第2話 運命の照準
聖堂の静寂を破る靴音——
廃墟の入口から近づいてくるヴォルフ少佐の足音が、積もりつつある雪を踏みしめるたびに硬い音を立てて響いていた。
ミハイルとオリガの間を漂う緊迫感は、一瞬にして別の危機へと切り替わる。ミハイルは眉間に銃口を突きつけられたまま、息を殺してオリガの目を見つめ続けた。
「オリガ、頼む、今ここで撃ち合えば二人ともただでは済まない。少佐が来る……!」
ミハイルは声のトーンを抑え、急速に接近してくる気配を察知しながら囁いた。しかし、オリガの蒼い瞳には揺らぎすらなかった。彼女にとって、目の前にあるのは幼少期の曖昧な記憶の中の兄ではなく、自分たちの生活と祖国を脅かす敵国の将校そのものだったのだ。
「私を惑わせるつもりか。ファシストの言葉など、一言たりとも信用しない」
オリガの指先がかすかに強張る。だが、彼女もまた外からの足音に気づいていた。これ以上この場所に留まれば、包囲されて退路を断たれる。
「……くっ」
オリガは低く舌打ちをすると、ミハイルの胸元を強く押し返し、身を翻して神壇の陰へと飛び込んだ。
ほぼ同時に、崩れた聖堂のアーチからヴォルフ少佐が足を踏み入れてきた。その手には拳銃が握られており、鋭い眼光が薄暗い聖堂内を素早く走る。
「ミハイル少尉! 返事をしないか、何に手間取っている!」
ヴォルフ少佐の怒号が響く。彼はミハイルの傍らまで歩み寄ると、物陰へ向けて銃口を向けながら、ミハイルの顔を冷酷に見つめた。
「人影が見えたと言ったな。……逃げられたのか? それとも、最初から誰もいなかったとでも言うつもりか?」
「いえ、少佐。ソ連軍の士官が潜伏していました。逃走を図ったため、警戒していたところです」
ミハイルは冷静を装って答えようとしたが、額から一筋の冷や汗が流れるのを隠せなかった。ヴォルフ少佐はミハイルの不自然な間や表情の変化を見逃さなかった。少佐の唇が、歪んだ不快な笑みを形作る。
「ほう……単なる残党の士官か。だが少尉、お前は銃声一発すら鳴らさなかったな。敵を目の前にして、引き金も引けずにただ見つめ合っていたように見えたが?」
「……相手が狭い物陰におり、不用意な発砲はこちらの位置を完全に暴露すると判断しました」
「口のうまいことだ」
ヴォルフ少佐は鼻で笑うと、背後に控えていた兵士たちに短く命じた。
「周辺を掃討せよ。抜け穴があるはずだ。一滴の血も残さず探せ」
兵士たちが動き出す中、ヴォルフ少佐はミハイルの耳元に顔を寄せ、低い声で囁いた。
「覚えておけ、ミハイル。お前の父親がどのような人物であったか、私は知っている。貴族の末路など、私は一切信用せん。一度でも不審な動きを見せれば、その場で背中から撃ち抜くと思え」
ヴォルフ少佐の言葉は、冷たいナイフのようにミハイルの胸に刺さった。自らの立場がいかに危ういか、そして妹を守ることがどれほど困難かを改めて思い知らされる。
その頃、聖堂の裏手にあった崩落した壁の隙間から這い出たオリガは、猛吹雪の中を全力で駆け抜けていた。
足元を取られながらも、彼女は一度も振り返らなかった。胸の奥で、激しい混乱と怒りが渦巻いていた。
(あの男は……本当にミハイル兄さんなのか……?)
頭では敵だと割り切ろうとしても、先ほど間近で見た顔立ちや、自分の名を呼ぶ切迫した声が、封印していたはずの遠い記憶の扉を叩いていた。
かつて、雪の降る日に自分を抱き上げて笑ってくれた温かい手。だが、今の自分は「ソ連軍少尉」であり、共産党への忠誠を誓った人間だ。個人的な肉親の情など、祖国への裏切りでしかない。
(違う。兄は死んだ。あの男は、私を揺さぶるための罠だ)
そう自分に言い聞かせながら、オリガは自軍の前線拠点である地下壕(トーチカ)へと辿り着いた。
凍りついた扉を開けると、そこには湿気とタバコの煙、そして煤の匂いが立ち込めていた。過酷な前線で疲弊した兵士たちが身を寄せ合う中、奥のテーブルから一人の男が立ち上がった。
肩に大尉の階級章をつけた男——政治将校ペトロフだった。
ペトロフは大尉でありながら、前線の戦闘指揮ではなく兵士たちの思想監視と忠誠心の調査を専門とする人物だった。彼は冷ややかな笑みを浮かべながら、雪まみれのオリガに歩み寄った。
「遅かったな、オリガ少尉。単独での偵察とはいえ、少し戻りが遅いのではないか?」
「……敵の巡察隊と遭遇し、回避するのに時間を要しました」
オリガは姿勢を正し、淀みなく答えた。しかし、ペトロフの鋭い視線は、彼女の微かな呼吸の乱れや手袋の震えを見逃さなかった。
「ふむ……敵と遭遇したか。それで、お前は無傷で帰還したと。敵の士官と顔を合わせたという報告が、斥候の兵から上がっているが?」
ペトロフはポケットから一冊の古い調査手帳を取り出し、パラパラとページをめくった。
「お前の過去の記録を再確認していたところだ。革命期に亡命したお前の家系……白系貴族の生き残りが、現在敵軍の通訳官としてこの戦線に配置されているという情報があってね。……まさか、何か個人的な『再会』でもあったわけではあるまいな?」
ペトロフの言葉に、オリガの背筋に冷たい緊張が走った。
「くだらない不審感はおやめください、政治指導員同志。私は祖国のためにのみ戦います」
「そうであってほしいものだな、オリガ少尉」
ペトロフは薄笑いを浮かべ、彼女の肩を軽く叩いた。その手には、明確な脅迫と監視の意思が込められていた。
二人の兄妹は、それぞれが属する軍内部の過酷な監視と疑心暗鬼の網に、急速に捕らわれつつあった。
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