第2話 もう決まっている
翌日、澪は放課後になると店に現れた。
昨日と同じように、肩にカメラを提げて。挨拶はしたけれど、それ以外の言葉はない。帳場で母が何か言いかけたが、澪は「撮るだけなんで」と短く返して、店の奥へ消えた。
わたしは店先に立っていた。午後の日差しが、ショーケースのガラスに反射して、少し眩しい。今日は客足が少なく、商店街の通りに人の姿はまばらだった。
シャッター音が、店内で鳴っている。
カウンター越しに、澪の背中が見えた。ショーケースの中の菓子を、角度を変えながら撮っている。一つの菓子に、何枚も。納得がいかないのか、時々カメラを下ろして、しゃがみ込んだ姿勢のまま、じっと菓子を見つめている。
「和泉さん」
突然、名前を呼ばれた。
「あ、はい」
声が少し裏返った。澪は振り返らずに、ショーケースの中を指さしている。
「この菓子、名前は」
見れば、昨日の朝に母が作った上生菓子だった。紫陽花を模ったもので、薄紫から青へ変わる色合いが、ショーケースの照明の下でしっとりと光っている。
「紫陽花です。この時期の定番で」
「紫陽花」
澪は繰り返して、もう一度ファインダーを覗いた。シャッターが切られる。
「ひとつひとつ、名前があるんだ」
「意匠には、必ず」
「全部覚えてるの」
「はい。お出しするときに、お客様にお伝えしますので」
「へえ」
それだけ言って、澪はまた次の菓子へ移った。会話は終わり。けれど、あの短いやりとりの間も、彼女は一度もこちらを振り向かなかった。
笑顔を作るべき相手が、いない。
ただそれだけで、どうしていいかわからなくなる。わたしは何でもない顔で立っているしかなかった。
「和泉さん」
また、名前を呼ばれた。
「ここ、もう少し明るくできない」
澪が指さしているのは、ショーケースの隅のほうだった。古い照明のせいで、確かにそこだけ少し陰になっている。
「すみません、古いものですから。よければこちらの菓子を手前に」
「そうじゃなくて」
澪は初めて顔を上げて、こちらを見た。
「明るい場所に動かしたら、それはそれで、違う菓子になる。ここにあるから、この菓子でしょ」
「……」
「今のままで撮りたいんだ。だから、照明をどうにかできないかって」
言われて、わたしはしばらく考えた。カウンターの下に小さなスタンドライトがあったのを思い出した。前に祖母が細工の確認用に使っていたもので、もうずっとしまい込んだままになっている。
「少し、待ってもらえますか」
帳場の奥へ引っ込み、棚の下を探る。ほこりをかぶったスタンドライトを引っ張り出して、コンセントを確認した。ちゃんと点く。カウンターに戻って、澪に差し出す。
「これで、よければ」
澪はスタンドライトを受け取ると、コンセントをつなぎ、ショーケースの隅に向けて角度を調整し始めた。その手つきは迷いがなくて、光の当て方に慣れているのがわかる。
「……いい」
つぶやいて、ファインダーを覗く。
シャッター音が、二度、三度。
「ありがとう」
礼を言われて、わたしは曖昧にうなずいた。澪はそれ以上何も言わず、また別の菓子へと移動した。
「和泉さんって」
まただ。今度はカメラを構えたまま、後ろ姿でしゃべっている。
「普段、ここで接客してるの」
「はい。放課後と休日は、ほとんど」
「ずっと立ってるんだ」
「接客ですから」
「ふうん」
シャッター音。
「さっきの紫陽花、いくつか種類があるんだ」
「色の変え方で三種類です。白から青に変わるものと、薄紫から濃い紫、それと、そちらは少し赤みを差してます」
「決めるのは、誰」
「意匠は母が」
「あなたは」
「わたしは、型を取って、色を入れるところまでです」
「作るのは好き」
答えようとして、言葉が止まった。
好きかどうか、考えたことがなかった。訊かれたこともない。
「……仕事ですから」
ようやく出たのは、そんな言葉だった。
