第4話 撮られない人
翌日、澪は来なかった。
その次の日も。
三日目の放課後、わたしは店先に立ったまま、通りの向こうを何度も見てしまった。来ない、と自分に言い聞かせても、暖簾の向こうに人の気配がするたびに顔が動く。
来るはずがない。あんな言い方をしたのだ。帰ってください、と。お願いです、と。
なのに、来ないことが、こんなに胸にひっかかるなんて。
四日目の午後、澪は突然現れた。
暖簾をくぐるでもなく、店の外からガラス越しに通りを撮っている。わたしに背を向けて、シャッターを切っては、少し移動して、またシャッターを切る。挨拶もなく、目も合わせず。
店先に立っていたわたしは、しばらくその背中を見ていた。声をかけるべきか、かけないべきか。かけなかったら、澪はこのまま帰るのだろうか。
その時、向かいの乾物屋の店主が店から顔を出した。小太りで人好きのする笑顔が特徴の、この通りでいちばん声の大きい人だ。
「お嬢ちゃん、いつもご苦労さん」
澪がカメラを下ろして会釈する。
「ちょっとあんたの写真も撮らせてよ。記録事業の担当者として、一枚くらい載せたらどうだい」
店主はそう言って、店のカウンターから小さなデジタルカメラを取り出した。観光客向けに貸し出しているもので、だいぶ年季が入っている。
澪の背中が、硬くなった。
「……やめてください」
声は低く、短かった。先ほどまでの抑揚のない口調とは、明らかに違う。
「なんだい、一枚くらい」
「撮らないでください」
澪は一歩、後ろに下がった。カメラを構えていた手を下ろし、自分の胸の前に抱えるようにして持つ。それは、カメラを構える人間の動きではなかった。カメラを、盾にしている。レンズを自分から外側に向けたまま、両手で包み込むように抱えている。その指は、さっきまでシャッターを切っていたのと同じ指なのに、今は何かから身を守ろうとするみたいに固く縮こまっていた。
店主は気圧されたようにカメラを下ろした。「……わかったよ、悪かったね」と小さく言って、店の奥に引っ込む。
澪はしばらく、通りの真ん中で立ち尽くしていた。胸の前でカメラを抱えたまま。肩が、わずかに上下している。息を整えているのだと、わたしは少し遅れて気づいた。
手を伸ばせば届く距離だった。でも、伸ばせなかった。澪の背中が、これ以上近づいたら壊れてしまいそうに見えたからだ。
どれくらいそうしていただろう。澪はゆっくりとカメラを元の位置に戻し、肩に提げ直した。それから、何もなかったかのように、再び通りの写真を撮り始める。でもその背中は、さっきよりも少しだけ小さく見えた。
澪はそのまま外の撮影を続け、一通りの写真を撮り終えると、三脚を畳み始めた。帰るつもりだ。わたしに声をかけることなく。
「……東雲さん」
気がつくと、口が動いていた。
澪の手が止まる。でも、振り返らない。
「東雲さん」
もう一度呼ぶと、澪はゆっくりとこちらを向いた。カメラを構えたまま、レンズ越しにわたしを見ている。その距離が、やけに遠く感じられた。
「……なに」
声は、いつもと同じ抑揚のない調子だった。でも、いつもより少しだけ、小さい。
「今日は、中は」
「外だけでいい。光がいいから」
光がいいから。それは方便だ。澪は、わたしと目を合わせたくないのだ。わたしが拒絶したから。当然だった。
「……お茶でも、飲んでいきませんか」
澪は答えなかった。カメラを下ろして、ストラップを指で巻いたり伸ばしたりしている。
「冷たい麦茶なら、あります」
「……じゃあ、もらう」
澪はやっとカメラを下ろして、暖簾をくぐった。いつもの無駄のない動きなのに、どこかためらいが混ざっている。帳場の奥にある小さな居間で、冷たい麦茶を出す。澪は座布団に座って、ぐいっと半分ほど飲み干した。汗で額に髪が少し貼りついている。外はまだ明るいけれど、西日が部屋の奥まで差し込んで、壁にオレンジ色の長方形を作っていた。
「……この前は」
わたしが言いかけると、澪は麦茶のコップを見つめたまま言った。
「いい。あれは、あたしが勝手に言ったことだから」
「でも」
「あんたが怒るのは、当たり前だ。作れない人に、作ればなんて」
「……東雲さん」
「今日は、ほんとに光の加減が良かったから来ただけ。すぐ帰る」
澪はコップを置いて立ち上がろうとした。わたしは思わず、声を強くしていた。
「待って」
澪の足が止まる。
「……待ってください。この前のことは、わたしも、言いすぎました。東雲さんは、悪くない。わたしが、勝手に」
「勝手に?」
「怖かったんです。見られるのが。見抜かれるのが」
澪はゆっくりと座布団に戻った。でも、まだコップには手を伸ばさない。
「東雲さんは、人の顔をよく見てる。わたしの、看板娘じゃない顔を、いちばんに見つけたのが東雲さんだった」
「……それが怖いの」
