余命365日
旭
第1話 白い部屋の365秒
午後二時の診察室は、不自然なほど静まり返っていた。
窓から差し込む斜陽が、デスクの上に置かれた一枚のレントゲンフィルムを透かしている。そこに浮かび上がる黒い陰影が何を意味しているのか、知識のない佐原泰介にも感覚的に理解できた。
「佐原さん。驚かれるかもしれませんが……落ち着いて聞いてください」
デスクの向こう側で、主治医の望月がゆっくりとカルテを閉じた。
眼鏡の奥にある瞳は冷静だが、どこか薄氷を踏むような緊張感を孕んでいる。
「検査の結果が出ました。結論から申し上げますと、胃がんの末期です。すでに周辺の臓器およびリンパ節への広範な転移が見られます」
泰介は自分の耳を疑った。
「……転移? でも先生、先週まではただの胃炎だって……」
「前回の段階では判断が難しい病変でした。しかし今回の詳しい精密検査で、進行スピードが非常に早いタイプのものだと判明したんです」
望月は一度言葉を切り、泰介の目をまっすぐに見つめた。
「現代の医学では、有効な治療法がありません。手術で取り除くことも、抗がん剤で進行を止めることも難しい状態です。……残されたお時間は、およそ一年とお考えください」
余命一年――。
その言葉が落ちた瞬間、頭の中で金属音が鳴り響いたような感覚があった。
周囲の音がすっと遠のく。壁に飾られたカレンダーの数字、デスクの端で微かに鳴るPCのファン、望月の呼吸音。あらゆるものが泰介の意識から切り離され、ただ「365日」という数字だけが空白の頭の中に浮遊していた。
「……一年、ですか」
絞り出した自分の声は、まるで他人のもののように掠れていた。
「ええ。もちろん個人差はあります。ですが、急激な体力の低下や痛みが現れる前に、ご自身の時間をどう使うか……それを考えていただく時期に来ています」
望月の声には、余計な同情や慰めを削ぎ落とした、プロとしての誠実さがあった。余命を告げる医師の苦悩と、目の前の患者への敬意。その静かな態度がかえって、泰介に現実の重みを突きつける。
「仕事は……続けられますか」
「最初の数ヶ月は、普段通りの生活を送れるでしょう。しかし後半になれば、入院が必要になります。……ご家族には、私からお話ししましょうか?」
ご家族、という言葉に泰介は息を詰まらせた。
七十を過ぎた長野の父。もう十年以上、まともに口をきいていない。連絡などできるはずもなかった。
「いえ……大丈夫です。自分で考えます」
診察室を出ると、病院の廊下は多くの人々で行き交っていた。
点滴棒を押して歩く老人、泣きじゃくる子供をあやす母親、スマホで嬉しそうに話す看護師。誰もが自分の「明日」があることを当然のように信じて動いている。
自動ドアが開き、病院の外へ足を踏み出す。
ぬるい夏の風が頬を撫でた。街の喧騒、車の排気ガスの匂い、信号機の電子音。ほんの数十分前まで自分もその一部だった日常が、まるでガラス一枚を隔てた遠い世界のように感じられた。
(四十歳。俺の人生は、ここで終わりなのか)
毎朝同じ電車に乗り、理不尽な得意先に頭を下げ、夜はコンビニの弁当を食べて眠る。そんな日常がこれからもずっと続くと思っていた。いや、続いてしまうことにどこかで退屈していたはずだった。
それなのに。
泰介はポケットの中でぎゅっと拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、微かな痛みが走る。その痛みだけが、自分がまだ生きていることを教えてくれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます