三の九
わたしたちが昇降口に着いたとき、美術部員のふたりはまだ靴を履きかえる前だった。瑞稀が仁科先生と話していて——というより、まとわりついて離れようとしなかったんだろう。深沢先輩はひとりで帰るともいい出せず、足止めを食っているようだった。
「どうしたの? みんなしてそんなに慌てて」
優しいお姉さんの口調だった。そんな深沢先輩に、七波は堂々と向かい合った。
「全てわかりました。誰がやったのかも、どうやったのかも」
「……そっか」
動揺している様子はなかった。ただその目だけが、どこか悲しげだった。
「わかったってあの石膏像のこと?」
瑞稀が耳ざとく察知して、仁科先生のもとを離れてこちらへやってきた。まるで花から花へと飛び回る蝶のように軽やかなフットワークで。しかし、網を構えて待っていた虫取り少年ヨッシーにすぐさま捕獲されてしまった。
「もう六時をまわったから早く帰ろうなー」
「え、なんでわたしだけなんですかー?」
「あの子らには先生のほうから用事があるからなー」
瑞稀が強引に退場させられると、校舎は静かになった。早朝に登校したときとは違った意味で賑やかさが失われてしまっている。
ヨッシーが戻ってくるのを待って、仁科先生が口を開いた。
「詳しく聞かせてもらえますか」
仁科先生はまだヨッシーの調査結果を知らない。おそらく犯人も詳細は把握していないはず。問題を整理するために、まずは二回目以降の像の動きを説明する必要があった。神社で発見され、学校に持ち込まれていたこと。陸上部のコーチによって美術室前まで運ばれていたこと。職員の連携不足が原因で怪談のようになってしまったということ。
「偶然によって生じた状況だったんです、美術室から消えた部分以外は」
七波はやや間を開けて、はっきりといい改めた。
「像を盗み出した犯人がひとりいるということです」
「しかし」仁科先生は狼狽えているようだった。「戸締りの確認は確実にやっていますから、盗み出すなんてできないはずですが」
「普通に開きましたよ、美術室の窓」
「そう、それがわからないんだよ。窓の施錠はふたりがかりで確認したはずだろ?」
口を挟んだのは莉帆だった。
「言葉の上ではそういうことになるね。でも、じっさいにどういう手順でそれをやったか、想像してみればわかると思う。一年生と三年生でやる場合をね」
わたしにももうわかった。ふたりに窓を確認させるなら、普通はまず下級生、それから上級生に最終チェックをさせる。深沢先輩は、瑞稀が窓を閉めたあとに施錠を確かめるふりをして、一か所だけ開くようにしておいた。ただそれだけのことだったのだ。
「なんで今日まで繰り返されなかったのかもこれでわかるでしょ? 昨日、一昨日は、部長が最後まで残っていた。部長とそれ以外の三年生では立場が逆になってしまう。計画を実行するためには、組み合わせが重要になるってこと。だから今日まで盗まれなかったし、今日こそは盗もうとするだろうとわたしは考えた」
七波は犯人のほうをちらりと見て、それから続けた。
「計画はこう。犯人はいまいったような細工を窓にしておいてから下校する。翌朝、セキュリティが解除された直後を狙って神社のほうから学校に侵入する。美術室に窓から入って像を運び出す。校舎からフェンスまでは、足跡を残さないためにネコを使って運搬する。神社の敷地内に像を隠しておいて、夜になってからこっそり回収する。運の悪いことに、その像は見つかってしまって、午後には美術室に戻ってきてしまったわけだけど」
六時間目に美術の授業を受けていたのは深沢先輩のクラスだったらしいから、それは仰天したことだろう。その像は、自分が盗み出して神社に隠したはずだったのだから。
「犯人がひとりだっていうのは? 共犯の可能性は考えなかったのか?」
「誰との共犯?」
「原とか」
莉帆はまだ自説を捨てきれていなかったらしい。
「共犯者の目的が果たされるまえからいいふらしたりするわけないでしょ。そのおかげでこういう状況になってるわけだし」
こういう状況とは、わたしたちが調査をして、真相を突きとめたという状況だ。瑞稀が発端となって事件が解決するなら、ある意味で大きな功績かもしれない。
「じゃあ、東山先輩は?」
