第13話 完璧なメイドは、休めない



朝。


ユウトが食堂へ入った時には、すでに朝食の準備が終わっていた。


焼きたてのパン。スープ。サラダ。温かい紅茶。


窓は磨かれ、床には埃ひとつない。廊下に置かれていた雑誌まで、角を揃えて積み直されている。


「……今日、俺寝坊した?」


「していないわ」


リナが何事もなかったように答えた。


深紫色のチャイナ風メイド服。黒髪のポニーテール。眼鏡の奥の目は、朝から完全に仕事モードである。


「洗濯は終了。二階の掃除も終わったわ。食材の在庫も確認したから、不足分は――」


《補足》


KAINの声が割り込んだ。


《本日のリナ様の予定作業は、すべて完了しています》


リナの言葉が止まった。


サッちゃんだけが、ぱっと顔を明るくする。


「完遂ですっ!」


「……そうね」


リナは眼鏡を押し上げ、食堂を見回した。


「では、明日の作業を前倒しして――」


「今日は休めば?」


ユウトが言った。


リナがこちらを見る。


「……休む?」


「うん」


「なぜ?」


「全部終わったんだろ?」


「だから次の仕事を」


「休んで」


数秒。


リナは本気で困った顔をした。


サッちゃんが勢いよく手を上げる。


「リナ、本日は休暇任務ですっ!」


「休暇を任務にしないで」


「では、休息作戦を――」


「もっと悪くなったわ」


ユウトは笑った。


どうやら完璧なメイドは、何もしないことだけが苦手らしい。


◆


午前十時。


リナはリビングのソファに座っていた。


手元には本。


テーブルには紅茶。


誰がどう見ても休暇中である。


一ページめくる。


三十秒後。


立った。


「リナ」


「何?」


「どこ行くの?」


「クッションがずれているわ」


「休んで」


「直すだけよ」


クッションを直して座る。


一分後。


また立つ。


「今度は?」


「窓に指紋があるわ」


「休んで」


「気になるのよ」


「掃除してる人の台詞じゃない」


窓を拭いて戻る。


今度はユウトを見た。


「ユウトさん。シャツのボタンが緩んでいるわ」


「今日は放っといて」


「取れてからでは遅いでしょう」


「休んで」


リナは黙って座った。


横でサッちゃんが真剣な顔をしている。


「休暇とは、非常に高難度なのですねっ!」


「サッちゃんまでそう思わなくていい」


「リナは座っているだけで三件の作業を発見しました!」


「数えていたの?」


「はいっ!」


リナが額に手を当てた。


「あなたたち、私を観察するのをやめなさい」


「休めているか確認していますっ!」


「確認されている時点で休まらないわ」


ユウトは吹き出した。


◆


昼前。


ユウトは方針を変えた。


「リナ。今日は俺とお茶飲もう」


リナの動きが止まる。


「相談?」


「ない」


「依頼?」


「ない」


「確認事項?」


「ない」


リナは眉を寄せた。


「では、何のために?」


「別に何のためでもないよ」


それが一番理解しにくいらしい。


少し考えた末、リナは向かいのソファへ座った。


「……わかったわ」


ユウトはキッチンへ声をかける。


「サッちゃん、お茶お願い」


「了解しましたっ!」


返事と同時に、ばたばたと足音がした。


「走るなよ!」


「はいっ!」


足音だけ少し遅くなる。


リナが小さく息を吐いた。


「あなたたち、毎日これなの?」


「最近はだいたい」


「……そう」


「嫌そうだな」


「いいえ」


リナは紅茶を一口飲む。


「悪くはないわ」


珍しい返事だった。


しばらく、二人で何でもない話をした。


学校のこと。


朝比奈邸のこと。


最近、サッちゃんが少しずつ変わってきたこと。


「この間も、荷物を勝手に持たなかったんだ」


「あの子が?」


リナの目元がわずかに柔らかくなる。


「ちゃんと聞いてからにしてた」


「……変わったわね」


「昔はそんなにひどかったの?」


「今より一直線だったわ」


「今でも十分一直線だけど」


「そうね」


リナの口元が少し緩んだ。


「リナって、ずっとサッちゃんの面倒見てた?」


「面倒を見たつもりはないわ」


「でも?」


「放っておくと、何をするかわからなかっただけ」


キッチンから声が飛んできた。


「聞こえていますっ!」


リナは肩を小さく揺らした。


「ほらね」


◆


数分後。


サッちゃんがお茶とお菓子を持って戻ってきた。


その腕には、なぜか一つのクッションまで抱えられている。


「リナ! 休息環境を改善しますっ!」


「何それ」


サッちゃんが差し出したのは、丸いウサギを模したクッションだった。


クリーム色の身体。


長い耳。


