第5話 少女の記憶、最初の断片


「レン、怒ってる?」


隣を歩くアルマが、心配そうにその顔を覗き込んできた。銀色の髪が街灯の明かりを反射して、幻想的に揺れる。迷宮の深層で拾ったこの少女は、今のところ驚くほど無垢で、かつて世界を滅ぼした魔王だとは到底信じられなかった。


「怒ってないよ。ただ、少しばかり鼻っ柱の強い連中が騒がしかっただけだ」


レンは努めて穏やかな声で答える。事実、あの程度の言いがかりは迷宮都市では日常茶飯事だ。問題なのは、彼らがレンの背後にいるアルマを「危険物」として排除しようとしたことだった。


「……ごめんね。わたしが、いるから」


アルマが俯き、その小さな手がぎゅっと服の裾を握りしめる。彼女の記憶はまだ断片的で、自分が何者なのかも曖昧なまま。それでも、自分という存在がレンの足かせになっているのではないかという不安は、幼い心にも芽生えているらしい。


レンは足を止め、屈んで彼女の目線に合わせた。


「アルマ。お前が俺の相棒だという事実に変わりはない。それに、俺は自分の判断でここにいるんだ。誰かに指図されて決めるような生き方は、もうごめんだからな」


その言葉に、アルマが少しだけ目を見開く。彼女の瞳は夜空よりも深い色をしている。レンは彼女の頭を軽く撫でると、そのまま歩き出した。


宿に戻ると、室内はひんやりと静まり返っていた。ベッドに腰を下ろしたアルマは、窓の外をぼんやりと眺めている。月明かりに照らされたその横顔には、どこか遠い場所を見つめるような寂しさが漂っていた。


「レン」


ふいにアルマが口を開いた。


「さっき、夢を見たの。……迷宮の、もっと深い場所。真っ黒な空の下に、誰もいない王座があるのよ」


レンは背筋を正し、彼女の隣に座った。記憶の断片。それは彼女が「魔王」であった時代の、埋もれた記録かもしれない。


「どんな王座だ?」


「冷たくて、誰も愛さない場所。そこには……わたしがいたの。たくさんの武器を持った人たちに囲まれて、それでも平気な顔をして笑っていた。……血の匂いがしたわ」


アルマの身体がわずかに震える。レンはその肩を抱き寄せた。彼女の記憶が戻ることは、同時に彼女が人間を滅ぼそうとした存在であったことを突きつける行為でもある。だが、今のアルマは、迷宮で怯え、レンの温もりを求めて震える一人の少女に過ぎない。


「……もし、わたしが本当に恐ろしい存在だったら、どうする?」


「その時は、俺が止める。何度でも、納得いくまでな」


レンの言葉は淡々としていたが、そこには揺るぎない覚悟があった。アルマはしばらく沈黙を守っていたが、やがて小さく笑みをこぼした。


「ずるい人ね。そんなこと言われたら、離れられなくなるじゃない」


「離すつもりもないよ。俺たちは最深部に行くんだろう?」


二人の目的は、この迷宮の最深部に隠された「世界の真実」にたどり着くことだ。そこに行けば、アルマの過去も、この世界の理も、すべてが明らかになるはずだ。


翌朝、レンはギルドの喧騒を避けるように、早朝の迷宮入り口へと向かった。昨日の騒動の影響で、周囲の探索者たちの視線が突き刺さる。だが、今のレンにとって他人の評価などどうでもよかった。


「準備はいいか、アルマ」


「ええ。昨日の夢を見てから、少しだけ力が……魔力が扱いやすくなった気がするの」


アルマは手のひらに小さな光の粒子を浮かべてみせた。かつての魔王の片鱗。それは今、レンを護るための盾となり、道を切り拓く矛となる。


迷宮の門をくぐると、ひんやりとした湿った空気が二人を包み込んだ。ここから先は、彼らがこれまで足を踏み入れたことのない未知の階層だ。


「ここからは、今まで以上に慎重にいくぞ。何が出るか分からない」


「うん。……でも、レンとなら怖くないわ」


アルマがレンの手を握る。その温かさが、張り詰めた神経を少しだけ緩めてくれた。


迷宮の階層が進むにつれ、周囲の風景はがらりと変わった。岩肌は赤く変色し、通路のあちこちから熱気が噴き出している。地下とは思えないほどの乾燥した熱波が、肌をジリジリと焼く。


「熱いね……」


アルマが額の汗を拭う。迷宮の階層構造は、環境を強制的に書き換える性質がある。今の階層は、まさに灼熱の地獄だ。


レンは腰の鞘から短剣を抜き放ち、通路の角を覗き込んだ。そこには、赤熱した鋼のような鱗を持つ巨大なトカゲが、数匹で徘徊しているのが見えた。鋭い牙と、吐き出される火炎の残滓。並の探索者であれば、一瞬で灰に変えられてしまうだろう。


「あいつら、手強いぞ」


「ええ。でも、レン、見て」


アルマが指さしたのは、トカゲたちの背後に広がる広大な広場だった。そこには、古びた石碑が突き刺さっている。アルマの記憶が、あの石碑と共鳴しているように見えた。


「あれが……わたしの記憶の鍵?」


「そうかもしれないな」


二人は顔を見合わせ、小さく頷き合った。言葉は不要だった。レンは短剣を握り直し、足音を殺して踏み込む準備を整える。


「行くぞ、アルマ」


「ええ、行きましょう。わたしたちの、答えを探しに」


最強の魔王と、無能と呼ばれた少年。迷宮の最深部を目指す二人の影が、灼熱の熱気の中へ消えていく。彼らの進む先には、さらなる過酷な試練が待っているはずだ。それでも、二人は止まることはない。


レンは心の中で呟いた。これが、本当の旅の始まりなのだと。


通路の奥から、獲物を嗅ぎつけたトカゲたちの低い咆哮が響き渡る。レンは唇の端を吊り上げ、迷宮の闇に身を投じた。

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