第5話 「乾杯」
午後六時、柏木グランドホテル三階「桜の間」の重い木製ドアが開かれた。
天井のシャンデリアはいくつかの電球が切れたまま放置され、壁の金屏風には経年による細かな
「さあみんな、適当に席についてくれ! 時間はたっぷりあるからな」
実行委員の松本茂雄が、入り口で声を張り上げて同窓生たちを誘導していく。昼間の困惑をアルコールの期待で上書きしようとするかのように、その顔はすでに心なしか赤かった。
田所由紀は、出入り口に最も近い、いわゆる下座の円卓に席を取った。同卓には宮田絵里や、地元で中学校の教員をしているという大人しそうな男、そして東京を離れて久しいという主婦の姿があった。各々の席の前には、前菜のクラゲの冷製と三種の小皿がすでに並べられている。
「それでは時間になりましたので、三十年ぶりの、柏木第三小学校六年二組同窓会を始めたいと思います!」
松本がマイクを握り、スピーカーがキーンと高いハウリング音を立てた。集まった十五人の視線が一斉に前方へと向く。
「まずは、今回の同窓会を開催するにあたって、多大な尽力を尽くしてくれた我らがクラス委員長、橋本慎一くんに一言挨拶をもらいたいと思います。橋本、よろしく!」
パチパチと拍手が湧き起こる中、中央の卓から橋本慎一がゆっくりと立ち上がった。彼はチャコールグレーのコートを脱ぎ、仕立ての良さそうな紺のワイシャツにネクタイを締めていた。その堂々たる体躯は、十五人の中でも一際目を引く。橋本はマイクを受け取ると、集まった面々を一人ずつ見渡しながら、実になめらかな笑みを浮かべた。
「みんな、今日は集まってくれて本当にありがとう。三十年ぶりだな」
橋本の声は、低く、よく響いた。
「廃校になった校庭でタイムカプセルを掘り起こした時は、正直、あまりの寒さにどうなることかと思ったけれど(ここで小さな笑いが起きた)、こうして全員が五体満足で、また同じ街の、同じホテルの席に集まれたことを、まずは心から嬉しく思う。
思えば三十年前、俺たちはこの柏木という街で、毎日泥だらけになって泥警(鬼ごっこ)をしたり、くだらないことで喧嘩をしたりしていた。今ではみんなそれぞれの道を歩み、立派な大人になっている。今日は昔の肩書も現在の役職も全部忘れて、あの十二歳の頃に戻って、大いに飲んで、大いに語り明かそうじゃないか」
実に見事な、非の打ち所のない挨拶だった。地元の名士であり、地域自治会長を務める男の、洗練された「表の顔」がそこにあった。同窓生たちは満足そうに頷き、拍手を送っている。だが、由紀の目は、橋本のその完璧なパフォーマンスの裏にある「ズレ」を、校正者の冷徹さで見抜いていた。
橋本は話している間、絶え間なく視線を動かしていた。それは微笑みながら旧友たちを愛おしそうに見つめる視線ではなかった。まるで、部屋の中に配置された障害物の位置を正確に把握しようとするかのような、あるいは、自分に対する「敵意」や「不穏な動き」がどこかに潜んでいないかを監視するような、油断のない冷たい視線だった。彼の視線は、由紀の卓を通過する際、ほんの一瞬だけ由紀のポケットのあたりで静止した。そして次に、部屋の隅、最も壁際に置かれた円卓の端に座る遠藤克彦のところで、わずかに速度を落とした。
遠藤は、橋本の挨拶など耳に入っていないかのように、手元の、缶ビールの
「それでは――六年二組の素晴らしい再会と、これからの健勝を祈って、乾杯!」
「乾杯!」
十五人の声が重なり、グラスの触れ合う澄んだ音が部屋に響き渡った。
宴が始まると、部屋の空気は急速に弛緩していった。大皿料理が次々と運ばれ、缶ビールを持った同窓生たちが席を立ち、互いの卓を行き来し始める。
「田所さんは今、東京の方で働いてるんだっけ?」
同じ卓の教員の男が、片手に缶ビールを持ちながら話しかけてきた。
「ええ、神田にある小さな出版社で、校正の仕事をしています」
「へえ、校正か。地味だけど大変な仕事だよね。文字の間違いを見つけるのって、神経使うでしょう」
「そうですね。でも、慣れると文字の並びの歪みとか、インクの濃淡だけで、書いた人の精神状態がなんとなく分かるようになるんです」
由紀が静かに答えると、男は「へえ、恐ろしいな」と笑って、別の卓へと移動していった。
