第1話
パン!と手を叩き、目の前の彼女に頼み込む。
「お願いだからさ!もうしないから!」
「それ何回目よ!もういい、もう信じないから出てって!」
そう言って、ドアをガチャリと閉められた。
あたしは今浮気をして追い出された。
そのことにどうするんだっていう焦りと、仄暗い喜びが心を支配する。これも話のネタにしよう。
まあとりあえずと、タバコを取り出しそれに火をつけ歩く。さっきまでの焦りが失われ、小慣れた余裕が自分を満たす。苦さは慣れるものではない。
歩いた先にはバーがある。これはあたしのルーティンだ。追い出されたらバーに行って泊まれるところを探す。ワンチャンバーで泊めてもらえる。そう考える自分に苦笑した。
バーが見えて、ドアノブに手をかける。
ふと、横から手が伸びてきた。
目を横にずらすと目が合う。
そうしてにこりと笑った。
「こんにちはっ」
急激に距離を詰められたハキハキとした挨拶だった。その黒髪ロングの優美さには似合わないくらいに。
肩甲骨に触れるうねりヘアが印象を纏め上げ、そのタレ目が優しさを包容する。唇は薄く、ピアスも服装も最小限で。
まあつまり大分タイプな美人だった。
横からの手があたしの手を包み、重ねて押される。
その柔らかさに心が揺れた。だいぶ大胆な人だった。
「こんばんわ」
こんな人が自分に声をかけてきたことに歓喜しながら、慌てて格好つける。こんなことしてくれるって脈アリじゃね?ワンチャン泊まれる。
こちらもにこりと笑いかけた。自分でもわかる。悪い笑みだった。
「あたし、お姉さんに一目惚れしちゃった。一緒に飲まない?」
前代未聞のドアでの交渉だった。
まだ酒も飲んでないのに、軽い言葉がコロコロと飛び出る。首を傾げた彼女は笑っていて、満更でもないように見えた。
彼女の指が矢印となって店とは反対方向を指す。
ドアノブでないもう片方の手をパシリと掴まれた。
「ホテル、いこう!」
話が早すぎた。自分の交渉術というものが何にも火を吹かず、なんなら置いていかれる。
手をグイグイと引かれて、コンビニで安い酒を買って、連れてこられたのはラブホでもビジネスホテルでもなく、高そうなホテルだった。こんなとこ入っていいのか。きゅ、と手に持ったレジ袋を握る。
安い酒が怖がって震えていた。
部屋に入ってもやっぱり広くて、街を一望できる窓とあのCMの真似ができそうな広さのベッドが鎮座していた。
「ええ……」
少し引いてしまう。窓は外気を吸って冷たい。
その冷たさが余計正気に戻していた。
「おいで」
がさりと安酒を机の上に出してきた彼女があたしを呼ぶ。冷たさから離れたら少し落ち着いた。
またはその笑顔があたしを安心に招くのか。
「……」
酒も飲んでないのに泥酔したような感覚が体を巡って、あたしはそのりんご味の酒を飲み込んだ。
目を開けたらベッドに寝ていた。飛び跳ねて体をばっばっと確認する。なぜか服を着ている。大きく暴れたから頭が痛い。
ずきりと痛む頭を抑えて前を見やる。そうしたらぼやりと人影が見えた。痛く目に刺さる。
「おはよう」
痛いほどの美しさを照らす彼女がそう挨拶してくる。髪を解かしながら微笑む彼女にあたしの口端は引きつった。
「大丈夫?頭痛い?」
顔を顰めたあたしに彼女がそう心配する。
おでこに乗せられた手に引きそうになった。
この人は全てがイレギュラーだ。どのように対応したら良いのかわからない。
「大丈夫」
その手を押しのけ、自分のペースを取り戻そうと画作する。相手の顔を伏目で見る。相手を照れさせればいい、照れさせれば。獲物を狙うチーターのように忍び寄る。
どう褒めようか、どう褒めたらこの人は照れるか、全てが未知数だった。
だからまたペースを持ってかれるのだった。
「美味しい?」
ニコニコ、ニコニコとこちらを見て笑う彼女をストローでドリンクを啜りながら眺める。
ずごごごごごごごごご。そんな音にも眉を顰めもしない。この女は大分お人よしらしい。
高級ホテルの高級ビュッフェというものはまさかのドリンクすらも高貴さを纏っていて、あたしは唯一見つけたコーラに逃げ込んだ。
ビリビリとした痺れの中に混じる甘味に逃走感覚を感じる。お金要求されても困るんだけど。
ヘラヘラとした笑顔を作り問いかける。
「なに、奢ってくれんの?」
「うん」
「そこをなんとか、は?」
口に運んでいたよくわからないうまいやつをぼとりと落としてしまう。その落ちたものを拾って食べようとしたら止められた。
彼女は熱いお茶を啜り、案の定あちっと声を漏らし舌を冷やしていた。
そうして何もなかったようにこちらに近寄ってくる。顔が至近距離にきてどうしても顔が引く。美人って気迫があった。タイプなのもあるけどこれは全人類タイプだと思う。
「あなた可愛いから。サービスしてあげようと思って」
ピシリと指を指した彼女がまた口を緩めて笑う。
普通はこんなに笑っていたらいつかは胡散臭さを感じるものだと思うのに。そんなものが全く感じられない。涼やかさと華やかさが同居していた。
その涼やかさにぐう、と心臓を押されてしまう。
そんなことも知らず彼女は火傷した舌をまた冷やしていた。あは、と喉の奥から笑いが漏れる。
なんだ、案外扱いやすそうじゃん。
「かわいいって、嬉しいなー。それなら泊めてくれたりもしない?あたし家なくてさー」
「いいよ〜」
