
「はい」
上司の渋谷さんが、銀縁の眼鏡越しに私に視線を向ける。物静かで優しい性格をしており、仕事も丁寧に教えてもらった。この部署はほとんどが年上の男性ばかりなので、気を遣って頂いて感謝している。
「少し飛ばし過ぎていないか。肩の力を抜いていいからね」
「お気遣いありがとうございます」
こういうところは嫌いだ。他の部署が必死になっている時間に、なぜ力を抜いているのか。こんな気持ちだから、他の部署から舐められるのだ。
考えるだけ無駄。放っておこう。
デスクで作業をしている先輩方に挨拶をすると、自分のデスクで帰り支度をする。先に帰ることへの抵抗も消えて、自分の仕事が終わるとさっさと準備をして帰宅の途に就く。
少し大きめのバッグを肩にかけて、社員通用口を抜けていった。本社に行く機会なんて年間で数えるほどしかなかったので、最初は戸惑ったが結局は慣れるもの。受付の警備員に挨拶をして外に出ると名札を外した。ここから、私は自由になるのだ。
これが社会人生活というものか。
本社内はオフィスカジュアルを推奨しているが、ダークグレーのパンツに襟なしのボタンレスのブラウスに同色のジャケットを羽織っている。ファッションに疎いのが災いをして、異動後も服装だけは変わらなかった。オフィスや大学が立ち並ぶ街をパンプスの音を響かせながら歩いている。学生の頃に想像していた仕事は、まさに今の状況であったと思う。
それなのに、満足なんてできない。
静かに締め付ける胸の痛みを感じる。私の力がなかった。これまでどんな目に遭っても、この気持ちだけしか生まれなかった。争わず、抵抗もせずに今の環境という流れに身を任せる。
最善の選択肢は個人の感情を収めること。
誰にも言わずに人知れず守り続けた私、鹿島雪乃のルール。それこそが正しかったのだと嫌というほど思い知った。
自分の意見があっても、声の大きな同級生の言葉を優先して黙るという選択を通した。意見の食い違いも喧嘩も所詮は無駄な時間。争うくらいなら、引けばいいのだ。私の意見が通らなくても、私は死にはしない。
本社のある都心の駅から地下鉄に乗って、そのまま隣の県まで約四十分。社用車で直行直帰だったので、未だに電車は慣れない。ほとんど使わなかった読書用のアプリを開き、小説に没頭する。紙の本が好きだが、ずっと持って歩くにはかさばるので、今回の人事異動をきっかけに電子書籍への切り替えを図った。
地元は北関東の静かな町で、ほとんどの同級生は地元か隣町で就職して結婚している。私は仲が良かった同級生二人に誘われるがまま、東京の大学に進学して地元に戻らずに就職までした。
特殊な才能を持った二人に比べて何もない私は目立った出来事も起こることなく、人が思い描く程度の大学生活を送ってきた。勉強とアルバイト、時折友人と遊びに行く以外の時間は読書に没頭した。誰かの人生を覗き見ることで、静かで変化のない私の人生に彩を与えてくれる。分野を問わず、興味が湧くものはすべて読み漁った。
就職してからは時間がなく、むしろ日々が刺激的になったのが影響して読書から遠のいていた。改めて読書の時間が得られるのは思ってもいない幸福だった。
日々の刺激がなくなっただけじゃないかしら。
捻くれた私がささやいた。否定はしない。読書をしなかったのは時間だけではなく、心に余裕がなかったのも理由の一つ。日々の出来事に心をすり減らすと、その分外部からの刺激を入れたくなくなる。トラブルや人間関係のこじれが起こると、学生時代は好奇心から事情を知りたがった。大人になると、むしろ知らないままでいたかった。
所詮仕事が増えるだけ。
相談を受けるのは嫌いではない。しかし、増えていくタスクが積み上がり、私の容量が一杯になっていたのは否めない。このまま続けていたら、いよいよ溢れてしまっていたのかもしれない。
それじゃあ、この判断が正しいことにならないか。
良からぬ考えに、大きく首を振った。認めてしまえば、今を受け入れることになる。それだけは許されない。
帰宅する会社員、学生と一緒に電車に揺られる。朝読んだ小説の続きに没頭した。
最寄り駅に付くと、近くのスーパーへ入った。いくつか足りない食材を買い足すと、歩いて自宅のアパートへ早足で進んでいく。
ほとんどが外食とコンビニで買った既製品を食べるだけの生活だった。この機会に自炊を少しずつ取り入れていこうと決意して、簡単なものは作れるようになった。
手洗い、うがいをさっさと済ませると、冷蔵庫から冷やしていたストックの缶チューハイを取り出し、プルタブを空けて半分ほど飲み干した。四月の下旬ともなると、徒歩での帰宅は若干汗ばんでいる。こうやって喉を潤すと生きている実感が蘇る。
そのままジャケットをハンガーにかけると、ベルトを外してパンツを脱ぎ捨てる。その辺に散らかっているスウェットとTシャツを乱雑に拾い上げて袖を通した。独り暮らしが長くなっていき、人の目を気にしなくなった独身女の末路。部屋干しをして乾いた服はだらしなくその辺に投げられていた。
どうせバレないから。
自分のだらしなさを仕事のせいにして半ば放っていたが、せっかくなので生活は改めたい。気持ちはあるものの、私以外に人を入れる予定がない部屋を片付ける意欲が湧いてこない。
買ってきたキュウリを切って、冷奴と梅干しを合わせる。簡単ではあるが、酒のあてには充分だ。一本目のチューハイは既に飲み干していたので、もう一本を冷蔵庫から引っ張り出した。
家には単行本で読みたかった小説が積まれている。ついつい立ち寄った本屋で買い続けて放置していたものを少しずつ片付けていく。緊急出勤で平日は酒を控えていた四年間。今は酒も読書も好きなだけ楽しめる最高の時間がある。
それなのに、なぜ満たされない。
小説を閉じるとベッドに横になった。酔いがいい具合に周り、気分は悪くない。しかし、胸の中にしこりがあるように何かが引っかかっている不快感が抜けることはない。
どうすればいいのよ。気持ち悪い。
静かな部屋で一人悪態をつく二十八歳。希望が叶っているはずの環境で、矛盾して干からびていく気持ちの意味をわからないまま意識は遠のいていった。
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