澪は何も言わなかった。ただ、一度だけ、カメラを下ろして、こちらを振り返った。その目が、じっとわたしを見ている。何かを探すような、確かめるような目。そこに感情は見えなかった。
「そう」
それだけ言って、またカメラを構える。
わたしは、自分が何か間違ったことを言ったような気がして、前掛けの紐を指でなぞった。根付の凹凸が、指先にひっかかる。
◆◆◆
それから五日が過ぎた。
澪は毎日のように店に来て、黙ってシャッターを切った。撮影の合間に、時々とりとめのない質問を投げてきて、わたしの答えに短く「ふうん」と返す。それだけの繰り返しだった。けれど、わたしはその「ふうん」を、いつからか待っている自分に気づいていた。
今日も店先に立って、客の途切れた通りを眺めていると、暖簾が揺れて澪が顔を出した。
「今日、奥のほうも撮っていい」
「奥、ですか」
「工房とか、厨房とか」
澪は肩にカメラを提げたまま、店の奥へつながる廊下に目をやっている。
「記録なんだから、菓子ができるまでを撮らないと意味がないでしょ」
「……母に、聞いてみます」
帳場にいる母に声をかけると、伝票から顔を上げて少し考えていたが、「いいですよ。ただし、邪魔にならないように」と許可が出た。
「ありがとうございます」
澪は短く頭を下げて、さっそく廊下へ足を踏み入れる。わたしは少し迷ってから、そのあとをついていった。
◆◆◆
工房は店の奥、中庭を挟んだ離れにある。
渡り廊下を歩きながら、澪は壁にかかった古い写真や、棚に並んだ古い木型の一つひとつにカメラを向けた。歩みは遅く、シャッターを切るたびに立ち止まる。
「ここ、いつからあるの」
「三代前からです。元々は別の場所にあって、戦後に今の場所に移ったと聞いてます」
「三代」
澪は古い木型のひとつを、そっと指先でなぞった。触れるか触れないかの、かすかな動き。
「写真より長いんだ」
「写真より?」
「写真なんて、たかだか百何年でしょ。三代って、もっと長い」
そう言われて、わたしはこの店の時間の長さを、あまり考えたことがなかったと思った。三代。曾祖母から祖母へ、祖母から母へ、そして母から、わたしへ。そのつながりの重さを、澪はたった一言で、写真と比べて言う。
「撮らないの」
澪が立ち止まっているので、そう声をかけた。
「……今、考えてた」
「なにを」
「ここにあるものって、ぜんぶ誰かの手が入ってるんだなって。写真は、ただそこにあるものを切り取るだけだから」
澪は少しだけ口元を緩めて、カメラを構えた。
「ちょっと、悔しい」
シャッター音。
◆◆◆
工房の引き戸を開けると、ほのかに温かい湯気と、こしあんの甘い匂いが流れてきた。
「──あれ」
澪が、足を止めた。
工房の中央にある作業台に向かって、一人の少女が立っている。澪と同い年くらいだろうか。白い作業着に、三角巾をきっちりと被って、手元だけを見つめている。左手に小刀、右手に成形途中の薯蕷饅頭。動きに無駳がない。
柏木悠。この春から住み込みで弟子入りした、職人見習いの子だ。
「……誰」
澪が小声で訊いた。
「柏木さん。今年からここで修業してるの」
「ふうん」
澪はそれ以上追及せず、カメラを構えて、少し離れた場所から柏木の手元を撮り始めた。
柏木は、顔を上げない。
ただ、わたしたちが入ってきたことは、背中でわかっているはずだった。それなのに、いらっしゃいませも、こんにちはも言わない。手を止めず、小刀の先で饅頭の表面に細かい筋を入れていく。菊の花びらの模様。一枚、また一枚と、正確な間隔で。
わたしは壁際に立って、その様子を見ていた。
「──誰」
柏木がようやく顔を上げた。小刀を置かずに、手首だけで三角巾の位置を直しながら、澪を見る。
「記録撮影の東雲です。さっき、工房の様子を」
「聞いてない」
「お母様に許可をもらいました」
「女将がいいなら、いいけど」
