細雪、風の赴くままに冬茜へ(3)
「そろそろ、起きよう」
「うん、そうだね」
シロとハルノの二人は共にベッドの上から立ち上がり、ゆっくりと降り立つ。
ハルノは大きく背伸びをした。凝り固まった筋肉をほぐす。
小さく関節がポキポキと音を鳴らした。隣にいるシロはふわぁ、と大きく欠伸をしている。
長時間寝ていたのにまだ眠たそうである。もう十分な睡眠は確保しているはずなのだが。
部屋のカーテンを開ける。シャーッという接続部分の動く音と共にレースが小さく揺れた。
窓の外は綺麗な青空を浮かばせていた。雲一つない快晴で、今のハルノの心模様を反映したかのような天気だった。
今日はいつもより目覚めが良い。昨日どっと疲れたから、そのまま死んだように寝たからだろうか。
それだけでなく、隣にある冷たさが心地良かったこともあるのだろう。昨日の夜は蒸し暑かった。
七月は基本昼夜伴わず暑苦しいが、雨が通り過ぎた後だったのも相まって空気が重苦しかった。
当たり前だが扇風機はつけている。扇風機なしにこの夏を乗り切ることは到底無理だ。
睡眠中でも熱中症になるかもしれない。本当は部屋にエアコンが欲しいのだが、自室にはない。
リビングルームと両親の寝室にしか置いてないのである。
そこそこ築年数が古い住居だと、基本的に子供部屋に付いて無いことも多い。ハルノが住んでいる家は古めの一軒家だったので、もちろんエアコンは付いていなかった。
両親の寝室には数年前にエアコンを付ける工事をしてもらっていた。ハルノの部屋にも欲しいのだが、資金をケチって我慢させられている。
今年もまた扇風機一本で乗り切ると思うと中々に大変だ。だから、シロの存在がこの上なく有り難かった。
シロから発せられる冷気がハルノの体を冷やしてくれて、昨日はいつもより快適だった。扇風機の風もあるからか、シロに当たると冷たさが部屋に広がっていた。
本当に一家に一人欲しいくらいだ。
口の中が渇いていることに気づく。リビングに向かったら冷蔵庫の中からお茶を取ろうと決心する。
夏の強い日差しが部屋の中に差し込む。眩しくて目を細めた。
一日の始まりを改めて感じ取り、薄暗かった部屋が明るくなった。
「改めて思うけど、ここがハルノの部屋なんだ」
「まあ、うん。ここが私の部屋」
おおー、っとシロは感嘆の声を漏らしながら部屋を興味津々に見渡す。
思い返せば昨日は自分の体調のこともあって、慌ただしくてしっかり部屋に注意を向けられなかったらしい。今になって興味を惹かれていた。
シロの視線に照れ臭さを覚える。困った様子で頬をかいた。
「別に面白くも何ともないけど」
「ううん、面白いよ! ここでハルノは過ごしていたんだね」
何が面白いのかさっぱりだが、興味を持たれることに嫌な気分はしなかった。シロは好奇心の眼差しで、自室の本棚に目を向ける。
「めっちゃ本あるね! これ、全部ハルノの?」
「うん。でも、沢山という程でもないけど」
自室の本棚には大小数々の文庫本が置いてある。ハルノの趣味で定期的に買っていた。
暇なときはよく小説を読んでいたのでそこそこの量にはなっているが、読書家と言われるレベルではないだろう。百冊もあるのかギリギリのラインだ。
シロは本の背表紙をじっと眺めている。本に顔を近づけて目を細めている様子に愛らしさがあった。
「わたし、読書したことないよ」
「へえ、そうなの?」
「うん。そういう機会がなくて。だから、見ているだけでとても楽しい!」
本棚から自分の方へと視線を向けてくれる。
そして、今日の朝日にも負けない満面の笑みを浮かべた。放つ光が強くて目を逸らしてしまった。
何とも照れ臭いことを、いとも簡単にシロは言うから卑怯だ。
確かにシロは甘味屋に長い年月を一人で過ごしていたから、自然と本を読む機会はなかっただろう。シロが本を読んでいる光景を想像する。
多分、本だけが浮いている。周りから見たらただのポルターガイストである。
