第7章「魔王の娘」

第25話「黒炎の少女」

「お父様を返して」


黒炎の狼は、レオンを見つめていた。


燃えているはずの前脚が石床に触れても、竜墓の苔一本焦げない。炎の奥で揺れる二つの瞳だけが、胸の紋章を責めるように細められている。


「誰のことだ」


レオンが一歩近づく。


狼は低く唸り、身を翻した。


黒い尾が夜気を裂く。墓道を駆け下り、ノクティアへ続く西の谷へ消えていった。


「待て!」


レオンは追いかけた。


右腕へ痛みが走り、脇腹の包帯が締まる。雷走の訓練で受けた打撲は残っていたが、足を止める理由にはならなかった。


「知らない声を追って断崖を走るのが、最近の礼儀なの?」


背後からミレアの声が飛ぶ。


ガルドたちも続いてくる。


最後に墓所を振り返ったドランは、胸元へ手を当てていた。苦しげに息を吐き、酒瓶に見える薬入れを腰へ戻す。


「先に行け。竜道はわしが閉じる」


「無理するなよ」


「小僧に言われるほど耄碌しとらん」


そう答えた声は、いつもより短かった。


          ◆


谷を下るにつれ、雷鳴が遠ざかった。


黒い森の木々は幹まで煤色で、枝の間から赤い火山光が漏れている。黒炎の狼は一定の距離を保ち、レオンたちが遅れると立ち止まった。


逃げているのではない。


案内している。


森を抜けた先に、石と硬い木で囲まれた集落があった。


レオンは思わず足を止めた。


王国の掲示板で見た魔族領の絵には、血で汚れた祭壇と武装した魔王軍が描かれていた。


目の前にあるのは、畑だった。


短い角の男が火山灰を土へ混ぜ、長い耳の女が籠いっぱいの茸を選別している。背中に甲羅を持つ大きな魔物が荷車を引き、その横で子どもが角へ布飾りを結んでいた。


広場では翼のある小型魔物が乾燥果実を運び、店主に一つ盗み食いして頭を叩かれている。


「残党軍の侵略準備にしては、根菜が多いね」


ノアが言った。


ガルドは荷車の中をのぞき込む。


「煮込めば腹に溜まりそうだな」


「勝手に献立を決めないで」


ミレアが低く制した。


集落の者たちも、一行に気づいた。


人間の少年、魔女、獣人、翼人、王国の服を避ける盗賊、そして遅れて降りてきた竜人。


農具を置く者。


子どもを背へ隠す者。


武器へ手を伸ばす者。


だが、黒炎の狼がレオンたちの前へ立つと、すぐには攻撃してこなかった。


年老いた魔族の女が、狼へ問いかける。


「森で、また泣いているのかい」


狼の炎が揺れた。


その瞬間、森の奥から木々の折れる音が響いた。


          ◆


三頭の魔物が畑へ飛び込んできた。


石のような皮膚を持つ四足獣。枝角を振り回す六脚の獣。根を脚のように動かす巨大な蔦樹。


どれも目の周囲へ黒い光が滲んでいる。


集落の魔族たちが槍を構えた。


「殺すな!」


少女の声が響いた。


黒炎の狼と同じ声だった。


姿は見えない。


「痛いだけ。熱くて、怖くて、帰れないだけなの!」


石皮の獣が荷車へ突進する。


ガルドが前へ出た。


斧を振るわず、両腕で荷車ごと受け止める。左脚が土へ沈み、傷んだ膝が震えた。


「話を聞く余裕のある顔じゃねえぞ!」


「止めれば聞ける!」


レオンは青鋼剣を抜いた。


六脚獣の角を受け流し、畑の外へ向きを変える。背後ではセラフィの光矢が蔦樹の影へ刺さり、広がる根だけを縫い止めた。


ミレアが地面へ氷の筋を走らせる。


魔物の脚を凍らせるのではない。畑と民家の間へ滑る境界を作り、進路を広場へ誘導している。


ノアの影が子どもたちを次々に物陰へ運んだ。


最後の子を影から押し出したノアが、息を切らして片膝をついた。


「泣いてる場所はどこ!」


レオンが叫ぶ。


「首! 硬い黒いものが、食い込んでる!」


少女の声が返る。


石皮の獣が頭を振った瞬間、首筋に埋まった黒い結晶が見えた。


人工的な制御刻印。


リベル村を襲った魔物や、セレス地下で見たものと似ている。


レオンは胸へ浮かびかけた黒い線を消した。


《零断》を使えば早い。


だが魔物の星力まで切れば、何が失われるか分からない。


「ガルド、三呼吸だけ止めてくれ!」