柏木はそう言って、また手元に視線を落とした。それで会話は終わり。澪もそれ以上は何も言わず、少し離れた場所からシャッターを切り続けている。
最初の一枚目のシャッターが鳴った時、柏木の小刀が、ほんのわずかに乱れた。ほんの一瞬、刃の角度がぶれて、菊の花びらの一枚がわずかに太くなる。柏木は顔を上げずに、もう一度同じ花びらをなぞり直した。何事もなかったように。
でも、その後のシャッター音にも、同じことが起きた。二度目は饅頭の表面に筋を入れる手が一瞬止まり、三度目は餡を丸める指の動きが遅れた。柏木は決して澪を見ない。手元だけを見つめている。でも、音のたびに、集中がわずかに削がれていくのが、壁際に立つわたしには見えた。
柏木は何も言わなかった。ただ、一度だけ、大きく息を吐いて、小刀を置いた。それから、三角巾の位置を直すふりをして、一瞬だけ目を閉じた。
わたしは声をかけられなかった。
澪は気づいていない様子で、シャッターを切り続けている。柏木はまた小刀を手に取り、次の饅頭に向かった。それからの動きは、いつも通りに見えた。でも、手を動かす速度が、さっきよりわずかに上がっていた。乱れを、速さで取り戻そうとしているのだ。
「ちょっと、そこの人」
柏木が、急に顔を上げた。一瞬、澪に言ったのかと思った。けれど柏木の視線は、わたしに向いている。
「棗さんのこと」
「……なに」
「そこの餡、そろそろ固くなるから、使うなら早めに」
言われて、作業台の端に置かれた餡のボウルを見る。さっき柏木が練っていたものの余りだ。
「わたし、今日は作る予定じゃ」
「練習すればいいでしょ。暇なら」
暇なら。
その言い方に、カチンとくるものがないでもなかった。でも柏木の声には悪意がなくて、ただ事実を言っているだけだった。
「……やる」
立ち上がって、手を洗う。前掛けを締め直して、作業台の前に立った。
ボウルの中の餡を手に取る。まだ柔らかい。手のひらで転がしながら、空気を抜いていく。
「あんた、手、きれいだね」
柏木が、ちらりとこちらを見た。
「そう?」
「豆がない。客に見せる手だ」
その言葉が、なぜだか胸に刺さった。客に見せる手。それはつまり、菓子を作る手ではない、ということだ。わたしは何も言わずに、餡を丸め続けた。
隣では柏木が次の菓子に取りかかっている。今日は何種類か作るらしく、作業台の上には木型がいくつも並んでいた。
「ねえ」
柏木が、また口を開いた。手は動かしたままだ。
「その人、いつまでいるの」
「来週まで、だと思う」
「ふうん」
柏木は小刀を置いて、今度は木型に餡を詰め始めた。型に詰めて、ぎゅっと押して、取り出す。その一連の動きが、信じられないくらい速い。
「邪魔じゃないけど、集中はできなくなるかな」
「ごめん」
「謝ることじゃない。女将が決めたことだから」
女将。柏木は母のことを、いつもそう呼ぶ。お母様でも、おばさんでもなく、女将。そこには、この店の人間としての、きっちりとした線引きがあった。
「……あんたは、撮らなくていいの」
柏木が、初めて澪のほうをまっすぐに見た。
澪はカメラを下ろして、少しだけ首をかしげる。
「和泉さんの写真は、もう撮りました。店先で」
「そうじゃなくて」
柏木は、わたしのほうを顎でしゃくった。
「こいつが作ってるところ。あんたの写真の記録って、そういうんじゃないの」
こいつ。
柏木は、わたしのことを名前で呼ばない。棗さん、と呼ぶことはあるけれど、それはあくまで「女将の娘だから」という距離感からで、親しみはない。かといって、あからさまに邪険にするわけでもない。
ただ、そこにいるものとして扱う。作業台の上の餡や、木型や、道具と同じように。
澪は少し考えてから、カメラを構えた。
「じゃあ、一枚だけ」
「え、ちょっと」
「手だけ。顔は入れない」
