第2話「非思考の醜と数式の美」

 電車に乗り、三十分ほど立ち尽くしていると、学校の最寄駅に到着する。多少の小走りを許容することで、遅刻は回避された。


 学校。嫌気ばかりが先行する場所。友人はいる。交際相手もいる。先日も映画に行った。ちゃんと好きで、ちゃんと一人の人間として尊重している。なにも特別なことではない。高校入学の段階で、DREAMの傾向マッチングによって「友人」と「恋人」は提供される。DREAMが何億通りもの思考パターンからもっとも僕と気が合うとした人間なのだから、当然気は合う。


 けれども彼らは僕とは異なる。彼らはこの世界がなに一つとして不自由のない、素晴らしい理想郷だと思っている。彼らも僕も偏差値が高めの高校で受験勉強に励んで良い大学に行き、良い就職先を見つけ、良い人生を歩んでいくのだろう。そして最後まで幸せだと思いながら、仮想畳の上で死ぬ。少なくとも、気づいてしまうことはないだろう。


 最後まで彼らは知ることがないのだ。なぜ僕たちの周りには会話が成り立ち、互いの気持ちを思いやれる人間しかいないのか。なぜみなが男性と女性は同じ権利を持つと思っているのか。なぜ同じ人種だけでクラスを囲んでいるのか。あなたの本当の望みはなにか。僕はなぜ不満なのか。なにも知らずに終わる。


 チャイムが鳴り、講義が始まる。


 一限目は数学。好きな部類に入る。数学は純粋だ。人為的なものがなにもない純粋さ。ほんの少しだけ心が楽になる。


 しかしこの空間は嫌いだ。この暖かな凪のような、無機質な衣のような空間には、自由なんてものは砂粒ほども残っていない。


 AIと人間が協働して作られた完璧な教育カリキュラムを、最適な人間から最高効率で学べる。あまりにも滑らかで、完璧に舗装された「高校生ロード」である。最近のスーパーコンピュータは一億パターンの仮想高校生を生成し、その全員に約二兆通りの教育プログラムを受講させ、最適なプログラムをはじき出す。最終選定会議では人間が同席し、AIには足りない感情の揺らぎを補う。そして、非常に高い水準の、正しいと思われるプログラムが全国の高校生へ送り届けられる。たとえ最善とは言えないプログラムだったとしても、それは凡人のワンアイデアをとうに凌駕している回答なのである。だから疑問を抱く必要はない。その疑問はとうにスーパーコンピュータによって検討され、廃棄されたものだから。


 そう、疑問を抱く必要はないのだ。するとどうなるか。僕たちは疑問を抱けなくなる。これが当然だと、永久不変の世界だと思い込み、異常な世界に対して否を唱えることすらも想像の埒外に置かれてしまう。今のクラスメイトたちのように。いわば彼らはセックスワーカーなのだ。自らの恥部を他人にさらすことで快と便利を得ている。自らの未来を分析し、人生を当然の帰結の連続まで貶めることによってはじめて生を感じるセックスワーカー。世界がピンサロになったとき、その主人となるのは人間ではありえないだろう、なんてキレた比喩だって、もう笑いものにはできない。


 この世界には幸福だけがある。だからこそ、不幸を許容できない。この正しい世界の中では、それを抱くこと自体が誤りかのような圧力がある。僕が誰にも相談しないのはそれが理由だ。相談をすれば最後、少しずつこの世界にとりこまれ、穏やかに融和させられてしまう。そうに違いない。


 僕には夢がある。機械の目が届かない片田舎で、土をいじって過ごすのだ。その理想郷では、東の空だけが天気予報で、明るいと暗いだけが時間である。いや、極端な話、土いじりもしなくていい。僕が望むのは、誰にも自分を売り渡さない、僕の価値を僕が決める自然な世界。その中には、同じ価値観を持つ価値ある人が住んでいて、ともに助け合いながら生きる。そんな世界。そのためにもよい企業に就職し、金を稼ぎ、十分な余裕を作らなくてはならない。場さえ用意できれば、考えに共感してくれる人も出てくるはずだ。


 僕は彼らとは違う、はずだ。そうであってほしい、と考えている。不満はある。言葉にもできている。だけど、なにかがしっくりこない。そんなむかむかする腹の中と戦っている。


 それにしても疲れた。朝から頭を使いすぎている。講義に意識を向け、内省をシャットダウンする。切り替えるようにギュッと目を強くつむってから、無限級数と格闘を始めた。


 DREAMは沈黙したまま、歩数と平均心拍数を表示している。

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