小さな黒い目。


妙に間の抜けた顔をしている。


リナの動きが止まった。


「……」


ユウトがリナを見る。


「どうした?」


「何でもないわ」


「めちゃくちゃ見てるけど」


「見ていない」


サッちゃんがクッションを差し出す。


「どうぞっ!」


「必要ないわ」


「では片づけますっ!」


サッちゃんが引っ込めようとした。


その瞬間。


リナの手が動いた。


ウサギの耳を、つかんだ。


三人とも止まった。


「……」


「……」


リナはゆっくりと手を離す。


「何?」


「まだ何も言ってないけど」


「顔に書いてあるわ」


サッちゃんの青い瞳が輝いた。


「リナ、このクッションがお好きなのですかっ!」


「違うわ」


「今、耳をつかみましたっ!」


「落ちそうだったからよ」


「わたしが持っていましたっ!」


リナは眼鏡を押し上げた。


「細かいことを気にしすぎよ」


「リナが言う?」


ユウトが聞く。


睨まれた。


◆


数分後。


リナはソファに座っていた。


膝の上には、丸いウサギのクッション。


しっかり抱えている。


「……姿勢保持のためよ」


誰も聞いていない。


「そうなんだ」


ユウトが言う。


「ええ」


サッちゃんは少し離れたところから感動したように見ていた。


「リナが休めていますっ!」


確かに、さっきから一度も立っていない。


「新記録じゃん」


「記録しないで」


サッちゃんはさらに毛布を持ってこようとした。


「冷え対策を――」


「いらないわ」


「では足台を――」


「いらない」


「読書時のページめくりを――」


「自分でできる」


「飲み物を口元まで――」


「介護ではないのよ」


ユウトが吹き出した。


「サッちゃん、やりすぎ」


サッちゃんの手が止まる。


「あ」


少し考えたあと、持っていた毛布を戻した。


「……全部行うのは違いますね」


「そういうこと」


ユウトが言う。


サッちゃんは、リナの膝に残ったウサギだけを見る。


「これは?」


リナは即答した。


「置いていきなさい」


サッちゃんの口元が緩む。


「了解しましたっ!」


「その顔をやめなさい」


「何も言っていませんっ!」


「顔に書いてあるわ」


◆


夕方。


リビングには珍しく静かな時間が流れていた。


リナはソファに座り、本を読んでいる。


膝には、まだウサギのクッション。


ユウトは向かいの椅子から、その様子を眺めていた。


普段なら、何かしら仕事を見つけている頃だ。


今日はページをめくり、紅茶を飲み、それだけ。


「リナ」


「何?」


「休めてるじゃん」


「そうね」


「クッションのおかげ?」


リナは本から目を上げた。


「関係ないわ」


「そっか」


ユウトはそれ以上言わなかった。


ただ。


リナの腕は、ウサギを抱いたままだった。


そこへサッちゃんが戻ってくる。


「リナ、退屈ではありませんかっ!」


「少しね」


サッちゃんの表情が明るくなった。


「では仕事を――」


「いらないわ」


「えっ」


「退屈だからといって、何かしなければならないわけではないでしょう」


サッちゃんが目を丸くする。


「……なるほど」


ユウトが笑う。


「今度はリナが教える側だな」


「教えているつもりはないわ」


リナは紅茶を飲み、少しだけ背中をソファへ預けた。


「まあ」


一拍。


「たまには、悪くないわね」


サッちゃんがぱっと笑う。


「休暇成功ですっ!」


「声が大きい」


「すみませんっ!」


「それも大きいわ」


その時。


《報告》


KAINの声が響いた。


《リナ様、本日の連続休息時間は三時間四十八分です》


リナの表情が止まった。


「KAIN」


《はい》


「誰がその記録を取るよう設定したの?」


サッちゃんが元気よく手を上げる。


「わたしですっ!」


リナは静かに本を閉じた。


「サッちゃん」


「はいっ!」


「少し話しましょうか」


笑顔だった。


ただし、目が笑っていない。


サッちゃんが一歩下がる。


「なぜでしょうっ!」


リナはゆっくり立ち上がった。


膝のウサギも、そのまま抱えている。


ユウトが思わず指さす。


「リナ、それ持っていくんだ?」


リナが止まった。


「……必要だからよ」


「何に?」


眼鏡の奥の目が細くなる。


「ユウトさんも、少し話しましょうか」


「俺まで!?」


朝比奈邸に、ユウトとサッちゃんの声が響いた。


その中心で。


完璧なメイドは、丸いウサギだけは最後まで手放さなかった。

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