第参話「三駅分の勇気」

 決心したのは、午前二時十四分だった。


 布団の中で天井を見つめながら、僕はその瞬間を待っていた。正確には、決心するための「きっかけ」を待っていた。雨の音が窓を叩く。雷ではない。ただの静かな雨だ。その規則正しいリズムが、僕の心臓の鼓動と重なった時、僕は思った。


 明日、彼女のバス停に行こう。


 そうすれば、彼女がバスから降りる瞬間ではなく、彼女がバスに乗る瞬間に出会える。窓越しじゃない。硝子を隔てていない。真正面から、彼女を見ることができる。


 その考えが頭に浮かんだ瞬間、指先が震えた。彼女の赤い指先を思い出したからだ。あの指先が、明日はもっと近くで見られる。もしかしたら、触れられるかもしれない。


 僕は布団から飛び出し、鏡の前に立った。


「おはよう」


 声が掠れた。もう一度。


「おはよう。……初めまして」


 違う。初めましてはおかしい。毎朝手を振っているのだ。初めましてではない。そうだ、まずは「いつも手を振っていますね」が正しい。いや、それも変だ。ストーカーみたいに聞こえる。


「あの、いつもバスで……」


 それも違う。彼女はバスに乗っていない。降りるだけだ。正確には、降りるふりをしているだけだ。


「いつもバス停でお会いしますね」


 それだ。それでいい。自然だ。僕は鏡に向かって、何度も何度も繰り返した。笑顔を作り、手の位置を確認し、声のトーンを調整した。三時を回っても、四時を回っても、僕は鏡の前から離れられなかった。


 その時、ふと思った。


 もしかしたら、彼女も同じように、今夜、何かを決心しているかもしれない。いや、決心なんてしていないだろう。彼女はただの習慣の塊だ。僕と同じように。彼女が明日もあのバス停に立ち、僕のバスが通り過ぎるのを待ち、そして手を振る。それだけだ。


 僕が彼女のバス停に行けば、彼女は驚くかもしれない。戸惑うかもしれない。あるいは、気づかないふりをするかもしれない。


 それでもいい。それでも僕は行く。


 だって、このままだと僕たちは永遠に窓越しのままだ。手を振るだけの、ただの習慣のままだ。それで満足だと思っていた。けれど、違った。僕は満足していなかった。僕は彼女の指先に触れたかった。あの赤さの正体を、自分の手のひらで確かめたかった。




 一方その頃、彼女もまた、決心していた。


 正確には、彼女が決心したのは午前二時十七分だった。僕より三分遅い。その三分の差が、後に大きな意味を持つことになるとは、この時はまだ誰も知らない。


 彼女は自分の部屋の鏡の前で、何度も「おはよう」を繰り返していた。彼女もまた、明日は一つ先のバス停に行こうと思っていたのだ。僕のバス停に。そうすれば、僕が乗る前に話せる。窓越しじゃない。硝子を隔てていない。真正面から、僕を見ることができる。


 彼女は自分の指先を見た。赤い。冬の間、ずっと赤いままだった。手袋をしなかったのは、手を振る時に相手に自分の手の動きをちゃんと見てもらいたかったからだ。手袋越しじゃ、せっかくの手のひらの形が伝わらない。そう思っていたからだ。


 けれど、もう手袋はいらない。


 明日からは、手を振らなくてもいい。だって、会えるのだから。話せるのだから。そして、もしかしたら──彼女は鏡の中の自分を見つめながら、そっと手のひらを握った──もしかしたら、触れ合えるかもしれない。


 彼女は笑った。鏡の中の自分が、少し赤くなった。




 午前五時。僕は家を出た。外はまだ暗かった。雨は上がっていたが、地面は濡れていた。彼女のバス停までは、歩いて七分。いつもなら僕はこの時間、自分のバス停に向かって歩いている。しかし今日は違う。逆方向だ。