これはわたしがいった。園芸部のネコが使われた事実、裏切られて退部したという話。彼が事件に無関係だとは思えなかった。
「東山先輩はね、農園に足跡を残してもっとも不自然じゃない人物だよ。だって、園芸部なんだから。むしろ犯人は、東山先輩に発見されないためにそうする必要があったといいかえてもいい。ネコが倉庫にあることや、倉庫の鍵がかけられていないことを知っていたというのも、たびたび美術室の外で休憩していた人物が犯人ならなにも不自然じゃないし、園芸部の協力は必要ない」
絵具の蒸気で気分が悪くなったら外の空気を吸いに出るのだといっていた。そのときにネコを見て計画を思いついたということか。
「なぜ盗む必要があったんですか、あのブルータス像を」
仁科先生は、ひどく落ち込んだように額に手を当てていた。自分の監督する生徒が事件を起こしたというのは、これもひとつの裏切りのかたちだろう。
深沢先輩は答えなかった。やはりどこか寂しげな表情をして、ただ立ち尽くしていた。
「動機についても、ある程度までわかっています」七波が代わりに答えた。「あの像を見たとき、気になったんです。土やロープの跡がついていて、あまり大切にされなかったらしいのが。普通、盗み出してまで欲しいものならもっと丁重に扱うはずです。だから、目的はあの像を手に入れることではなく、美術室からなくすことだったのではないか、そう考えました。
ところで、東山先輩は先生に嘘をつかれたことが原因で美術部を辞めたのだといっていました。しかし、仁科先生がこの学校に勤めているのは今年から。その先生とは、前任の先生のことだったはずです。——去年までの美術の先生はどうされたんですか?」
しばらく誰も応えなかった。深沢先輩とヨッシーと仁科先生は知っているようだったけど、互いに誰かがいうのを待っているように見えた。やがて、ヨッシーが観念したように重々しくいった。
「亡くなったよ、中畑先生は。今年の一月に交通事故で」
「そうだったんですか……」
しんみりという七波だったが、これは想定の範囲内だったのだろう。すぐに推理の続きを話しはじめる。
「では、その中畑先生と美術室のブルータス像を結びつけて考えるのは、想像が飛躍しているでしょうか。あの像を目にするたびになにか思い出して辛い思いをするなら、美術室からなくしてしまおう。それが盗み出す動機となったんじゃないでしょうか」
筋道立っている。しかし本人が認めない限りはただの推測でしかない。なのに、深沢先輩はまだ口を開こうとしなかった。
「ブルータス、なあ。世界史は得意じゃないが、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』ならそれなりに知ってる」
国語の先生がいった。脈絡はわからないが、なんらかの意図を含んでいるのは伝わってきた。
「シーザー、歴史の教科書ならカエサル表記だが、彼はローマの独裁者になろうとしていた。ブルータスは共和制の危機を感じて、シーザーを殺す決断をした。彼は高潔で、正義に忠実な男だったから。裏切り者のイメージがひとり歩きしてるブルータスだが、それは本質ではない。表面的に見れば、裏切り、暗殺だったかもしれないが、その目的を知らずにただ悪だと断じることはできない。——わけを話さないなら、ただの窃盗未遂になるし、中畑先生は生徒を裏切った悪い先生のままだ」
「違う、中畑先生は悪くなんか……」
震えた余韻があとを引いた。
「知ってる。だから、知らないみんなにもちゃんと教えてあげような」
深沢先輩はしばらく逡巡して、それから、ぽつり、ぽつり、と話し始めた。
「中畑先生は、生徒思いの先生でした。生徒が美術に興味を持ってくれることがなにより嬉しいとよくいってました。東山くんのことも、彼が将来的に美術系の学校に進学したいと考えているのに、両親から反対されていると知って、先生だけはずっと味方で応援しているから、といったんです。
でも、約束から一年もしないで先生は死んでしまいました。東山くんとの約束が守られなかったのは本当。だけど、嘘をつくつもりなんてあったはずないんです。その交通事故だって、美術部で風景画の練習をするために遠征を企画して、その下見に行った帰りのことで、逆走してきた車を避けたせいだったって……」
