第3話 「先輩、俺の名前は呼んでくれないんですか?」

「高瀬くん、緊急事態です」


 部室の引き戸を開けた瞬間、御影先輩がそう宣言した。


 今日は珍しく小悪魔めいた余裕もなく、背筋をぴんと伸ばして椅子に座って両手を机の上できっちり組んでいる。


 表情もいたって真剣だった。

 昼間に見せる澄ました顔をそのまま部室へ持ち込んできたようである。


「……急にどうしたんですか?」


「うちの部、このままだと廃部になるかもしれない」


 俺は鞄を置く手を止めた。


「原稿ですか」


「……なんで分かるの」


「先輩がその顔をするときは、だいたい締切が絡んでるので」


「絡んでない!……ちょっとしか絡んでないもん」


 絡んでいるらしい。


「そうじゃなくて、もっと単純な話。うちの学校、部員が四人を切ると同好会に格下げなの。同好会になると、この部室も取り上げられる」


「今、四人いますよね」


「……名簿の上ではね」


 俺は指を折って数えてみた。


 御影先輩と俺。

 それから、名簿でしか見たことのない一年生と二年生がひとりずつ。


「朝比奈って人と、百瀬って人でしたっけ」


「うん。すずちゃんは入部届だけ出して、四月から一回も来てない。えみは……まあ、あれは来ないほうが平和かな」


「どういう意味ですか?」


「……来たら分かるよ」


 含みのある言い方だった。


「とにかく、今の四人でぎりぎり。一人でも抜けたら終わりなの」


「抜ける予定の人がいるんですか」


「いないけど、余裕もないの。だから――」


 先輩がぴんと人差し指を立てた。


「――新入部員を獲得します!」


「……今は六月ですけど」


「六月でも入る人は入るの!」


 根拠のない自信である。


「明日から本格的に勧誘を始めるから、今日はその練習」


「練習が必要なんですか」


「必要に決まってるでしょ。私、後輩から少し近寄りがたいと思われてるみたいなの」


「少しで済んでると思ってるんですか」


「高瀬くん?」


 声だけが一段低くなった。


「なんでもないです」


 先輩はこほんと咳払いをして、改めてこちらへ向き直る。


「ねえ高瀬くん。私が勧誘したら、入ってくれる人っていると思う?」


「いないと思います」


「即答!?」


「先輩は告白してきた三年生を八秒で沈めた人ですよ。誰が近づくんですか」


「あ、あれは仕方ないでしょ!付き合えないんだから!」


「断ることじゃなくて、断り方の話をしてるんです」


「ちゃんと謝ったもん!」


「謝罪が五文字だったんですけど」


「充分でしょ!」


 充分ではないと思う。

 ぐっ、と先輩が言葉に詰まる。


 そして数秒後、何かを思いついたようにぱっと顔を上げた。


「……じゃあ練習する」


「……はい?」


「親しみやすい先輩の練習。高瀬くん、付き合って」


「嫌ですけど……」


「部の存続がかかってるんだよ!」


 部の存続を持ち出されると弱い。

 俺は諦めて椅子に座り直した。


「で、何から始めるんですか」


「えっと……まずは、名前」


 先輩が机へ身を乗り出してくる。


「下の名前で呼び合うと、距離がぐっと縮まるらしいから」


 それがどこで仕入れた知識なのかは心当たりしかなかった。

 昨日も今日も机の中へ隠していた、あの付箋だらけの恋愛指南書である。


 もっとも、それを口に出してやる義理はない。


「じゃあ、はい。私のこと、下の名前で呼んでみて」


 先輩が期待に満ちた目でこちらを見上げてくる。

 まったく、こういうところだけは素直な人だ。


「こはる先輩」


 ――即死だった。


 俺が言い終わるより先に先輩の顔が完全に固まる。

 組んでいた手がほどけて、行き場を探すように机の上をさまよい始めた。


 それから頬にじわりと色が差す。


「……い、今の。もう一回」


「こはる先輩」


「~~~~っ!」


 声にならない音を出して先輩が両手で口元を押さえた。

 椅子の上でぐらぐら揺れながら、目だけが忙しなく動いている。


「あ、あの、ごめん。待って。ちょっと待って」


「待ちますけど」


「な、なんでそんな普通に言えるの!?ずるくない!?」


「……先輩が言えって言ったんですよね?」


「言ったけど!こんなに効くと思ってなかったの!」


 自分で仕掛けたくせに自分で沈むのはこの人の伝統芸である。


「先輩」


「……な、なに」


「じゃあ、次は先輩の番ですよね」


 その瞬間動きが止まった。

 さっきまで頬を染めていた赤みが、すうっと引いていく。


 口元に当てていた両手がゆっくりと離れ、膝の上で行き場をなくしたまま重なった。


「呼び合うって言ったじゃないですか。距離が縮まるんでしょう?」


「…………」


「先輩?」


「……む、無理ぃ」


 先輩はそれきり何も言わなくなった。


 怒っているわけでもない。

 いつものように照れて騒いでいるわけでもない。

 机の一点をじっと見つめたままただ黙っている。


 部室が急に広くなったような気がした。


