第二十九話 海をなめてはいけませんよ

 前日。


 アリスはリリアと一緒に、ゾフィーの道場へ菓子を持って遊びに行っていた。


 そこで紹介されたのが、エルフの少女フィナとルシェ、人間の少年トーマと少女ミナだった。


 四人とも今では班長を任されているらしい。


 けれど、アリスの目には普通の若者にしか見えなかった。


「これ、おいしいです!」


「もう一ついただいてもいいですか?」


 菓子を嬉しそうに選び、海の話をせがんでくる。


 翌朝。


 港へ向かいながら、アリスは思い出して笑った。


「昨日の皆さん、可愛かったですね」


「お菓子を選んでいる時など、とても楽しそうでした」


 リリアも頷く。


 その評価を、アリスは今日のうちに少しだけ改めることになる。


     ◇


 港へ着くと、景色がすでに変わっていた。


 船籍札を確認する職員。


 入出港する乗員を数える係。


 新しく作られた貨物検査場。


 停泊区画には大きな番号札まで立てられている。


「……本当に、もう始まっているんですね」


 昨日出した案が、すでに形になり始めていた。


 その中心の一角では、セレナが大きな板へ港の案内図を描いている。


「荷物はここ。人はこっち。船はこの線」


 筆が一本動く。


 その周囲にいた五人が一斉に散った。


「第三埠頭はこちらへ変更!」


「看板屋へ、この図をそのまま!」


「検査場の入口を空けて!」


「セレナ……すごいですね」


「線を整理しているだけ」


 本人だけは、いつも通りだった。


 少し離れた場所では、ミレーヌが港の上役たちへ問題点を指摘し、スレイヤが若い職員へ次々と仕事を割り振っている。


 ナターシャの配下らしい者たちは、商人や船主から情報を集めていた。


 さらに向こうにはゾフィー。


 昨日会った四人もいる。


 アリスが手を振ると、四人も笑顔で振り返した。


(やっぱり可愛いですね)


 そのさらに先。


 役人たちへ指示を出しているイシュランを見つけた。


 歩いている。


 顔色も悪くない。


(よかった……)


 忙しそうなので待とうと思ったが、先にイシュランがアリスへ気づいた。


「アリス」


「陛下」


 こちらへ歩いてくる。


「お怪我の方は?」


「君のおかげで、もう問題ない」


「ですが、元をたどれば私を庇ってお怪我を……申し訳ありません」


 イシュランは首を振った。


「君に何かあった方が、私は困る」


 そして、いつもの穏やかな声で続ける。


「アリスが無事で、本当によかった」


「……」


 胸の奥が、急に苦しくなった。


(息苦しいです)


(昨日、何か変なものを食べたでしょうか?)