なんて理不尽な話だろう。生徒のために尽くした先生は、おそらく誰も事故に巻き込まないために、自らの命を犠牲にしたのだ。それなのに、東山先輩は……。
いや、彼を非難することもできない。ただひとり味方になってくれると思っていた大人が、突然いなくなってしまったのだ。それは大変なショックだったに違いないし、自分が逆境に屈するのを誰かのせいにしてしまいたくなる心境も、十分に理解できる。
「あのブルータス像は、中畑先生のものでした。わたしが入学するよりも前のことで、別の像が壊れてしまったときに、代わりに用意したものだったらしいです。
中畑先生はもともと、彫刻家になろうとしていました。中学の先生はそれまでの繋ぎの仕事だと考えていて。でも、数年で考えが変わって、教えることの大切さに気づいて、それまで生徒をただの道具のようにみなしていた自分を恥じるようになりました。そのころの作品はみんな処分してしまって、残ったのはあのブルータスの石膏像だけだったんです。
あれがずっと学校にあるのは、先生は望まないはずです。だから、壊さなきゃいけないんです。わたしが、優しかった中畑先生のために……」
深沢先輩は両手で顔を覆った。
動機は恩師のためを思った純粋な善意だった。結果は窃盗未遂だった。
この場合、どうすればいいんだろう。できれば許されてほしい。けど、先生たちの立場からすれば、なんのお咎めもなしということにはできないだろうし——。
ん、先生の立場?
「あの、確認なんですけど」わたしはふたりの先生に問いかけた。「あれは本当に学校の備品なんですか?」
狙いどおりにいくとは限らないけど、もしかすると、もしかするかもしれない。
意図を察したのはヨッシーのほうだった。
「ああ、そういうことか。仁科先生、職員室に備品のリストがあると思うから、確認してもらってもいいかな」
「はい、了解です」
頭の上に疑問符を浮かべながらも、仁科先生は駆け足で職員室に向かっていった。
静寂に、ときおり鼻をすする音だけが混じる。いまはなにも語るべきではない気がしたし、おそらく全員がそう感じていたと思う。時の流れがひりついて、深い呼吸が許されない。
二分ほどで仁科先生は戻ってきた。
「ありませんでした。備品リストに、ブルータスの石膏像は」
「そうか。じゃあつまり」ヨッシーは頬を緩めた。「学校のものじゃなくて、中畑先生の私物が学校に置いてあっただけってことだなあ」
学校の備品でないなら、学校のものを盗んだことにはならない。あくまでこれは、深沢先輩と中畑先生の問題で、学校の先生たちには罰する根拠がない。そういう構図になるはずだった。
「仁科先生はどう思う?」
ヨッシーが訊いた。意見を求められて、どぎまぎしながらも、仁科先生は「そうですね」と答えた。
「ぼくのほうから中畑先生のご遺族に連絡を取ってみましょう。返してほしいという要求がなければ、そのときは深沢さんの好きなようにすればいいと思います」
「そういうことだ」ヨッシーは深沢先輩の背中をポンポンと叩いた。「無茶なことするまえに、これからは頼れる大人に相談すること。わかったな?」
いとも簡単な解決だった。学校の備品ではないのだから、遺族の意向しだいでは簡単に手に入れられる。最初からそれがわかっていれば……。
ひとりで抱え込まず、大人に頼ってみる。たったそれだけで、こんな事件を起こす必要はなくなったのだ。
深沢先輩は消え入りそう声で、はい、とだけ小さくいった。
幕引きを見届けて、七波は満足したように身を引いた。「うーん、カンペキぃ!」と背伸びをしながら昇降口から出ていこうとする。
「ちょっと待て」ヨッシーに呼び止められた。「全員、車で送るよ。遅くなっちゃったからな。仁科先生も、それでいいな?」
「え、ええ。もちろん」
気の抜けたような返事だった。もしくは、気落ちしたかのような。
「残念か? ヨッシーとふたりきりじゃなくなって」
莉帆が茶化すと、仁科先生はムキになって否定した。図星であったかはわからないけど、いたずらのバレた子供が弁解しているようで可笑しかった。
気づけば深沢先輩も、目もとを拭って、笑っていた。
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