未検査の樽、規格外の砂、不在の発注記録――「手順と記録」が暴く決壊の真実

「先生、樽に検査の印がありません」


トトの声が、記録小屋に響いた。


夜更けの灯りが、棚に並ぶ樽の影を長く伸ばしている。


灯りに照らされた樽の木肌に、指先を這わせている。


ケンジは焼き印の照合表から顔を上げた。


「印がない、とは」


「本体に使われた減水剤の樽、全部で七つあります。でも検査済みの焼き印があるのは六つだけです」


「残り一つは」


「それが、七番です。決壊した区画に使われた樽と、同じ番号です」


「未検査のまま、現場に回されたということか」


「はい……普通なら、検査を通さないと本体には使えないはずですよね」


「使えない。手順書にもそう書いてある」


「でも実際は、使われてました。誰かが、印を飛ばして回したことになります」


「飛ばしたのが手違いか、故意か。そこはまだ分からない」


「手違いだったら、まだ救いがあるってことですか」


「救いというより、罪の重さが違う。だから急いで決めつけるな」


「分かりました……でも先生、六つには全部ちゃんと印があるんです。七番だけないのって、変じゃないですか」


「変だ。だからこそ、お前が見つけたのは大きい」


「村長には、まだ言うなよ。証拠が一つじゃ足りない」


「分かってます……あの、先生。皆、もう疲れてます。証拠なんかいいから終わりにしろって」


「誰に言われた」


「今朝、水汲みのところで三人くらいに。もう関わるな、危ないぞって」


「そう言われても、調べるのをやめるわけにはいかない」


「僕もそう思います。だから、他の樽も全部数え直します」


「頼む。数字は、疲れても嘘をつかない」


「先生、僕が見つけたこと、間違ってたら……怖いです」


「間違っていたら、間違っていたと言えばいい。恥じることじゃない」


「そう言ってもらえると、少し楽になります」


トトは樽を一つずつ棚に戻し、灯りを吹き消した。



「これを見てくれ」


バルガスが崩れた断面から取り出した石片を、ケンジの前に置いた。


指先でつまんだ粒が、灯りの下で灰色に光る。


ざらついた感触が、爪の先にまで伝わってくる。


崩れた区画の周囲には、まだ湿った土の匂いが立ち込めていた。


「これが、何か分かるか」


「粒が大きいな。うちの灰より粗い」


「そうだ。村の灰はもっと細かい。これは違う場所の砂だ」


「違う場所の、砂……」


「わしは石工だ。石の粒の顔くらい、見りゃ分かる。これは川原の砂じゃない、山向こうの砂だ」


「山向こうというと、王都の方角か」


「かもしれん。断言はできんが、少なくともうちの村の材料じゃない」


「粒が粗いと、何がまずいんだ。素人にも分かるように言ってくれ」


「粗い粒は隙間ができやすい。隙間があれば、そこに水が入り込んで弱くなる」


「なるほどな。粒の大きさひとつで、強さが変わるってわけか」


「そのとおりだ。均一な細かさこそが命綱になる」


「その証言、記録してもいいか」


「ああ、構わん。だがな、ケンジ」


「なんだ」


「村の連中は、もう聞く耳を持ってないぞ。今日も三人に囲まれて、いい加減にしろと言われた」


「聞いてる。だからこそ、証拠を積む」


「積んでどうする。あの澄まし顔は、また言い訳するだけじゃないのか」


「言い訳できない形にする。それが今日やることだ」


「わしにできることがあれば、いつでも言え」


「もう十分だ。あんたの目が、動かぬ証拠になった」


バルガスは石片をケンジの手のひらに握らせ、無言でうなずいた。



「発注の記録が、ありません」


リリアーナが、書状の束を机に広げた。


指先が、封蝋の跡をなぞる。


紙の端がわずかに震え、蝋の欠片が机に落ちた。


窓から差し込む朝の光が、書状の文字を白く浮かび上がらせている。


「伯爵家に届いている王室からの正式発注書、全部確認しました。減水剤という品目自体が、どこにも出てきません」


