令和の向こう側へ――水と酒の暴力を生き延びた四人

@sumiyosinatsuki

第1章 酒の暴力と儀式(仁・真由)

第1話 営業二課フロア

 昭和六十三年十一月。朝八時四十五分。

 東京・港区神谷町界隈。佐原商事株式会社本社ビル十階の営業二課には、導入されたばかりのワープロを叩く音と、コピー機の低いうなりが入り交じっていた。

「おはようございまーす」

 真由は紙コップ式のコーヒーサーバーの脇をすり抜け、いつもより少し高い声で挨拶した。白いブラウスに紺のタイトスカート。胸元には、会社支給のネームプレートが留められている。

 デスクに着くなり、電話が鳴った。

「はい、営業二課でございます。……いつもお世話になっております。井原様でございますね」

 受話器を肩と頬で挟み、メモ帳に要件を走り書きする。そのすぐ横を、グレーのスーツ姿の男性社員たちが次々と通っていった。

「おはようございまーす」

 誰かが大声を張り上げた。

「おう、おはよう。昨日の接待、どうだったよ、佐々木」

 春原課長のどすの利いた声が返り、フロアに笑いが広がる。

「いやあ、中野部長、なかなかの店でしたよ。女の子もレベル高くて」

「ほう、どれくらいだ?」

「そりゃあもう、うちのフロアじゃ木野さんクラスがゴロゴロって感じで」

「おいおい、言うじゃねえか」

 いくつもの視線が、いっせいに真由へ流れた。

 真由は電話口の声を聞き漏らすまいと、メモを取り続けた。口元に浮かべた笑みも、そのままにしておいた。

「……かしこまりました。それでは、担当者から折り返しご連絡差し上げます」

 受話器を置くと、待ち構えていたように春原課長の声が飛んできた。

「木野ちゃん、今日お客さん来るから、お茶の準備よろしくね。十時から会議室Bな」

「はい、承知しました」

 返事は考えるより先に口から出た。スケジュール帳に「10:00 会議室B お茶」と書き込みながら、真由は必要な湯飲みの数を頭の中で数えた。

 また十人分だ。

 フロアのいちばん奥、窓際に近い島では、仁が黙々とパソコンに向かっていた。眼鏡もスーツもネクタイも、目を引かないものばかりである。机の端には、最新号のパソコン雑誌とファミコン雑誌が、表紙を伏せて重ねてあった。