「はい。でも、それ以上に」
言葉を探す。まだうまく言えない。
「東雲さんになら、見られてもいいと、思ってしまったのが、もっと怖かった」
澪は黙って、じっとわたしを見つめていた。カメラを構えている時の目とは違う。レンズ越しじゃない、剥き出しの目だった。
「……そっか」
澪はそれだけ言って、麦茶をもう一口飲んだ。それから、コップを置いて、膝の上のカメラに指先を触れた。ストラップを巻いたり、伸ばしたり。
「あたしはさ」
澪が口を開いた。
「撮られるのが、嫌いなんだ」
「……カメラマンなのに」
「カメラマンじゃない。ただの記録係」
澪はカメラのレンズを指でなぞりながら、続けた。
「あたしは撮るだけ。撮られる側には、もうならない」
「もう」
澪は答えなかった。でも、その沈黙が、かえって何かを語っていた。昔、撮られる側だったことがあるのだ。今はもう、そうではない。ただ、それだけのことが、妙に重かった。
「……さっき、乾物屋の店主さんにカメラを向けられた時」
わたしが言うと、澪は少しだけ眉を動かした。
「東雲さん、カメラを盾にしてた。あれは」
「……見てたんだ」
「はい」
澪はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「撮られるのは、もう嫌なんだ。誰にでも。どんな時でも。あの店主は悪気がなかったし、一枚くらい、って思っただけだってわかってる。でも、それでも」
「……それでも」
「体が勝手に動く。カメラを握って、自分の前に持ってくる。隠すとかじゃなくて、何かから守るみたいに」
澪は自分の手を見つめた。それから、何かを言いかけて、口を閉じた。代わりに、カメラのストラップを指で巻き直し始める。きつく巻いては、緩める。緩めては、また巻く。革のストラップが、指に小さく食い込んだ。その手を見ていると、澪が言葉にしなかった何かが、指の動きだけに現れているようだった。
「……東雲さんは、自分の写真は撮らないの」
「撮らない」
即答だった。
「撮りたいと思わないの」
「思わない。だって自分の顔なんて、自分で見たくない」
自分で見たくない。その言葉が、妙に胸に残った。
「……前、撮られてたの」
澪は、手を止めた。それから、ゆっくりとカメラを下ろす。
「……聞きたいの」
「ごめん。立ち入ったこと」
「別に、隠してるわけじゃないけど」
澪はそれ以上は言わなかった。代わりに、ショーケースのガラスに映った自分の顔を、ほんの一瞬だけ見た。それから、すぐに目をそらした。まるで、映っているものを見てはいけないとでも言うように。
「……見たくないんだ」
わたしのつぶやきに、澪は答えなかった。でも、その横顔が、初めて見せる表情だった。悲しいのでも、怒っているのでもない。ただ、何かを我慢している。ずっと、長い間。
「東雲さん」
「なに」
「……写真が嫌いになったんじゃないんだ」
「そうだね」
「じゃあ、なんでカメラは」
澪はしばらく黙っていた。それから、肩に提げたカメラに手を置いて、言った。
「写真が嫌いなんじゃない。撮られる自分が嫌いになっただけ」
撮られる自分が、嫌い。それは、わたしが知っている感覚に少し似ていた。見られる自分と、ほんとうの自分。そのあいだの隙間。それをずっと、気づかないふりをしてきた。澪はそれに気づいて、そして、撮る側に回ることを選んだ。
「……あんたは」
澪が突然、こちらを向いた。
「あんたは、見られる自分、嫌いじゃないの」
「わたしは」
言葉に詰まった。嫌いかどうか、考えたことがない。考えないようにしてきた。だって、嫌いだと思ったら、看板娘ではいられない。
「……わからないです」
「そう」
澪はそれ以上追及しなかった。麦茶を飲み干して、「ごちそうさま」と立ち上がる。
「明日も来るから」
「……はい」
澪は暖簾をくぐって、通りへ出ていった。その背中が、夕日に染まってオレンジ色に光っている。
◆◆◆
土曜日の午後、澪は店の外観の撮影に来ていた。
一通りの外観を撮り終えた澪が、店の中に入ってきた。今日はショーケースの菓子ではなく、店内のあちこちにレンズを向けている。壁や柱、床の隅。普段は誰も気にしない場所ばかりを、丁寧に一枚ずつ撮っていく。
「東雲さん、今日はそういうのを」
「記録だから、菓子だけじゃなくて、店そのものを残さないと」
澪は壁の染みにカメラを向けながら言った。
わたしは少し迷ってから、澪の後ろに立った。
「よかったら、案内します」
「案内」
「お客様には見せない場所、けっこうあるから。東雲さんが撮りたいの、そういうのだと思って」
澪はカメラを下ろして、こちらを見た。少しだけ驚いたような顔だった。
「……いいの」
「はい。わたしも、ちゃんと見たことない場所があるし」