 隣を見ると、リリアがなぜか少しだけ笑っていた。


「何ですか?」


「何もございません」


 そこへウルタとエリナも合流する。


 アリスはエリナを見た。


「エリナ」


「はい?」


「ウルタを救ったのは、あなたですよ」


 エリナが目を瞬く。


「何年も、そばにいたのでしょう?」


「ですが、私は……」


「もっと胸を張ってください」


 ウルタも黙ってエリナを見る。


 エリナが何か言おうとした、そのときだった。


「ふざけるな!」


 港の一角から怒鳴り声が響いた。


 全員が振り返る。


 数人の男が、船籍確認をしていた職員ともめていた。


「こんな面倒なもの、やってられるか!」


「規則です。確認が済むまで出港は――」


「邪魔だ!」


 男の手が光った。


「危ない!」


 爆発。


 職員が吹き飛ばされる。


 アリスの表情から笑みが消えた。


「怪我人を先に!」


 リリアとエリナがすぐに走る。


 犯人たちは小舟へ飛び乗った。


 船尾へ水魔法を叩きつける。


 小舟が猛烈な勢いで港を飛び出していった。


「逃がしません!」


 アリスは波打ち際へ走った。


 沖にいたサルカへ声をかける。


「お願い!」


 サルカが身体を寄せる。


 アリスが飛び乗る。


 その隣へゾフィー。


 さらにウルタ。


 そして。


「私たちも行きます!」


 フィナ、ルシェ、トーマ、ミナまで、それぞれ別のサルカへ乗った。


「皆さん、乗れるんですか!?」


「昨日、ゾフィー様に教えていただきました!」


「昨日ですか!?」


 そこへイシュランが来る。


 アリスの乗るサルカへ、そのまま乗り込んだ。


「陛下!?」


「追うんだろう?」


「はい!」


「なら行こう」


 アリスは答える暇もなく、サルカへ合図を送った。


 海面が弾ける。


 サルカたちが一斉に加速した。


     ◇


 小舟も速かった。


 船尾から水魔法を噴き出し、白い飛沫を長く引きながら海面を跳ねるように進んでいる。


 サルカたちも一斉に加速した。


 海面を叩くたび、大きな水しぶきが上がる。冷たい飛沫が頬へ当たり、風が髪と服を強く後ろへ引いた。


「来ます!」


 犯人の一人が振り返り、魔法を放つ。


 アリスはすぐに結界を張った。


 光弾が透明な障壁へ激突し、弾けた光と水滴が視界いっぱいに広がる。


 続けて二発。


「また来ます!」


 一発目はアリスが防ぐ。


 だが、二発目は横へ大きく逸れた。


 狙われたのはフィナだった。


「フィナ! 避けて!」


 アリスが結界を伸ばす。


 間に合わない。


「よけて――っ!」


 光弾が、フィナの目の前まで迫る。


 次の瞬間。


 フィナが片手を振った。


 パァンッ!


「……え?」


 魔法が素手で弾かれた。


 しかも消えない。


 勢いよく方向を変え、そのまま犯人たちの小舟へ飛んでいく。


「うわっ!」


 小舟のすぐ横で爆発。


 大きな水柱が立ち上がり、船体が激しく揺れた。


 アリスは目を見開いたまま、フィナを見る。


「……今、何をしました?」


「弾いただけです!」


「魔法を?」


「はい!」


 爽やかな返事だった。


 今度はルシェへ向けて、立て続けに魔法が飛ぶ。


「ルシェ!」


 一発。


 ルシェは身体を傾けて避けた。


 二発目。


 今度は掌で横から叩く。


 パァンッ!


 光弾が海へ突き刺さり、白い水柱が上がった。


「……」


 アリスは何も言えなくなる。


 少し離れた場所を走っていたゾフィーが笑った。


「あのくらいの魔法なら、あいつらは平気だぞ」


「先に教えてください!」


「聞かれなかったからな」


「普通、聞きませんよ!」


 フィナとルシェは何事もなかったようにサルカを走らせている。


 アリスは二人の背中を見ながら、昨日の記憶を思い出した。


『お菓子、おいしいです!』


『もう一ついただいてもいいですか?』


(……可愛い道場の子ではなかったのでしょうか)


 そんなことを考えている間にも、追跡は続いていた。


 風が強い。


 サルカが海面を蹴るたび、白い飛沫が顔へ叩きつけられる。


 前を走る小舟との距離は、なかなか縮まらない。


「このままでは逃げられるな」


 前に乗るイシュランが言った。


「はい」


 アリスは犯人たちではなく、海を見る。


 波の向き。


 水の色。


 潮の流れ。


 少し先に、海面の色がわずかに薄い場所がある。


 その周囲だけ波の形も違っていた。


 アリスは目を細める。


「陛下」


「どうした?」


「追いつくのはやめます」


「やめる?」


「はい。あちらから止まってもらいます」


 アリスは大きく息を吸った。


「皆さん、少し集まってください!」


 サルカたちが近づく。


「フィナとルシェは左右へ。トーマとミナは後ろから逃げ道を狭めてください」


「はい!」


「分かりました!」


「ウルタは、敵の前の水面だけ少し持ち上げて!」


「お任せくださいませ!」


 ゾフィーは中央を走ったまま、アリスを見る。


「私は?」


「そのままでお願いします」


「分かった」


 珍しく本当に何もしない。


 ウルタが手をかざす。


 犯人たちの小舟の前方で、海面が不自然に盛り上がった。


「うわっ!」


 船首が跳ねる。


 小舟が大きく揺れ、速度が落ちた。


「右へ行け!」


 犯人たちは慌てて舵を切る。


 フィナとルシェが左右から寄る。


 トーマとミナも後方から近づく。


 逃げ道が少しずつ一方向へ絞られていく。


「そっちです」


 アリスは小さく呟いた。


 犯人たちは、何もないように見える海へ向かって再び加速する。


「抜けたぞ!」


「このまま逃げ切れ!」


 水魔法が船尾で弾ける。


 小舟が一気に速度を上げた。


 アリスは静かに前を見る。


「海をなめてはいけませんよ」


 直後。


 ズザザザザザッ――!