 まだ蛍光灯をつけていないせいか、窓から差し込む光は少しずつ弱まり、机や椅子の輪郭も曖昧になり始めている。


「……一回くらいいいじゃないですか」


 俺はできるだけ軽い調子で言った。


ゆうでいいですよ。高瀬悠なんで」


「……」


「先輩」


「……っ、だ、だから無理だって言ってるでしょ!」


 叫んだ先輩が椅子ごと勢いよく後ろへ下がる。

 その拍子に机の脚へ膝をぶつけた。


「いっ……!」


 先輩はその場でしゃがみ込み、膝を押さえて目に涙を浮かべる。


「大丈夫ですか」


「大丈夫じゃない!全部高瀬くんのせいだからね!」


「理不尽が過ぎませんか」


 俺も椅子から立ち上がり、少し離れたところからしゃがみ込んだ先輩を見る。


「なんで呼べないんですか」


 先輩はしばらく黙っていた。

 膝を押さえたまま、視線だけを床に落としている。


 それから、ぼそりと言った。


「……高瀬くんは、高瀬くんだから」


 答えになっていない。


 俺がそう言い返すより先に先輩は立ち上がった。

 膝をかばいながら逃げるように書棚のほうへ歩いていく。


 結局、俺の名前だけは口にしなかった。

 これ以上つついても何も出ない気配がしたので、俺は話題を変えることにした。


 立ち上がったついでに、部室の壁へ視線をやる。

 黒板の横にはずいぶん前から貼られている一枚の模造紙があった。


 手書きで縦に線が引かれ、年度ごとに名前が並んでいる。

 歴代の部誌に作品を載せた人の一覧らしい。

 インクの色が段ごとに違うので、代々の部員が書き足してきたのだろう。


「先輩、これって寄稿者の一覧ですよね」


「……そうだけど」


「今年の欄、空白なんですけど」


「まだ部誌が出てないからでしょ」


「ああ、なるほど」


 俺は視線を一段上げた。


 去年の欄。

 そこにはたった二つしか名前がない。

 片方は知らない三年生の名前で、もう片方が目に留まった。


 ――宵待よいまちかなた。


「すごい名前ですね」


「……」


「ペンネームですよね、これ。文芸部っぽいというか、なんというか」


「……そうだね」


 返事が短い。

 書棚の前にいる先輩は、こちらに背を向けたまま同じ本を出したり戻したりしている。


「この宵待さんって、俺は一度も見たことないんですけど」


 その背中が止まった。

 手にしていた本が、棚へ戻されないまま宙に浮いている。


 しばらくして、先輩は小さく息を吐いた。


「……卒業したよ」


 それだけ言って手にしていた本を棚へ戻す。


「そうなんですか」


「うん」


 それきり、その名前の話は終わった。

 俺は模造紙から目を離し自分の席へ戻る。

 文芸部員というのは作品の話はしたがるくせに、書いた本人の話になると急に口が重くなる生き物らしい。


 先輩が自分の原稿をなかなか見せたがらないのも、たぶん似たような理由なのだろう。


 ――とはいえ。


 下の名前で呼ぶことをあれほど嫌がった先輩と、本名ではない名前を残した宵待かなた。


 なんとなくその二つがまったく無関係には思えなかった。


「……ねえ、高瀬くん」


 書棚のほうから声がした。


「はい?」


「今年の欄、私はなんて名前で書くと思う?」


 妙な質問だった。


「本名じゃないんですか」


「……そうだね。そうかもね」


 声だけが返ってきて先輩は振り返らなかった。

 俺は部誌のレイアウトを組みながら、さっきの一覧をもう一度思い出す。


 去年の欄には二人分。

 今年の欄はまだ空白。


 この部は毎年ちゃんと誰かが書いていたらしい。

 そして、その中の誰かについて先輩は何かを隠している。


「……ところで先輩」


「なに」


「明日から勧誘するんですよね」


「するよ」


「その調子で大丈夫なんですか」


「その調子ってなによ」


「名前を呼ぶだけで固まってる人が、知らない後輩に話しかけられるのかなと」


「で、できるもん!」


「じゃあ練習の続きをしますか」


「……何の」


「俺の名前を呼ぶ練習です」


 書棚の前に立っていた先輩の肩が分かりやすく跳ねた。


「そ、それは勧誘と関係ないでしょ!」


「下の名前で呼び合うと距離が縮まるって言ったのは先輩ですよ」


「高瀬くんとは、もう充分縮まってるからいいの!」


 言い切ったあと、先輩の動きが止まった。

 こちらも一瞬返事を忘れた。


 先輩は自分が何を言ったのか理解したらしく、ゆっくりと首まで赤くなっていく。


「……今の、忘れて」


「忘れました」


「絶対覚えてるでしょその顔!」


 どこかで聞いたやり取りだった。


 結局その日、俺は先輩の名前を二度呼んだ。

 先輩は俺の名前を一度も呼ばなかった。


 勧誘の練習としては、たぶん全然うまくいっていない。

 それでも、あれだけ俺に名前を呼ばせたがっていた先輩が、どうして「悠」の二文字だけは口にできなかったのか。


 その理由だけが原稿を開いてからも妙に頭に残った。



【あとがき】

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