「……じゃあ、お願い」
最初に案内したのは、帳場の奥の柱だった。太い檜の柱で、表面にうっすらと焦げ跡が残っている。
「これ、祖母の代に小火があって。その時の跡だそうです。お客様からは見えないし、普段は気にしないけど」
「……火事」
「大火になる前に消し止めたらしくて。でも、この柱だけは、ずっとそのまま。お客様には見せない場所です」
澪は何も言わず、焦げ跡にレンズを向けた。シャッターが、二度、三度。
次に案内したのは、店先の床だった。磨かれた板の間に、一箇所だけ小さな凹みがある。
「これは、わたしが小さい頃に、お盆を落として」
「……自分でつけたの」
「はい。母には叱られなかったけど、ずっと気にしてた。お客様には見せない場所です」
澪は床にしゃがみ込んで、凹みを真上から撮った。凹みの縁に、長年の掃除でできた小さな傷がいくつもついている。澪の指が、そっとそれをなぞる。
それから、わたしは台所の壁の染みも案内した。天井近くに、うっすらと波打つような染みが広がっている。雨漏りの跡だ。何年か前に直したけれど、染みだけは落ちなくて、母が時々ため息をつきながら見上げている。その横には、冷蔵庫の裏側も見せた。壁と冷蔵庫の隙間は十センチほどで、そこだけ床の色が違っている。湿気で変色したのだ。普段は誰も覗かない場所だ。
澪は、そういう場所をすべて、同じ真剣さで撮っていった。
「……この店、けっこう傷だらけだね」
「お客様には、見せない場所ばかりですけど」
「見せない場所ばっかり撮ってる」
澪はカメラを下ろして、台所の壁の染みを見上げた。
「でも、そういうのが、いちばん残るんだよ。火事の跡も、凹みも、雨漏りも。誰かがここにいた証拠だ。きれいな菓子より、ずっと長く残る」
「……そうですね」
「和泉さん」
澪がカメラを構え直しながら言った。
「あんたが見せてくれた場所、どれも、誰かが何かをやらかした跡だった。火事を消した人、お盆を落とした人、雨漏りを放っておいた人。全部、誰かの痕跡だ」
「……痕跡」
「きれいなものだけじゃ、記録にならないんだ。傷も、失敗も、隠してるものも、全部ひっくるめて、そこにいた人だ」
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。隠してるものも、そこにいた人。それは、わたしのスケッチ帳のことを言っているようにも聞こえた。澪はきっと、そこまで言うつもりはなかった。でも、わたしの耳には、そう届いた。
澪は、何も言わなかった。ただ、麦茶のコップの縁を、指でゆっくりとなぞっている。何かを考えているようでもあり、ただ手を動かしているだけのようでもあった。その指の動きを見ていると、さっきまであれだけ熱心に店の傷を撮っていた手が、今は何も持たずに、ただ所在なさそうにしているのがわかった。
「……東雲さん」
「なに」
「東雲さんが撮った写真、いつか見せてほしい。記録のやつだけじゃなくて、東雲さんが自分で撮ったほうの写真」
澪は、少しだけ考えてから、うなずいた。
「……わかった。そのうちね」
「そのうち」
「うん。まだ、ちょっと、準備がいるから」
準備。それは、澪の中にある何かの準備なのだろう。写真を見せること。それは、澪にとっては、撮られる側だった過去を見せることに近いのかもしれない。
壁の染みを撮り終えた澪が、ふと言った。
「東雲って、名前、珍しいよね」
「……そうですね」
「夜明けって意味なんだ。知ってた」
「いえ」
「明け方に生まれたから、それだけ」
「そうなんですか」
「うん。それだけ」
それだけ。そう言う澪の声は、あっさりとしていた。大した意味はない、と言いたげに。でも、その名前には、なにかが引っかかる。うまく言えないけれど、澪という人間の、まだ見えていない部分とつながっている気がした。
◆◆◆
澪が帰ったあと、わたしは壁の染みを一人で見上げていた。
雨漏りの跡。何年も前に直したのに、染みだけは落ちない。それでも店を閉めずに、ここで菓子を作り続けてきた。染みができても、火事があっても、床が凹んでも。そのたびに誰かが直して、また菓子を作る。百年、そうやって続いてきた。
きれいなものだけじゃ、記録にならない。
澪の言葉をもう一度思い出す。
ならば、わたしが隠しているものも、いつか誰かの記録になるのだろうか。あのスケッチ帳も、左手で描いた意匠も、看板娘の顔の下に隠したままの何かも。
知りたいと思った。
澪のことを。澪が見てきたものを。澪が捨てて、澪が選んだものを。
写真を撮る手が、どんなことを考えているのか。
知りたいと思ったのは、初めてだった。
誰かのことを、こんなふうに。
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