 船底が激しく擦れる音。


「なっ!?」


 小舟が海面下の砂州へ乗り上げた。


 船首が跳ね上がり、犯人たちが次々と浅瀬へ投げ出される。


 小舟はそのまま大きく傾き、完全に止まった。


「止まりました!」


 アリスは海面を見て、ほっと息をつく。


「今は引き潮です。あそこは普段よりずっと浅くなっていて、砂州が船底のすぐ下まで上がっているんです」


 アリスたちも速度を落とす。


 だが、犯人たちはすぐに立ち上がった。


「逃げろ!」


 浅瀬を蹴りながら、島の方へ走り出す。


 その直後。


「追います!」


 フィナたち四人がサルカから飛び降りた。


「えっ」


 アリスは反射的に声を上げた。


「待ってください! 危ないですよ!」


 だが、もう遅い。


 四人は浅瀬をものすごい速度で走っている。


「私も行く」


 イシュランがサルカから降りようとする。


「イシュラン様、お待ちください!」


 アリスが服をつかんだ。


「でも――」


「子どもたちが!」


 アリスは必死に前を見る。


 フィナが一人目へ追いついた。


「来るな!」


 男が拳を振り上げる。


「フィナ!」


 アリスが叫ぶ。


 次の瞬間。


 フィナが一歩踏み込んだ。


 ドンッ!


 拳が男の腹へ入る。


「ぐえっ!」


 身体が折れた。


 そこへもう一発。


 今度は顎。


 男の身体が後ろへ飛び、浅瀬へ倒れる。


「……え?」


 アリスの声が止まる。


 反対側ではルシェが二人目へ追いついた。


「このガキ!」


 男が蹴る。


 ルシェは避ける。


 そのまま相手の足を取った。


 身体をひねる。


 ザバァン!


 男が海へ投げ落とされる。


 起き上がろうとしたところへ。


 ドンッ!


 腹へ蹴り。


「ごふっ!」


 また倒れる。


「……」


 トーマも三人目へ追いついた。


 男が剣を抜く。


「危ない!」


 アリスが叫ぶ。


 トーマは剣を避ける。


 懐へ入る。


 拳。


 膝。


 肩。


 立て続けに三発。


「ぐっ、がっ、うおっ!」


 最後は足を払う。


 男が背中から浅瀬へ落ちた。


 ミナは四人目の前へ回り込んでいた。


「どけ!」


「嫌です」


 男が殴りかかる。


 ミナは身体を傾けてかわす。


 次の瞬間。


 パァン!


 頬へ平手。


「えっ」


 男が固まった。


 そこへ腹へ拳。


 さらに足払い。


 倒れた背中へ膝を置き、腕をねじる。


「痛い痛い痛い!」


「動かなければ痛くありませんよ」


 笑顔だった。


 アリスは口を開けたまま、その光景を見ていた。


「……必要なさそうですよ」


 イシュランも、しばらく黙っていた。


「ああ」


 残った一人が周囲を見る。


 仲間は全員倒れている。


「ふざけるな!」


 それでも剣を抜いた。


 四人が同時に振り向く。


 空気が変わった。


「……」


 アリスは嫌な予感がした。


 男が先に走り出す。


「うおおおっ!」


 フィナが避ける。


 ルシェが足を払う。


 トーマが腹へ一発。


 ミナが背中から腕を取る。


「ぐあああっ!」


 倒れる。


 起きようとする。


 また倒される。


「降参! 降参する!」


 別の男まで叫び始めた。


「もうやめてくれ!」


「助けてくれ!」


「降参だ!」


 それでも四人は、確実に武器を奪い、逃げられないよう押さえ込んでいく。


 殴る。


 蹴る。


 投げる。


 押さえる。


 ゾフィーは少し離れた場所から、腕を組んで眺めているだけだった。


 そして、満足そうに頷いている。


「うん。よくできている」


「評価している場合ではありません!」


 アリスはサルカから飛び降りた。


 浅瀬を走る。


「やめてくださいーーーい!」


 四人が一斉に振り返る。


「もういいです!」


 アリスは両手を大きく広げた。


「捕まりました! 終わりです!」


「でも、まだ立てそうです」


 フィナが言う。


「立てるかどうかではありません!」


 アリスは犯人たちへ向き直った。


「降参ですよね、皆さん!」


「降参!」


「します!」


「もう何もしない!」


「助けてください!」


「本当に降参です!」


 全員、ほとんど泣いていた。


「ほら!」


 アリスが四人を見る。


「分かりました!」


 弟子たちは素直に手を離した。


 返事だけはとても爽やかだった。


 アリスは額へ手を当てる。


「……昨日は、あんなに可愛かったのに」


 ゾフィーが首を傾げる。


「今日も可愛いだろう?」


「基準が違う気がします」


     ◇


 犯人たちを拘束し、港へ戻る。


 先頭はアリスとイシュラン。


 その後ろにはゾフィー、ウルタ、そして四人の弟子たち。


 港へ入ると、誰かが拍手を始めた。


 次々に音が広がる。


 職員。


 商人。


 船乗り。


 皆がサルカの一団を迎えていた。


 アリスは少し照れながら後ろを見る。


 昨日、お菓子を嬉しそうに食べていた四人が、得意そうに笑っている。


「……可愛いだけでは、なかったですね」


 リリアが静かに答えた。


「ゾフィー様のお弟子様ですので」


 アリスは、妙に納得してしまった。

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