第六話 午前二時十七分の星空
それから三日後の夜、店を閉めようとしていたところへ、洋太からメッセージが届いた。
『星崎さん。今夜、少しだけ晴れそうです。二時十七分の空、確かめてみませんか』
私は画面に表示された時刻を見た。
午後十一時四十二分。
窓の外にはまだ雲が広がっていたが、海の方角だけは薄く切れ始めている。昼間まで降っていた雨のせいか、町の屋根も石畳も、街灯の光を濡れたまま反射していた
午前二時十七分。
星座時計が、何度直しても止まってしまう時刻だ。
あの時刻の空に何があるのか、これまで誰も確かめようとはしなかったのだろうか。
私は洋太へ返信を打った。
『行きます。どこで待ち合わせますか』
☆
午前一時半を過ぎた頃、洋太は望遠鏡と大きな紙筒を抱えてリュネットへやってきた。
「遅い時間に、すみません」
「私から頼ったようなものですから。ご家族には?」
「話してあります。星崎さんの店で観測するって」
屋上へ出ると、昼間までの雨を含んだ風が頬を冷たく撫でた。町の明かりはほとんど消え、港の灯だけが海面に細長く揺れている。頭上では厚い雲がゆっくりと流れ、その切れ間から星が一つずつ姿を見せ始めていた。
洋太は紙筒から丸めた紙を取り出し、テーブルに広げた。古びた星図だった。端が茶色く変色し、折り目のところには何度も開いた跡が残っている。
「これ、祖父の荷物の中にあったんです」
「お祖父さまの?」
「はい。望遠鏡と一緒に木箱へ入ってました。最初は普通の星図だと思ってたんですけど、昨日、裏に書き込みがあるのに気づいて」
洋太が星図を裏返す。
そこには鉛筆で引かれた細い線と、いくつかの数字が書き込まれていた。線は紙の端に描かれた海岸線らしきものから、沖へ向かって伸びている。
「航路、でしょうか」
「僕もそう思います。祖父は漁師だったから、星を見ながら船の方角を確かめてたのかもしれません」
洋太は星図の隅を指さした。
小さな文字で、日付と時刻がいくつも書かれている。
十一時四十分。
零時五分。
一時三十二分。
そして、その中に一つだけ、見覚えのある数字があった。
二時十七分。
私は思わず、その文字へ顔を近づけた。
「同じ時刻……」
「はい。星座時計が止まる時刻と同じです」
夜風が星図の端を持ち上げた。私は慌てて工具箱を重し代わりに置いた。
「でも、どうして洋太くんのお祖父さまの星図に」
「そこまでは分かりません。祖父が星座時計に関わってたとは聞いてないし、この書き込みがいつのものかも分からないです。ただ――」
洋太は海の方角へ目を向けた。
「同じ時刻に、同じ場所から空を見たら、何か分かるかもしれないと思って」
私は頷いた。
時計の内部ばかりを調べていた。
歯車がどのように動くのか。どの部品が二時十七分で止めているのか。誰が、その仕掛けを加えたのか。
けれど、星座時計という名前のとおり、この時計はもともと空を見るために作られたものだ。
時計だけを見ていても、分からないことがあるのかもしれない。
「洋太くんは、二時十七分の空に何が見えると思いますか」
「今の季節なら、南の空に夏の星座が見えます。でも、百年前と今では、同じ日付でも星の位置が完全に同じとは限りません」
「百年で、大きく変わるんですか」
「目で見てすぐ分かるほどではないです。でも、星座時計が作られた日の正確な日付が分かれば、もう少し絞れると思います」
洋太は自分のスマートフォンに保存した星図を開いた。
「それに、僕が気になってるのは、どの星が見えるかより、どの方角を示していたかなんです」
「方角?」
「祖父は、星を見て天気だけじゃなく、船の位置も確かめていたはずです。灯台から見た星と、海の上から見た星。両方が分かれば、船がどのあたりにいるのか、目安にはできたと思います」
私は旧灯台資料館で星座時計に触れたときの記憶を思い出した。
雨に濡れた床。
揺れるランプ。
何かを必死に止めようとする手。
星が見えないほどの嵐の中で、八重たちは何をしようとしていたのだろう。
「雨の夜だったんです」
「え?」
「時計に触れたときに見えた記憶。灯台の外は、激しい雨でした」
私は自分に見える「時間の記憶」のことを、まだ洋太に話していなかった。
口にしたあとで、しまったと思った。
洋太は不思議そうに私を見たが、笑ったり、詳しく問い詰めたりはしなかった。
「雨だったなら、星は見えなかったんですよね」
「たぶん」
「じゃあ、星座時計を使って、見えない星の位置を確かめようとしたのかもしれません」
私は顔を上げた。
「見えない星の位置を?」
「星が雲に隠れていても、時計が正しく動いていれば、その時刻にどの星がどの方角にあるかは分かりますよね。星座時計の星図盤が、実際の空と同じように動くなら」
灯台資料館で見た、十二星座が刻まれた文字盤と、中央の天球儀。
あれは飾りではない。
地球の自転と季節ごとの星の位置を、歯車で表す機械。
もし、あの時計が船の航行を助けるために使われていたのだとしたら。
「星が出るまで待って、という言葉……」
「誰かが言ったんですか」
「うん。時計の中に残っていた、昔の声が」