由紀はグラスに残ったウーロン茶を口に含みながら、周囲の自己紹介や世間話に耳を傾けていた。
「俺さ、一昨年離婚しちゃってさ。今は一人で実家の工務店を手伝ってるよ。まあ、気楽でいいけどな」
「私は子供が三人になって、毎日戦場よ。自分の時間なんて全くないわ」
「宮田は相変わらず独身? そっか、キャリアウーマンは違うなあ」
交わされる言葉はどれも、四十代に突入した大人たちの、ありふれた現実の断片だった。誰もがそれなりの苦労や諦めを抱えながら、今日という非日常の祝祭に身を委ねている。表向きは、絵に描いたような「楽しい同窓会」だった。
しかし、由紀の視界の端では、橋本慎一の異様な行動が続いていた。橋本は缶ビールを片手に、次々と別の卓へ移動し、大声で笑い、同窓生たちの肩を叩いていた。一見すると、最も場を盛り上げているホストのように見える。だが、彼は決して一箇所にとどまらなかった。ある卓で三分話すと、すぐに次の卓へ移動する。そして、移動する際には必ず、部屋の入り口、非常口の位置、そして遠藤克彦の動静を、首を動かさずに目線だけでチェックしていた。
さらに由紀が気づいたのは、橋本の「時計の確認」の頻度だった。彼は三分に一度、ワイシャツの袖口をわずかに引き上げ、左手首の金色の腕時計を凝視していた。
午後六時十五分、六時十八分、六時二十一分。まるで、あらかじめ決められた「タイムスケジュール」に従って動いているかのように。あるいは、これから起こるであろう「何か」の瞬間を、秒単位で待ち構えているかのように。
「……田所さん」
背後から、低く掠れた声がした。由紀が振り返ると、いつの間にか遠藤克彦が彼女の椅子の後ろに立っていた。手には半分ほど中身の減ったウイスキーの水割りグラスを持っている。
「遠藤くん」
「少し、いいかな」
遠藤は空いている隣の席に、音もなく腰を下ろした。彼の身体からは、微かにアルコールと、昼間には気づかなかった古い煙草の匂いが漂ってきた。
「昼間の手紙、まだ持ってるんだろ」
遠藤は正面を向いたまま、唇だけを動かして
「ええ」
「あんなもの、早く警察に渡した方がいい。……あるいは、今すぐこの場で、みんなの前で大声で読み上げるかだ」
由紀は遠藤の横顔を見た。彼の目は相変わらず冷たく、しかしその奥で、何か破滅的な光がチリチリと燃えているのが見えた。
「遠藤くん、あなた何か知っているの? 河合さんから聞いたわ。三十年前の夜、あなたたち三人でタイムカプセルを掘り返して、木下透くんの手紙を――」
「千鶴がそんなことを言ったか」
遠藤は自嘲気味に鼻で笑った。
「あいつは相変わらず何も分かっていない。橋本を恐れるあまり、本質から目を背けてる。……いいか、田所。時間はもう残されていないんだ。橋本を見てみろ」
由紀が視線を戻すと、橋本は中央の卓で、別の同窓生と肩を組んで談笑していた。しかし、彼の目はやはり笑っていなかった。彼は話しながらも、こちらの卓にいる遠藤と由紀の姿を、完全にその視界のロックオンに入れている。
「橋本は、焦ってるんだよ」遠藤はグラスを静かに回した。「三十年間、この街の王様として君臨してきた男が、たった一通の手紙で足元をすくわれそうになっている。今夜、何かが起きる。手紙に書かれていたことは、ただの脅しじゃない。あいつは、やる気だ」
「やる気って……何を?」
由紀が問いかけようとした瞬間、橋本がこちらに向かって歩き始めてくるのが見えた。その足取りは確実で、迷いがなかった。
「おっと、委員長のお出ましだ」
遠藤は席を立ち、ウイスキーのグラスを飲み干した。
「じゃあな、田所。……見落とすなよ。お前の仕事は、間違いを見つけることだろ」
遠藤はそれだけを言い残すと、橋本とすれ違うようにして、部屋の出入り口の方へと歩いていった。橋本は一瞬、遠藤の背中に鋭い視線を浴びせたが、すぐに満面の笑みを作って由紀の卓へと近づいてきた。
「やあ、田所、遠藤と何を話していたんだ?」
橋本が缶ビールを掲げながら、由紀の前に立った。午後六時三十分。ホテルの宴会場の喧騒が最高潮に達する中、橋本の腕時計の秒針は、冷酷に、そして確実に、一人目の「死」の瞬間へと時を刻み続けていた。
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