 彼女のバス停に着いた。何度もバスの中から見た場所だ。しかし、実際に立ってみると、思っていたより狭かった。ベンチもない。屋根もない。ただのポールと、時刻表と、少し歪んだ地面だけだ。


 彼女は毎朝、ここに立っていたのか。


 その事実が、急に重くのしかかった。彼女は毎朝、この狭い場所で、バスを待っていた。そして僕の乗ったバスが通り過ぎるのを、手を振りながら見送っていた。寒い日も、暑い日も、雨の日も。


 僕は時刻表を見た。次のバスは六時四十一分発。彼女がいつも乗る(乗るふりをする)バスだ。そこから約六分後、僕のバスが彼女のバス停を通過する。つまり、彼女は六時四十一分にここでバスを待ち、六時四十七分に僕のバスを見送る。その六分間が、彼女の朝のルーティンだ。


 今日は、僕がここに立っている。彼女のバスを待っている。彼女がバスに乗る瞬間を見るために。


 時間がゆっくりと流れた。風が冷たい。僕は手をこすった。彼女はいつも手袋をしない。あの赤い指先で、この寒さを耐えていたのか。そう思うと、彼女のことが急に愛しくなった。


 六時四十一分。バスが来た。


 ドアが開く。運転手が僕を見る。僕は乗らない。運転手は不思議そうな顔をしたが、ドアを閉めた。バスが発進する。


 彼女は乗っていなかった。


 当たり前だ。彼女はここでバスを待っている。この後、六時四十七分に僕のバスが来る。その時に彼女がここに立っているはずだ。僕はそう信じて、じっと待った。


 六時四十五分。六時四十六分。


 六時四十七分。


 バスが来た。


 窓の中を探す。彼女はいない。乗っているのか? いや、彼女はいつも降りるふりをするだけで、乗ってはいない。乗っていないはずだ。しかし、窓を見ても、彼女の姿はない。


 バスが停車する。ドアが開く。乗客が一人降りる。中年の男性だ。彼女じゃない。


 バスが発進する。


 僕は立ち尽くした。




 その同じ時刻、彼女は僕のバス停に立っていた。


 彼女もまた、バスを待っていた。六時四十七分発のバス。それが来るのを待っていた。僕がいつも乗るバスだ。僕がそのバスに乗る前に、彼女は話しかけるつもりだった。窓越しじゃない。真正面から。


 しかし、バスは来たものの、僕は乗っていなかった。


 彼女は首を傾げた。まさか、遅刻? 風邪? それとも、今日は違うバスに乗った?


 彼女はそのままバスに乗った。僕がいつも座る、窓際の一番後ろに座った。右側。進行方向に対して逆の席。そこに座りながら、彼女は思った。彼は今日は来ないのかな。それとも、もう行ってしまったのかな。


 彼女の指先は、今日も赤かった。




 僕は彼女のバス停に、三十分間立っていた。


 次のバスも、その次のバスも、彼女は乗ってこなかった。もしかしたら、今日は休みなのかもしれない。あるいは、ルーティンを変えたのかもしれない。僕はその可能性を考えながら、それでも立ち続けた。


 やがて、僕は諦めて歩き出した。自分のバス停に向かって。三駅分の距離を。


 歩きながら、僕は思った。明日はやめておこう。明日はいつも通り、自分のバス停に行こう。そうすれば、また彼女に会える。窓越しに手を振ることができる。それでいいんだ。僕には、それで十分だ。


 そう思った時、スマホが震えた。ニュースの速報だった。


「路線バスが横転。負傷者多数。」


 僕はそのニュースを、ただ漠然と見つめた。


 まさか、彼女が──いや、そんなはずはない。彼女は今日はバスに乗っていない。少なくとも、僕の前には現れなかったのだから。彼女は無事だ。どこかで、いつも通りに生きている。


 そう信じたかった。


 けれど、その夜、僕は鏡の前でまた「おはよう」を繰り返した。彼女も同じ時刻に、同じ言葉を、違う鏡に向かって練習していたかもしれない。そう信じていた。


 それが、僕たちの唯一の同時性だった。


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