「クラインが来る前に、王室から発注があった形跡もない、ということか」


「はい。彼が来てから初めて、あの樽の存在が出てきます」


「王室の贈り物にしては、手順が変だな」


「変です。本当に王室が発注したものなら、必ず伯爵家を経由する決まりですから」


「経由していない」


「経由していません。つまり……」


「つまり、あれはクライン個人が持ち込んだものだ」


「王室の名を借りた、彼だけの判断ということになります」


「その線、伯爵家の記録だけで言い切れるのか。見落としはないか」


「三度確認しました。写しも取ってあります。抜けているのはあの一件だけです」


「そこまで言い切っていいのか。あんたにとっては、王室を疑う話になる」


「怖くないと言えば嘘になります。でも、記録が語っているなら、私はそれに従います」


「その姿勢、ありがたい」


「役に立ちましたか、私」


「十分すぎるほどに」


「よかった……数えることしかできない私でも、ちゃんと届いているんですね」


「届いてる。今度も、ちゃんと届いた」


「私、まだお役に立てますか」


「これで終わりじゃない。次も頼む」


「はい……次も、数えます」


リリアーナは書状を丁寧に束ね直し、胸に抱えた。



翌朝、村長の家の前に四人が並んだ。


集まった村人の視線が、値踏みするように四人を見ていた。


土埃の混じる風が、四人の足元を吹き抜けていく。


「村長、証拠が揃いました」


ケンジが、三つの物証を順に並べる。


記録板と石片と書状が、朝日の下に横一列に並んだ。


「未検査のまま回された樽。村の灰と違う粒の砂。そして、王室の正式な発注記録の不在」


「本当か、それは」


村長の眉間が、深く寄る。


「トトが樽の焼き印を全部照合しました。バルガスが断面の砂を見分けました。リリアーナ様が伯爵家の記録を確認しました」


「先生一人の考えじゃない、ってことか」


「俺一人なら、状況証拠で終わっていた。三人がそれぞれの持ち場で見つけたから、繋がった」


「王室の使者を、村ぐるみで告発するっていうのか……そんなことをして、後が恐ろしくないのか」


村人の一人が、震える声で割り込んだ。


「恐ろしい。だが、黙っていたら次はまた同じことが起きる」


「証拠とやらが、本当に確かなのか。俺たちには判断できん」


別の村人が、腕を組んだまま言った。


「だから、言葉だけで信じろとは言わない」


「じゃあ、どうしろってんだ」


「もう関わりたくない。王室に睨まれたら、村ごと潰されるかもしれん」


「睨まれるとしたら、黙って壊れた堰を放っておいた時だ」


「屁理屈を言うな……」


「屁理屈じゃない。次の襲撃まで、もう四十日もない。壁がなければ、村ごと呑まれる」


村人たちのざわめきが、一段と大きくなった。


「それで、どうするつもりなんだ、先生」


村長が、絞り出すように問う。


「証拠は揃った。だが、これを突きつけて終わりにはしない」


「終わりにしない、とは」


「同じ条件で、もう一度作ってみせる」


「もう一度……本体を、もう一回打つ気か」


「見せなければ、証拠だけでは信じてもらえない相手だ」


「またあんな決壊が起きたら、次は取り返しがつかんぞ」


村長の声が、低く沈んだ。


「今度は同じ条件で、正規の材料だけを使う。壊れないことを、この目で見せる」


村長は、しばらく黙ったまま四人を見比べていた。


「……分かった。もう一度だけ、機会をやろう」


その声に、村人たちのざわめきが小さく揺れた。


誰かが小さく息を吐き、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


ケンジは記録板を握り直し、四人の顔を順に見た。


「今度こそ、証明する」

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