「注文が軽い!」


岩の腕が石皮の獣の胴を抱える。


一呼吸。


獣の爪がガルドの肩鎧を削る。


二呼吸。


レオンは背へ回り、剣先を結晶と皮膚の隙間へ滑り込ませた。


三呼吸。


黒い結晶だけを抉り出す。


地面へ落ちた欠片を、黒炎が包んだ。


燃えたのは結晶だけだった。


石皮の獣は力を失い、ガルドの腕の中へ崩れ落ちる。


「眠い。お腹が空いたって」


少女の声が、今度は近くから聞こえた。


黒炎が一か所へ集まっていく。


狼の形がほどけ、その向こうから小柄な少女が歩いてきた。


黒い髪の先が赤く揺れている。額には小さな黒角。深紅の瞳には、星形の光が浮かんでいた。


古びた白い研究衣をまとい、裸足で土を踏んでいる。


少女は倒れた魔物の鼻先を撫でた。


「もう、怖くないよ」


獣の呼吸がゆっくりになる。


彼女は命令していなかった。


痛みを聞き、それを周囲へ伝えていただけだった。


          ◆


残る結晶を外し終えると、集落の者たちは魔物の傷を洗い始めた。


槍を向けていた者まで、折れた角へ布を巻いている。


レオンは青鋼剣を鞘へ戻した。


目の前で少女が選んだのは、魔物を人へけしかけることではなかった。


自分が傷つく距離まで近づき、それでも殺さず鎮めることだった。


少女が振り返る。


深紅の瞳が、レオンの胸で止まった。


彼女の表情が変わる。


次の瞬間、小さな身体が飛び込んできた。


「お父様!」


両腕がレオンの腰へ回る。


傷んだ脇腹が痛んだが、それ以上に呼ばれた言葉が胸へ刺さった。


「離れろ」


「やっと戻ってきた」


少女は強くしがみついた。


「赤い空も覚えてる。白い剣の人が倒れて、雷の人が泣いて、お父様が光る心臓に記憶を入れたの」


少し離れた場所で、ドランの薬瓶が地面へ落ちた。


老人は拾おうとしたが、指が一度空をつかむ。


「ドラン?」


セラフィが近づく。


「触るな」


ドランは瓶を拾い、少女を見ないまま森へ向かった。


「外を見てくる」


「今来たばかりじゃないか」


レオンの言葉にも答えなかった。


少女はその背中へ手を伸ばす。


「雷の人。あの日より、おじいちゃんになった」


ドランの足が一瞬だけ止まる。


だが、振り返らなかった。


「エルナは、ずっと待ってた」


少女がレオンを見上げる。


「今度はエルナも一緒に封印する。だから、もう置いていかないで」


胸の紋章が冷たく疼いた。


王国はレオンを魔王の器と呼んだ。


竜霊は魔王と呼んだ。


今度は、知らない少女が父と呼ぶ。


「俺はヴァルハイドじゃない」


少女の腕が緩んだ。


「でも、その胸はお父様――」


「違う」


レオンの声が、自分でも驚くほど強くなった。


「俺を他人にするな。俺はお前の父親じゃない」


少女の髪の赤い先が小さく揺れる。


「赤い空も、勇者も、封印も、お前が経験したことじゃない。ヴァルハイドの記憶だ」


「エルナの中にある」


「それでも、お前の思い出じゃない」


言い切った後で、ミレアが息を止めたのが分かった。


少女はレオンから手を離した。


「じゃあ、エルナの中にあるものは、誰のもの?」


答えられなかった。


王国に魔王と決められる苦痛を知っていた。


それなのに今、目の前の少女を、魔王の記憶から生まれた何かだと決めつけた。


少女の瞳から落ちた涙は、頬へ届く前に黒い火へ変わった。


          ◆


森の外周で、警鐘が鳴った。


一つ。


二つ。


集落を囲む見張り台が、次々に赤い煙を上げる。


木々の間に白銀の鎧が並んでいた。


盾、弓、星力灯。


逃げ道を塞ぐように、王国の追跡隊が集落を包囲している。


拡声術を通した声が、黒い森へ響いた。


「魔王残党ならびに逃亡罪人へ告ぐ。武器を捨て、魔王の器と黒炎の少女を引き渡せ」


住民たちの呼吸が変わった。


子どもを抱く腕が強くなる。


槍を握る指が震える。


恐怖が広場を満たすにつれ、エルナの髪の先で黒炎が大きく揺れ始めた。

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