私だけを見て。

丸ニ十ノ字

私だけを見て。

【笑顔のカラコン】のスピンオフ作品です。

https://kakuyomu.jp/works/2912051604168148154/episodes/2912051604168193176

未読でも楽しめます。

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「お帰りなさい、ケイタ」


深夜のタワーマンション。地上四十階の完全な静寂の中、薄暗い寝室で、ケイタはひどく重い瞼をこじ開けた。


大手商社の若き出世頭としての肩書。洗練された容姿と高収入。ほんのさっきまでは、華やかな飲み会で女たちからチヤホヤと羨望の眼差しを浴び、自由と優越感を謳歌していたはずだった。


しかし、今は何かがおかしい。


手足が動かない。視線を落とすと、特注のレザーベルトで最高級のシルクのベッドに四肢をきつく拘束されていた。右腕にはいつの間にか点滴のルートが確保されており、スタンドからポツン、ポツンと冷たい液体が落ちている。


頭には薄靄がかかったようにぼんやりとしていて、声もうまく出せない。


「……ア、アイ……? 何、これ……」


「暴れないでね、ケイタ。点滴のラインが外れちゃうでしょ? 鎮静剤を入れてあるから、思うようには動けないはずよ。意識と……『痛み』は残してあるけど」


ベッドの傍らに立つ恋人のアイは、いつもの穏やかな微笑みではなく、冷たく底知れぬ漆黒の瞳でケイタを見下ろしていた。


彼女は白衣のポケットからケイタのスマートフォンを取り出した。


「さっきの飲み会で交換した『ミカ』『ユリエ』『メグミ』。昨日の夜は『ミサキ』。……そして金曜日の合コンの『マキ』と、『ユナ』」


アイはそこでスクロールする指を止め、心底軽蔑したように目を細めた。


「このユナって子……あぁ、思い出したわ。最近、絶対にズレないなんていう粗悪なカラコンを使って、角膜に浸潤レベルの傷を作った挙句、うちの病院に泣きついてきた愚かな女ね。医局で笑いものになっていたわ。……あんな、白目がゼリー状に爛れた醜い目をした女の連絡先まで聞くなんて。ケイタの『あちこち目移りしてしまう病気』は、本当に重症なのね」


「ちが……それは最初に、形式的に全員と交換して……」


「言い訳はいいの。だから私が、物理的に治してあげる」


カチッ、と鋭い音が鳴った。アイが額に装着した手術用のヘッドライトが強烈な光を放ち、ケイタの目を情け容赦なく射抜く。


逆光の中、拡大鏡サージカルルーペを着けたアイの顔は、無機質なサイボーグか、漆黒の悪魔のように見えた。


アイはケイタの顔を固定すると、点眼瓶から局所麻酔を落とし、金属の開瞼器かいけんきで瞬きを完全に封じた。逃げ場のない見開かれた目に、強烈な光と、冷たい刃先が迫る。


「人間の眼球を動かす筋肉は、片目に6本ずつあるの。そして、それらを支配しているのは3つの脳神経よ」


アイは細いメスとピンセットを手に取り、ひどく冷静で甘いトーンで語り始めた。


「外転神経、滑車神経、そして動眼神経。どんなにあなたの脳が『他の女を見たい』と神経に命令を下しても、受け取る筋肉が繋がっていなければ眼球はピクリとも動かない」


アイの手が伸びる。先端が曲がった『斜視鈎しゃしこう』と呼ばれる金属のフックが、右目の白目の奥にズブリと滑り込んだ。


「まずは右目の外直筋。外転神経の支配を断ち切るわ。これで外側を向くことはできない。……これは、その愚かな『ユナ』の分」


「あ、グッ……!!」


グンッ、と眼球そのものが根元から引きずり出されるような強烈な牽引痛。同時に、眼の奥の神経が引っ張られたことで迷走神経反射が起き、胃の腑を掻き回されるような激しい吐き気と悪寒がケイタを襲う。


心拍数が急激に落ち、脂汗が全身から噴き出した。


続けて、双極電気メスバイポーラが引き出された筋肉を挟み込んだ。


ジュワッ……という微かな音と共に、自分の眼球のすぐそばで、生肉が焼け焦げる異臭が鼻を突く。止血された筋肉が、ハサミで『ジョキリ』と無慈悲に切断された。


「ひぃっ……! 待って、やめ、やめろぉ!!」


「次は内直筋、上直筋、下直筋。そして下斜筋。これらはすべて動眼神経の管轄ね。……『ミカ』『ユリエ』『メグミ』『ミサキ』の分よ。神経からの命令が空回りしていく感覚、どうかしら?」


