透きとおった

聖心さくら

太洋と女性

 白波がこのぼくの素足を撫でて、小さな輝きと冷たい感触を奪い去ってしまう。ぶくぶくと泡が波の間に湧き上がっては消えて、また湧き上がる。秋の弱々しい陽ざしが、新鮮な泡から彼らの喜びを奪い去ってしまう。空に五羽のカラスが円を描くように飛んでいる。黒い羽根同士が擦れる雑音は、波の声に奪われて、その五羽の黒いカラスは、このぼくから太陽のわずかばかりの慈悲をも、覆い隠さってしまう。


 真昼、夏ではない。からっとした秋風は、遠くから運んできた金木犀のほのかな香りを、このぼくに送り届けてくれる。こうして波の重さに、ひれ伏した黄金色の砂の上を、このぼくは怪獣のように踏み荒らして、その痕跡を波は、寛大な心持ちで消してくれる。


 見渡す限り誰もいない平日の砂浜。数百メートルと続く波と砂のせめぎ合い。この上なく穏やかでのどかな景色を、このぼくは一線を越えた、ただならぬ心持ちで見ていた。


 今朝、どうも玄関のドアを開けたまま、ここまで来てしまったようだ。アパートで一人暮らしだから、誰も留守番をしていないし、文字通りにドアが開いていて、とても風通しが良い状態になっているのかもしれない。


 読者のみんなは、それが大したことのない、どうせ空いていても親切なお隣さんがドアを閉めてくれるだろうとか、もし泥棒が入ったとしてもそのマスクを被った中腰で歩く小太りの男性は、生まれ持った良心という奇妙なものが発現して、たいした物品を盗むことはないとか、そんな甘くて魅力的な意見を、このぼくの耳元で囁いてくれるだろう。


 確かにこのぼくの目線から見ても、それは起こりえることだけれど、読者が唯一見逃している点を、このぼくが語らないと、全ての楽観的な起こりえることを長々と読者は、このこのぼくに納得させようとするだろうし、ただこれを聞けば必ず納得できる出来事を、読者はいつまでも知らないまま、優雅にも次の作品にページを移すことになるだろう。


 全ての偶然を一つの必然に収束させることを、簡潔にいえばそれは、このぼくの部屋に死体があることだ。


 ついさっき殺してしまった女性の死体が、今も部屋の窓の傍で、のんびりと太陽の沈下とこの世界の沈黙を、濁った瞳孔で眺めている。


 たぶんだけど、玄関のドアからはその寡黙な身体を、はっきりと覗けるわけだから、親切なお隣さんであっても、良心をもった泥棒であっても、一度は部屋に侵入しようと思うがすぐさまに、床一面に広がる深紅の蜘蛛の巣に気が付いて、律儀に腰を抜かす演技でもしてから、そう遠くない警察所にあれこれと通報をするだろう。


 妄想癖のある読者のために先に言っておくが、一人息子のことを心配してはるばる遠くから来た母でもないし、数年間も付き合っていたけど感情のすれ違いによる喧嘩で偶然突き飛ばして、それでたまたま当たり所が悪くて参った恋人でもない。前者ならこのぼくはまさに純朴ながら無慈悲な親不孝になるだろうし、後者ならこのぼくは何者に当たるのだろうか。ただ、どちらでもない事実は先に伝えておきたい。その人は本当に、文字通りに知らない女性だ。


 そしてその人と一緒に、この砂浜に来たかった。こんなにも美しく輝いている地平を見せたかった。真夏みたいに粘り気が強い感覚もなければ、真冬みたいに触れてはならない乾いた感覚もない。ただ秋の曖昧な肌感覚が、それは十月の紅葉がひらりと空を舞う刹那のような、優しく儚い、まるで水面に湧き上がる泡沫の命の宿りのように、どっちつかずで優柔不断だが、いたく心安らかに肩を貸してくれる秋の楚風である。

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