澪はそう言って、わたしの手元だけにレンズを向けた。わたしはとまどいながらも、餡を丸める手を動かし続ける。途中で止めたら、それはそれで不自然な写真になる。
シャッターが、一度だけ鳴った。
「ありがとう」
澪はすぐにカメラを下ろして、また柏木の作業へとレンズを戻した。
◆◆◆
しばらくして、澪が「今日はここまでにします」と言って、工房を出ていった。
残されたのは、わたしと柏木の二人だけ。
手元の餡は、ちょうどいい固さになっていた。丸めて、軽くつぶして、木型に入れる。型から外すと、表面に桜の花びらの模様が浮き上がった。
「……下手」
柏木が、ぼそりと言った。
「わかってる」
「力の入れ方が均等じゃない。端のほう、模様がつぶれてるでしょ」
「……わかってるってば」
「わかってるなら直せば」
柏木は自分の作業に戻りながら、それだけ言った。教える気はないらしい。
「柏木さんは」
気がつくと、口を開いていた。
「ここに来て、よかったと思ってる?」
柏木の手が、一瞬だけ止まった。
「なに、急に」
「ただ、聞きたくなっただけ」
柏木は小刀を置いて、三角巾を外した。額にうっすらと汗が浮かんでいる。
「あたしは、菓子を作りたいだけだから」
「……それだけ?」
「それだけ。家とか、店とか、そういうのは知らない。あたしは、手を動かして、形にして、それで金をもらえれば、それでいい」
その声は、ぶっきらぼうで、飾りがなかった。
「……ずっと、ここにいるつもり?」
「わかんない。でも、技術が身につくまではいる」
「技術が身についたら」
「そしたら、どうするんだろうね」
柏木は、珍しく少しだけ笑った。口元だけで、目は笑っていない。
「あんたが店を継ぐんでしょ」
「……たぶん」
「たぶんって」
「まだ、決まってないことがあって」
そう言った時、柏木の手が、また止まった。
「……ああ」
「なに」
「いや、こっちの話」
柏木は視線を手元に戻して、また成形を始めた。けれど、その口元にはさっきの笑みの残りが、まだかすかに浮かんでいる。
「なに、言いかけたの」
「別に」
「柏木さん」
「……婿でしょ」
柏木は、手を動かしたまま言った。
「あんたの継ぐ話には、婿が要るんだって。このあいだ、女将とばあちゃんが話してるの、聞こえた」
指先が、冷たくなった。
「婿」
「そう。まだ決まったわけじゃないんでしょ。でも、そういう話はもうできてるんだ。あとは日取りだけ、みたいな」
日取りだけ。
その言葉で、思い出した。台所の隅。食卓の端に置かれた、茶色い封筒。一週間ほど前に届いて、母が「あとで開けなさい」と言ったきり、わたしは手をつけていない。未開封のまま、封筒はまだそこにある。
見合いの日取りは、もう決まっている。
わたしが開けていないだけで、向こうはもう、準備を進めている。
「……あんた、知らなかったの」
柏木が、手を止めてこちらを見た。その目は、いつものように感情が薄い。
「知ってた。でも」
「考えないようにしてた」
「……」
「そういう顔してる」
柏木はまた手元に視線を落とした。
それから、小刀を砥石に当てながら、ぽつりと言った。
「さっきの、写真の人」
「……東雲さん?」
「あの人、来週までいるんだ。毎日あの音が響くのか」
柏木の声には、はっきりとした苛立ちが滲んでいた。でも、それを澪本人にぶつけなかったのは、女将が許可したことだからだ。柏木は女将の決定には逆らわない。ただ、自分の作業の邪魔になるものに、本能的に反発しているだけだった。
「……ごめん」
「あんたが謝ることじゃない。でも、ああいうのは、正直」
柏木は言葉を切った。続けるべきか迷ったように、砥石の上で小刀を一度だけ逆撫でする。
「ああいうのが来ると、調子が狂う。集中が途切れると、わかるんだ。途切れたのが、饅頭に出る」
「……わかるの」
「わかる。あんたもそのうちわかるようになる」
柏木はそれだけ言って、砥石を片付けた。
「あの音、耳につく」
