砂糖と樽の証言――七番だけが甘い理由
「甘い……?」
ケンジは供試体に鼻を近づけたまま、しばらく動きを止めた。
割れた断面から漂うのは、土の匂いだけではない。
微かに、蜜のような甘さが混じっている。
湿った断面の奥から、じわりと立ち上る匂いだった。
「先生、どうしたんですか」
「トト、この匂い分かるか。嗅いでみてくれ」
トトが恐る恐る顔を近づける。
「……甘い、です。確かに」
「土だけの匂いじゃないよな」
「はい。なんていうか、蜜みたいな……こんなの初めて嗅ぎました」
「気のせいだと思うか」
「思いません。二度嗅いでも同じです。むしろはっきりしてきました」
「花の蜜と、砂糖水と、どっちに近い」
「砂糖水です。もっと粘っこい感じもしますけど」
「粘っこい、か。覚えといてくれ」
「他の六つは?」
「嗅いでませんでした。すぐ嗅いできます」
トトは残りの供試体を次々と鼻先に運んだ。
一つ、また一つと、鼻を寄せては首を振る。
「六つとも、匂いません。土の匂いだけです」
「本当に六つ全部か。もう一度だけ確かめてくれないか」
「はい……もう一度、やります」
トトは同じ手順を最初からやり直し、木箱の端から順に確かめていく。
「変わりません。甘いのはやっぱり、あの一つだけです」
「甘いのはこれ一つだけか」
「一つだけです。間違いありません。何度も嗅ぎ直しました」
「触った感触は。他の六つと比べてどうだ」
「六つはさらっとしてます。あれだけべたつくというか、指に残る感じがします」
ケンジは断面を睨んだまま、腕を組んだ。
指先がまだ、あの湿った黒さの感触を覚えている。
「糖分だ。糖は、コンクリートの硬化を止める」
「止める、って……砂糖が混ざってたってことですか?」
「厳密には違う。だが働きは似てる。水と反応するはずの粒の表面を、糖の膜が覆っちまうんだ」
「膜って、そんな薄いものが邪魔になるんですか」
「薄くても、覆われたら反応は止まる。卵の殻に薄皮が張ってると、殻自体は割れても中身が出てこないだろ。あれと同じだ」
「殻は割れてるのに、中身が守られてるってことですか」
「そう。表面だけ固まって、芯が湿ったままなのはそのせいだ」
「じゃあ、この供試体だけ、何か特別なものが混じってたってことですよね」
「意図的かどうかは分からない。だが結果はそうなってる」
「意図的じゃなかったら、何だっていうんです」
「それを、今から確かめる。トト、記録板を見せてくれ。この供試体、どの桶から取った」
「ちょっと待ってください、木札はどこに……あ、ありました」
トトは首から下げた木札をめくり、指でなぞった。
爪の先が、細かい文字の列を追っていく。
「七番の桶です。七番は……」
言葉が止まる。
トトの指が、木札の上で固まった。
「トト、どうした。読んでくれ」
「王室特製減水剤を混ぜた区画です」
「もう一度、字を確かめてくれ。見間違いじゃないな」
「見間違いじゃないです。ちゃんと『王室特製』って書いてあります」
沈黙が落ちた。
風の音だけが、供試体置き場を通り過ぎていく。
「他の六つは、普通の配合だったか」
「はい。減水剤なしの、いつもの配合です」
「もう一度言ってくれ。念のためだ」
「六つは通常配合、甘い匂いがするのは七番だけ。七番は減水剤を使った区画です」
「一致してる。甘い匂いがするのは、減水剤を使った区画だけだ」
「偶然、じゃないですよね」
「偶然にしちゃ、出来すぎてる」
「状況証拠、ってやつですか」
「状況証拠だ。でも、名前がついた」
「名前……クラインさん、ってことですか」
「まだそこまでは言えない。樽の中身に、だ」
「樽の中身って、確かめる方法あるんですか」
「本人にぶつける。それが一番早い」
「先生、一人で行くんですか。私も行きます」
「記録板は持ってきてくれ。証拠は数字で見せた方が早い」
◇
視察団の天幕に、クラインは静かに座っていた。
ケンジが割れた供試体を差し出すと、彼はちらりと目を落とすだけだった。
「拝見しましょう。……ふむ、確かに柔らかい」
「芯まで固まってません。この桶だけ、王室特製の減水剤を使いました」
「それで?」
「糖分が混入していれば、硬化を阻害します。この症状と一致する」
クラインは供試体を指で軽く押し、笑みを浮かべた。
「田舎の窯の癖でしょう。よくあることです」
「癖ではありません。他の六つは正常に固まっています。この一つだけ」
「配合の誤差というのは、どんな現場にもあるものですよ、ハタノ殿」
「誤差なら、なぜこの桶だけ一致する。減水剤を使った区画とだけ」
「偶然、ということもあります」
「七つ中一つが、狙ったみたいに同じ区画で偶然起きると?」
「確率の話をしているのではありませんよ」
「確率の話をしているんです。それも、かなり低い確率の」
「では何の話だと?」
「誰が、何のためにこの樽を寄越したか、って話です」
クラインの眉がわずかに動いた。
「証拠もなく王室の使者を疑うのか、と言いたいんですか」
「察しがいい」
「では逆に伺いますが、あなたの窯の火加減や配合の手癖を、私が疑ったらどうします」
「疑うなら調べればいい。俺は隠してない」
「本体の打設を、三日待ってください。他の供試体でも検証します」
「なぜ三日も」
「同じ条件で作った供試体をもう一度並べて、匂いと硬さを比べるためです。今回の一つだけでは足りない」
「一つでは足りない、その通りです。だからこそ、三日で確かめられる」
「明日、堰本体は打設に入ります。今さら延期はできません」
「三日で村が滅ぶわけじゃない。でも、欠陥のある配合で打てば、堰は保たない」
「保たないと決めつけるのは、まだ早いのでは?」
「早くない。あなたの目の前にある供試体が、答えです」
クラインはしばらく黙り、そして立ち上がった。
外套の裾が、天幕の薄明かりの中で揺れる。
「では、こうしましょう。あなたの配合表と手順書一式を、私が王都に持ち帰る」
「……それと?」
「それで、この件は不問にします。誰も、あなたの窯の癖を咎めない」
周りに集まっていた村人たちが、ざわめいた。
バルガスが低く唸る。
トトの手から、木札が滑り落ちそうになった。
「先生、それ、どういう意味ですか」
「つまり、技術を差し出せば見逃すと」
「差し出す、は語弊があります。献上、です」
「献上と略奪の違いは、誰が決めるんです」
「王室です。他に誰がいるというんですか」
ケンジはクラインをまっすぐ見た。
「渡すのは手順だけだ」
「……」
「誠実さまでは渡さない。あなたの言うことは、信用できない」
村人たちの間から、小さなどよめきが広がった。
クラインの口元から、笑みが消えていた。
「残念です。あなたなら分かってくれると思っていた」
「分かってほしいのはこっちだ。誰が、何のために混ぜたのか」
クラインは答えなかった。
代わりに、深く息を吐いた。
「明日、堰本体は予定通り打ちます。王命ですので」
そう言い残し、随員を連れて背を向ける。
天幕の外の風が、彼の外套を大きく揺らした。
「先生……」
トトの声が震えている。
バルガスがケンジの肩を強く掴んだ。
「……あいつ、逃がすな」
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