彼女は笑顔をやめない。涼やかなまま彩りも変わらない。大分、本当に、心配になるくらいのお人よしらしい。それが都合が良かった。
「わたし、このホテルに泊まるつもりだから。一緒に泊まってよ」
手を合わせた彼女が食べたものを持っていきながら、そう告げる。
扱いやすいのかはわからないけど少なくともあたしにとって都合は良かった。
金払わずにこんなところ泊まれるとか最高じゃん。嘘でさえなければどんな条件を飲んでも良かった。
「えー、嬉しい。じゃあさじゃあさ、毎日何か一つ言うこと聞く」
自分で言っておいてあまりにも不平等な取引だった。貼り付けた笑顔の中に悪い企みがあることをこのお人よしの彼女はわかっているのだろうか。
その悪さに彼女の横に並びながら苦笑する。
「あたしさ、小松るい、累積の累。お姉さんは」
彼女は背が高く、どうしても見上げる形になる。
あたしが小さいと言う線もあった。
彼女が足をぴたりと止めて、思い立ったように引き返す。その先には自販機があった。
そうして黄色の甘味の液体が入ったペットボトルが落ちてきて手渡される。まぁつまりリンゴジュースだった。
「昨日、コンビニであっぽぅ酒選んでたから、好きなのかなって」
無駄に流暢なあぽーが通り過ぎてそんな思慮が頬を撫でる。それが頬を染めて、あたしを奪うのは簡単だった。
「わたしのことはハルって呼んで」
そうして手が差し出される。
あたしはその手を取った。手の柔らかさに微笑する。ハルさんのレモンのような甘い匂いがあたしの鼻を蹂躙するのだった。
さっき軽く出したお願い。それは買い物となってあたしに降りかかっていた。
「ハルさん、連絡先教えてよ」
道の外側を歩く彼女にそう問いかける。
スマホを持ってニコニコすれば彼女は「いいよ」笑顔で連絡先を差し出した。
そのページの白さにギョッとする。何にも登録されてない。友達も親さえも。
顔を見るとなんでもないようににこり笑っていた。
「初めて見たかもまっさらなやつ」
「えーそう?」
ふふと笑われる。
「累ちゃんだけだからわかりやすくていいね」
まるで手を撫でるように、そんな優しい言葉が舞う。この女は恥ずかしげなことをなんでもなく言う。多分天然なんだろう。
その声に手を重ねていたあたしがいた。
なんでと考える前に手を握られる。
そうしてそれを持ち上げた彼女に春風が吹く。
その嬉しそうな顔にあたしはどんな顔をしただろう。きっと碌でもない顔。
そうしてその感傷に浸る間もなく、「いくぞ!」そう手をブンブン振られた。
相変わらずなお転婆だった。
「これよくない?」
「あたしはこっちの方が」
買い物に来てまさかのあたしの服が選ばれていた。
黒、白、ピンク、紫、いろんな服が選ばれてはカゴに放り投げられる。「あたし服ないんだよね」そう言ったら買ってもらえることになった。ないって言うのは嘘ではない。元カノの家にあって2度と取りにいけないから。その事実に失笑してしまう。
心の憧れが歓喜していた。
すごいなこの人、何言っても、なんなら言わなくてもなんでもしてくれる。
その美貌から甘やかされて人生経験がないのかもしれない。どうやらこの人の人生経験の一部になれるようだった。一部をぐちゃぐちゃにする、そんな悪役に。
「ありがとう、ハルさん」
その声に笑う彼女には扱いやすさと言うものが滲んでいた。目先にクレープ屋が見えて、食べたくなって頼み込む。その願いはやっぱり簡単に聞き入れられた。
「んー、美味しい」
一口齧ってそんな感想を漏らす。たっぷりクリームが注入されたそれは見た目から甘く、中身も甘かった。横を見やると、相手もこっちを見てた。
「食べる?」そう差し出すと、手からクレープを食べられる。
「甘いね」
そう漏らす笑顔が印象的だった。
彼女の笑顔はいつもあたしを攫うような感覚を錯覚させる。
それから逃げようと歩みを進めればハルさんはそれに合わせてきた。当然逃げれず錯覚が広まっていく。手を握られればさらに強くなった。
「ついてる」
あたしの頬を柔らかい指が撫でる。
クリームを取った彼女がそれを口に含み、大げさに咀嚼していた。その正直な仕草に息が詰まる。
びっくりした。
そしたら、彼女にもついているのが目に見えて、やり返してやろうと指を伸ばした。
でも、その指に顔を出されて返り討ちにあった。
大きい軌道を描いた指が、ゆっくりと顔に着地する。そうしてそれを爆速で抉り取った。
それを口に含む勇気もなく自分の服になじりつける。この女は異様に距離が近い。
勝手に心の中に入ってくるようで居心地が悪かった。はっ、と自嘲して彼女に話しかける。
距離が近いから、ペースを乱されるからってなんなんだ。献上される側はあたしなんだ。
「ハルさん、デートみたいだね」
そうあたしが言えば、みんなは意識してしまって、顔を逸らす。今回もそうなるはずで、彼女の手綱を握るはずだ。でももし違ったら。
「デートだからね」
そう彼女がきゅと強く握った手を頬に寄せる。
もし違ったなら、あたしが手綱を差し出したことになってしまう。
「呼び捨てでいいよ」
そうして、それは現実だった。
何にも通用しない彼女がおかしそうに笑う。
頰の赤さに気がつく。それに、顔を逸らしてあたしは。きっと、この頃から彼女は入り込んでいた。
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