それが、柏木の最後の言葉だった。
◆◆◆
工房を出ると、廊下の窓から夕日が差し込んでいた。
渡り廊下を渡って、店のほうへ戻る。帳場では母が電話で仕入れのやりとりをしている。その横を通り過ぎて、台所へ入った。
食卓の隅に、茶色い封筒がある。
一週間前と、同じ場所に。未開封のまま。
わたしはその前を、素通りした。
手を洗って、冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注ぐ。封筒のことは、視界の隅にあるのに、見ていないふりをした。
「棗」
母が電話を終えて、台所に入ってきた。
「柏木さんの様子はどうだった」
「……集中してました。邪魔しちゃいましたけど」
「そう」
母も麦茶を注いで、一口飲んだ。食卓に腰かけて、ふと封筒に目をやる。
「それ、まだ開けてなかったの」
「……あとで」
「早めにしなさい。先方に失礼だから」
「……わかってる」
母はそれ以上何も言わなかった。麦茶を飲み干して、また帳場へ戻っていく。
わたしはコップを握ったまま、しばらく台所に立っていた。
先方。まだ顔も知らない。名前も、歳も、何も知らない。ただ、この封筒の向こうに、わたしの知らない誰かがいる。母が決めて、祖母がうなずいて、曾祖母の代から続くやり方で、話は進んでいる。
それですべてがうまく回るはずだと、誰もが思っている。
うまく回る。たしかに、うまく回るだろう。わたしが笑顔で店に立てば、客は来る。柏木が技術を磨けば、菓子の質は上がる。経営がしっかりしていれば、店はつぶれない。
でも、それでいいのか。いいかどうかも、考えないようにしてきた。
わたしはコップを置いて、店先へ出た。シャッターを下ろしかけた夕方の通りに、人はまばらだった。ガラスのショーケースが、夕日を反射して、オレンジ色に染まっている。
その反射の中に、自分の顔がぼんやりと映っていた。
笑顔ではない。疲れているのでも、怒っているのでもない。ただ、何かを考えている顔。
これが、わたしの素の顔なのかどうか、自分でもわからない。でも、澪なら、これを見て何と言うだろう。きっと何も言わない。ただ、シャッターを切る。そしてあとで、「今の、けっこういい」と、あの抑揚のない声で言うのだ。
台所に戻ると、封筒の位置が変わっていた。母が動かしたのだ。角が、さっきより手前を向いている。
わたしは封筒に手を伸ばした。
茶色い封筒の紙は、ざらついていた。表面に無数の細かい繊維が浮いていて、指の腹にひっかかる。端のほうは少し擦り切れて、白い下地がのぞいていた。母が何度も手に取って、机の上で動かしてきた証拠だった。
封筒の中央に、筆で宛名が書かれている。仲介人の名前、その下に「和泉棗殿」の文字。殿、という一文字が、まだ見ぬ誰かとわたしを結びつけている。墨はすっかり乾いていて、筆の跡にかすかな盛り上がりが残っていた。指でなぞると、凹凸が感じられた。この字を書いた人は、わたしを知らない。でも、この封筒を受け取るであろう人のことを、一応は敬って書いている。それが「殿」の一文字に現れていた。
わたしは封筒の端を持った。紙の厚みが、親指と人差し指の間にずっしりとある。開ければ、日取りがわかる。相手の名前も。開けたら、それはもう「いつか」ではなくなる。「あとで」と言えなくなる。
指を離した。封筒が、かさりと音を立てて机の上に戻る。
開けなかった。今日も。まだ、開けられなかった。
台所の電気を消して、暗い階段を上がる。一段ごとに、さっきの封筒のざらつきが指先に蘇った。二段目で、柏木の「婿が要る」という言葉が戻ってくる。三段目で、澪の「作るのは好き」という質問。四段目で、シャッター音。どれもが、暗い階段の中で、順番に頭の中を巡っていった。
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