フックで引っ張られる嘔吐感。肉の焦げる匂い。そして、筋肉が断ち切られる音。


狂気に満ちているとは思えないほど精密で無駄のない手技が、愛する男の目を確実に“矯正”していく。


「最後に、滑車神経が支配する上斜筋。……『マキ』の分。これで右目は完璧」


右目の6本が切断され、右目は完全に虚空を向いて固定された。


「泣かないでケイタ。まだ左目の6本、いえ6人が残っているわ。……『ナツキ』『サユリ』『アヤカ』、それから……」


血走るケイタの視界の中で、アイのメスが再び冷たく光る。


せめて目を閉じようと、ケイタは必死に顔の筋肉に力を込めた。だが、鎮静剤で力が入らない体は拘束具に阻まれてピクリとも動かず、金属の開瞼器に押し広げられたまぶたは瞬きすら許してくれない。


逃げることも目を逸らすこともできず、ただ自分の左目に冷たい刃先が迫りくるのを凝視するしかない圧倒的な絶望。


ジョキリ、ジョキリと、左目の筋肉も一つずつ、神経の繋がりと共に切断されていく。


「……これで左右合わせて12本、すべて完了。完璧よ」


アイが最後の一筋を断ち切った瞬間、ケイタの両眼球は完全にその自由を失った。


白目は無残に血に染まり、目尻から赤黒い血の涙が真新しいシルクのシーツへと滴り落ちている。しかし、そのおぞましい状態にもかかわらず、彼の黒目だけは不自然なほどピタリと真正面を向いたまま、まるで精巧な人形のガラス玉のように固定されていた。


左右にも、上下にも、斜めにも。もはや彼自身の意志で視線を動かすことは、一生叶わない。


カチャリ、と血の滴る器具を置き、ヘッドライトの電源を切ったアイは、手袋を外してうっとりとしたため息をついた。


「ねえ、ケイタ。あと2人……もしあと2人、連絡先を交換した女がいたら、私、いっそ両目の『視神経』まで切っちゃってたかもしれないわ。……うふふ、冗談よ。あなたの美しい目が見えなくなるなんて、私がいちばん悲しいもの」


動かせない瞳孔が、恐怖で見開かれたままアイを映し出す。


アイはケイタの顔を覗き込むように、真っ直ぐに彼の視界の中央へと入り込んできた。


「あのユナって子の角膜は、レンズで削られて醜くなっていたらしいけれど……今のあなたの目は、とっても綺麗よ。だって、私しか映していないんだもの。あなたの真正面は、もう私だけのものよ」


絶望に染まるケイタの頬を、アイの白く細い指が優しく撫でた。


「あぁ、心配しないでね。一応、器具の滅菌はしたつもりだけど……ここ、手術室じゃないから。」


アイはそう囁くと、静かに視線を落とした。


「もし感染症になっても、後遺症で働けなくなっても、私が一生養ってあげる。だから、何も心配はいらないわ。」


使い終えた器具を一つひとつ丁寧に並べ、柔らかなガーゼで汚れを拭き取る。その手つきは、長い一日の診療を終えた医師が、当たり前のように片付けをしているだけのように穏やかだった。


金属が小さく触れ合い、澄んだ音が寝室に響く。


「主治医を変えても、紹介状を書いてもらっても、救急車で運ばれても……最後は私たちの誰かに会うことになるわ。」


アイはようやく顔を上げ、ケイタへ微笑みかけた。


「人ってね、お医者さんには逆らえないの。」


ほんの少し首を傾げる。


「そして、この街の病院は、みんな繋がっているでしょう?」


その笑みは少しも揺るがない。


「だから、あなたは一生、私から逃げられない。」


器具を元のケースへ静かに収めると、アイは愛おしそうにケイタの頬へ触れた。


「だって私、大病院の跡取り娘ですもの。」


「治す人も、診る人も、決める人も――みんな、身内なんだから。」

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私だけを見て。 丸ニ十ノ字 @maruni-junoji

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