そもそも、本があった所でシロが読書をする姿を想像出来ないが。威勢の良い魚のように元気あるシロが、静かに読書をするとは思えない。
途中で本を投げて何処かに遊びに行く光景が思い浮かぶ。ハルノの中のシロという少女は、そういうイメージだった。
「ねえ、ハルノ! この中でハルノが好きなのはどれ?」
「うーん……ちょっと待って。考える時間が欲しい」
シロが本棚に指を差し出して聞いてくる。それに対してハルノは頭を働かせていた。
日差しを浴びたから、頭が回り始めている。どの本が好きか悩ましい。
本棚に置いてある背表紙を眺める。
いつの間にかシロの隣に並んでいた。肩が触れ合う。
白いモコモコしたパーカーの生地を感じる。まるでマシュマロのような弾力を感じた。
シロはじっとハルノの顔を眺めている。目が合う。
嬉しそうに微笑んで、より肩を密着させた。心臓が跳ね上がりそうになる。
気を紛らすように、目に入った本を手に取った。
「……こ、これとか好き」
どの本を取ったのか分からずに、シロへ文庫本を見せた。
本の表紙を眺める。何を表しているか理解が難しい不思議なデザインだった。何とも抽象的だ。
これはいつ頃読んだ本だっただろう。確か何かしらの賞を取った作品なのは覚えているが。
それすらも、今の熱籠った頭では思い出せそうになかった。
「おおー、面白い?」
「うん。読んでて、人間とは何かを考えさせられる本で、それを上手く言語化していて……」
何とか思考を働かせて、言葉を見つけていく。自分でも内容が曖昧なのだ。
小説というのは、読んでいる間は世界の住人として、本の世界に浸っていられる。しかし、時間が経てばその余韻はじんわりと霞んで消えていくのだ。
しかも、一般的なライトノベルや大衆小説なら、シロにも興味を持ってもらいやすいはずなのに。ハルノは焦りのあまりに、純文学の小説を手に取ってしまった。
何とか気まずい空気にならないように、口を動かす。多分声がゴモゴモしていて、何を話しているか伝わっていない気もした。
「なんか、難しそう」
シロはポカンとしていて、不思議そうに話を聞いていた。まあ、そうだろう。
初めて読書する人に純文学を勧めている人間はどうかしている気もする。初めてバッティングセンターへ来た人に、いきなりプロレベルのピッチングマシンに案内しているのと同じだ。
ハルノは申し訳なさを感じた。
「……ごめん。聞いてて面白くないでしょ?」
自分でも分かっていながらも、シロの表情を見るのが怖くなる。
表紙の謎の絵がぼんやりと渦巻き、不安を煽るかのようだった。文庫本を持っていない手が、落ち着きもなく自分の服を掴んでいた。
「難しそうとは思ったけど、ハルノの話はどれも面白いよ! ……いつか、わたしに読み聞かせてね」
文庫本を持つ手にシロの手がかかる。ハルノの顔を伺うようにシロは目を細めた。
「よ、読み聞かせるって、小説を? 何時間すると思ってるの?」
「うーん、分からない! でも、ハルノの声ならどんな本でも楽しめそうだから」
「……意味分からない。そもそも、小説は一人で楽しむのが普通」
赤色の絵の具でも移ったかのように、頬が紅潮していく。恥ずかしさと嬉しさ。
それが混ざり合うかのように、渦巻いていく。よく見れば小説の表紙も、何色もの絵の具を混ぜているように見えた。
人間とは複雑だ。今の感情を色に表すことなど、到底出来ようがなかった。
「いつか……読み聞かせしてあげる。内容は、簡単な作品で」
「えへへっ、ありがと。わたし、楽しみにしてるね」
小さな約束がシロと出来た。いつになるか分からないが、まだ私達の関係は途切れることなく続きそうな気がした。
小説を読んだような余韻に浸りながら、手にある小説を本棚に直した。この本にシロとの思い出が刻まれた。
多分、話の内容を思い出すより先に、今日の出来事が発露していくかもしれない。小説の内容とは対照的に、心が温まっていくようだった。
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