今度は、はっきりと答えた。
洋太は驚いたように瞬きをしたが、それでも冗談だとは言わなかった。
「その人は、時計を使うのを止めたかったんでしょうか」
「分からない。でも、何かを急いで動かそうとしている人を、止めようとしていた気がする」
「星が見えないのに、時計だけを頼りにするのは危ないって思ったのかもしれませんね」
その言葉に、胸の奥が小さく痛んだ。
見えないものを、機械の数字だけで決める。
都会の修理会社でも、似たようなことがあった。
決められた作業時間。依頼票に記された故障箇所。
時計の音を聞くより先に、交換する部品が決められていた。
数字や記録が間違っているわけではない。
けれど、それだけでは分からないものもある。
「灯里さん」
洋太の声で、私は我に返った。
「雲、切れてきました」
海の上に広がっていた雲の隙間から、濃紺の夜空が覗いている。
二人で望遠鏡を屋上の端へ運んだ。
洋太は慣れた手つきで三脚を調整し、鏡筒を南東の空へ向ける。私は星図が風で飛ばないよう押さえながら、腕時計を確認した。
午前二時十分。
町は眠りにつき、通りを走る車の音もしない。
聞こえるのは、遠くで繰り返す波の音と、屋上の手すりを抜けていく風の音だけだった。
屋根裏からついてきたのか、給水塔の影に白い小さな姿が見えた。
ルネは何も言わず、海の上の空を見つめている。
「見えました」
望遠鏡を覗いていた洋太が、小さく声を上げた。
「星崎さん、ここです」
私は望遠鏡を代わってもらった。
レンズの向こうに、暗い空と小さな星の集まりが見えた。星は触れられそうなほど鮮明なのに、その光がここへ届くまでには、長い時間がかかっている。
「どの星ですか」
「みなみのうお座のフォーマルハウトです。少し時期が早いので、低い位置ですけど」
洋太は星図の線を指で追った。
「秋に目立つ星です。でも、今の時間なら、海の近くに見えます」
私は望遠鏡から目を離し、実際の空を見た。
肉眼ではどれがその星なのか、すぐには分からない。
けれど星図の上で、洋太が示した方角は、旧灯台から沖へ伸びる線とほとんど重なっていた。
「お祖父さまの線も、同じ方向ですね」
「はい。たぶん、この線は特定の星を示しているんじゃありません」
洋太は星図の上へ指を置いた。
「星を目印にして、その先の海を示してるんだと思います」
私は息を止めた。
星座時計が示していたのは、星だけではなかった。
星を通して、その先にある海を見ようとしていた。
百年前の嵐の夜、灯台にいた人々は、帰ってこない船の位置を探していたのではないだろうか。
星の見えない空の下で、星座時計だけを頼りに。
「二時十七分です」
洋太が言った。
腕時計の数字が切り替わる。
その瞬間、雲の切れ間から現れていた星が、再び薄い雲に覆われた。
光は消えたのではない。ただ、今いる場所から見えなくなっただけだ。
給水塔の影で、ルネが口を開いた。
「見えぬからとて、星がなくなるわけではない」
その声は、洋太には聞こえていないようだった。
「でも、見えない星を機械だけで追えば、間違えることもある」
私が呟くと、ルネは小さな目を細めた。
「だからこそ、人は待つのだ」
「星が出るまで?」
「星だけではない。己の目で確かめられる時まで、な」
ルネはそれだけ言うと、白い尾を揺らし、暗がりの中へ姿を消した。
「星崎さん?」
「ううん。少し、分かった気がしたんです」
私はもう一度、雲に隠れた空を見た。
二時十七分という時刻は、事故が起きた時刻なのかもしれない。
時計を止めた時刻なのかもしれない。
けれど、それだけではない。
その時刻に、灯台から見ようとしていた方角があった。
そして、その先には、誰かが帰りを待っていた船があったのかもしれない。
「洋太くん。この星図、少し借りてもいいですか」
「もちろんです」
「七海さんにも見てもらいます。百年前の船の記録や、星座時計が作られた正確な日付が分かれば、何か繋がるかもしれない」
洋太は嬉しそうに頷いた。
「僕にも、手伝えることがあったんですね」
「洋太くんが気づいてくれなかったら、私は時計の中ばかり見ていました」
私は星図を丁寧に巻き直した。
「ありがとう。洋太くんに頼ってよかったです」
洋太は少し照れたように俯いた。
「僕も、星が好きでよかったです」
雲は厚くなり、空に見えていた星はほとんど隠れていた。
それでも先ほどまで星があった場所を、私は見失わなかった。
見えなくなっても、そこにあるもの。
止まっていても、その中に残っている時間。
その二つは、どこか似ているように思えた。
階段を下りる前、私は旧灯台のある丘へ目を向けた。暗い町並みの向こうに、灯台の白い輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
百年前の二時十七分。
そこで何が起きたのかは、まだ分からない。
けれど星座時計が待っているものへ、ほんの少しだけ近づけた気がした。
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