「おい、大和田」

 背後から、同期の井上に肩を叩かれた。

「昨日の数字、見たけどさ。今月もきついんじゃないの?」

「ああ……。先方の決裁が、来月にずれそうで」

「またそれ? おまえ、クロージングが弱すぎるんだって。もっとガツンと押さねえと。ですよね、春原課長」

 井上はわざとフロアじゅうに聞こえる声で、春原課長へ話を振った。

 春原課長は新聞の株式欄から目を上げ、眉をひそめた。

「大和田。真面目なのはいいけどよ、うちは結果がすべてだからな。おまえの担当エリア、前年同月比でマイナス三か月目だぞ」

 新聞を机に置き、声を低くする。

「ふざけてるんじゃねえぞ。それでも男か、おまえ」

「はい……申し訳ありません」

 景気や取引先の事情まで、自分一人の力で変えられるはずはない。そう言ったところで、「根性がない」「弱そうだから客に舐められる」と返されるだけだった。

 仁は頭を下げた。

「俺なんかさあ」

 井上が、わざとらしく肩をすくめた。

「土日も接待入れてっからさ。今週なんか、彼女と会う暇もねえもん。なあ?」

「何人目だよ、おまえの彼女」

 別の島から声が飛び、また笑いが起こる。

「いい女か? どのレベルだよ」

「そりゃもちろん、うちのフロアじゃ木野さんクラス……いや、それ以上だな」

 再び、何人かが真由を振り返った。

「ちょっと、やめてくださいよ。そういうの」

 真由は笑いながらコピー用紙の束を抱え、席を立った。

 以前、飲み会の席で春原課長から言われた言葉が、耳の奥によみがえる。

『木野ちゃんは、そうやってちゃんと笑ってくれるからいいんだよ。場がもつんだ。いい女だなあって』

 あのときも真由は、「ありがとうございます」と答えていた。

     *

 午前十時前。会議室Bの廊下で、真由は湯飲みと茶托を盆の上に並べていた。上座から役職順に置けるよう、並びを確かめる。ポットの中身も十人分、足りるはずだった。

 ドアの向こうから、大きな笑い声が聞こえてくる。

「いやあ、昨日のコンパもよく飲んでくれてね。やっぱり女の子は二十代に限りますよ」

「ははは、そうですねえ」

 春原課長と、取引先の男たちの声だった。

「うちの課にもね、なかなかいい子がいましてね。……おい、木野ちゃん!」

 呼ばれた真由は、ドアを開けた。

「失礼いたします。お茶をお持ちしました」

 背筋を伸ばし、一人ずつ湯飲みを置いていく。笑いすぎず、無愛想にもならない。鏡を見なくても、真由は自分がどんな顔をしているか分かっていた。

「この子、このフロアで一番人気なんですよ。なあ?」

 春原課長の手が、真由の肩をぽんと叩いた。

「いえいえ、とんでもないです」

 真由は頭を下げ、空になった盆を胸元に引き寄せた。

 廊下へ出てドアを閉めたとき、ようやく息を吐いた。肩には、さっき触れられた感覚がまだ残っている。

 曲がり角から、誰かが歩いてきた。

「あ、すみません」

 危うくぶつかりそうになり、二人とも足を止めた。

「……あ」

 仁だった。腕には資料の束を抱え、その上に一枚のフロッピーディスクを載せている。

「あの、木野さん」

 仁が先に口を開いた。

「この前の見積もり資料、コピーしていただいて、ありがとうございました」

「あ、いえ。大和田さんの資料、いつもきれいに揃っているから、コピーしやすくて助かっています」

 そこで会話が途切れた。

 すぐ隣の会議室から、また男たちの声が漏れてきた。

「おいおい、あの娘も飲ませればイケるんじゃないの」

「春原課長、声が大きいですよ」

 たしなめる声にも笑いが混じっている。室内の笑い声は、さらに大きくなった。

 真由の眉が、ほんのわずかに動いた。

「……すみません。通りますね」

「はい」

 二人がすれ違うとき、仁の資料と真由の盆の縁が、かすかに触れ合った。

 仁は数歩進んでから、廊下の先へ目を向けた。

 真由はもう、いつものようには笑っていなかった。

 男たちの前で浮かべていた「感じのいい女子社員」の表情ではない。疲れとも怒りともつかない、何も覆っていない顔だった。

 仁は何も言えないまま、真由の背中を見送った。

     *

 席に戻った仁は、机の引き出しを開け、フロッピーディスクをしまった。

 中に入っているのは、夜遅くまでかかって作った営業分析のデータだった。担当先の売上推移や受注の傾向を入力し、自分なりにまとめたものだ。誰かに命じられた仕事ではないし、見せたところで評価されるとも限らない。

 それでも仁にとっては、酒の強さや声の大きさとは違う方法で、仕事に向き合おうとした痕跡だった。

 電話が鳴った。

「はい、大和田です。……いつもお世話になっております」

 仁は受話器を取り、背筋を伸ばした。

 フロアの向こうでは、別の笑い声が上がっていた。

「おい、今度のコンパ、木野ちゃんも呼んどけよ」

「出た出た。春原課長、相変わらずっすねえ」

 ワープロのキーが鳴り、コピー機が紙を吐き出す。電話のベルと笑い声が、その上に重なっていく。

 仁は受話器を握りながら、先ほど廊下で見た真由の顔を、もう一度思い出していた。

 二人はまだ、互いのことをほとんど知らない。

 それでも、何も貼りつけていないあの一瞬の表情だけが、仁の胸に残った。

 十階の蛍光灯は、誰の顔にも同じ白い光を降らせていた。

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