第4話 クレイグ・コーヴェン
男はぼくをローブにくるんだまま、足早に森の中を進んでいった。
ごわごわした布の隙間から顔だけを出して、ぼくは流れていく景色を眺める。
暗い木々が、男の歩みに合わせて後ろへ流れていく。
影絵のようになった枝葉の間から見える群青色の夜空には、ぼくの知っているものより少し大きな月が浮かんでいた。
やっぱり、ここは地球ではないのかもしれない。
しばらく進むと、やがて木々の隙間の向こうに、ぼんやりと明かりが見えてきた。
「みゃ……?」
ぼくが小さく鳴くと、男は何も言わずに歩き続ける。
森を抜けた先に現れたのは、大きな建物だった。
高い屋根の上には、翼を広げた鳥のような石像や、杖を掲げた人間の像が並んでいる。正面の大きな扉には、複雑な蔦模様と、星のような紋章が彫り込まれていた。
空に向かって伸びる尖塔がいくつも並び、細長い窓からは淡い明かりがこぼれている。灰色の石壁には、蔦が幾重にも這っていた。
その蔦のあちこちに、目が覚めるほど鮮やかな青と紫の薔薇が咲いている。
夜の闇の中でも、その花びらだけは淡く輝いて見えた。青い薔薇は星の瞬きを閉じ込めたように澄み、紫の薔薇は夜のいちばん深いところをすくい上げたように艶やかだった。
「にゃあ……!」
……なんてきれいな薔薇なんだろう。
日当たりのいい窓辺で、この美しい薔薇を眺めながらお昼寝することができたら、きっと最高の気分に違いない。
男は勝手知ったる様子で、その正門へ向かっていく。
門の両脇には、人間の背丈よりも大きな石像が立っていた。
片方は本を抱えた女の人の像で、もう片方は杖を持った男の人の像だ。
ぼくがじっと見ていると、その石像の目が、かすかに青く光った。
「みゃっ!?」
思わずローブの中へ首を引っ込める。
だが、男は気にした様子もなく、門の前で短く言った。
「薬草学教師、クレイグ・コーヴェンだ」
『――承認、開門』
どこからともなく硬い声が響いた直後、重そうな鉄の門が、ひとりでに重い音を立てて開いていった。
ぼくはローブの中からこわごわと外をのぞき、目を丸くしてその光景を見た。
こわい。
でも、ちょっとどきどきもしている。
それに……クレイグ・コーヴェンっていうのが、この男の名前なのか。
今、薬草学教師って言っていたよな。
なら、ここは学校なのか?
男――クレイグは、門を抜けたあとも足を止めずに進んでいく。
真夜中だからか、建物の中に人の気配はほとんどなかった。
石造りの廊下はしんと静まり返っていて、クレイグの靴音だけがこつこつと高い天井に反響している。
壁には古びた肖像画や、羽の生えた獣の彫刻が並んでいた。
ところどころに吊るされたランプには、本物の火ではなく、青白い光がふわふわと揺れている。
ぼくはローブの隙間から顔を出し、好奇心いっぱいに建物の中を見回した。
ああ、探検したい……!
今すぐこのローブから抜け出して、廊下の端から端まで走り回りたい。扉の隙間を覗き、階段を上り、月明かりの差し込む窓辺に飛び乗りたい。
けれど、今のぼくは前足を怪我していることになっているので、大人しくしていなければならない。
ちなみに、ぼくはひとりぼっちは大嫌いだけれど、孤独は好きだ。
これは矛盾しているようで、けっして矛盾していない。
ぼくだけではなく、猫は基本的にそういう生き物なのだ。
満月に照らされた夜の庭や、勝手知ったる家の中を、夜中じゅう一匹で駆け回るのは大好きだ。
けれど、さっきみたいに帰る家もなく、お腹がぺこぺこの状態で、夜の森の中を探検したいとは思わない。
あと、こちらが甘えたいと思ったときに無視されるのも、非常に耐えがたい。
誤解のないように言っておくが、人間という生き物にも人間なりの都合があるということは、猫もきちんと理解している。
だが、それはそれとして、ぼくの都合を優先してほしいのである。
そんなことを考えていた時だった。
クレイグが廊下の角を曲がったところで、向こうから駆けてきた二人の青年とぶつかりかけた。
「わっ!?」
「くっ……!」
「みゃっ!?」
ぼくもローブの中で思わず声をあげる。
見れば、二人の青年は同じ服を着ていた。
ブルーグレーのベストに、チェック柄のスラックス。
首元には黒いリボンタイが結ばれ、その上から、肩までを覆う短いローブのような外套を羽織っている。
胸元には、星と蔦を組み合わせた小さな徽章が留められていた。
ここが学校だというのなら、二人は生徒なのだろう。
「ご、ごめんなさい、クレイグ先生!」
「い、急いでいて、前を見ていませんでした!」
「…………」
クレイグは二人をじろりと睨んだ。
けれど、何も言わなかった。
ただ面倒そうに目を細めると、そのまま二人の横を通り過ぎていく。
背後から、年若い青年たちのひそひそ声が聞こえた。
「あ、危なかった……消灯時間を過ぎてるから、叱られるかと思ったよ……」
「やる気のないコーヴェン先生でよかったな。それより、他のやつに見られないうちに、それを片付けちまうぞ」
「う、うん……」
ひそひそとした声を、ぼくの耳はしっかり拾った。
どうやら、あの二人は何かを隠しているらしい。
ちらりとクレイグを見上げてみる。
けれど、彼は気にした様子もなく、廊下を進んでいく。
どうやらまるっきり気づいていないわけではないが、その上で、面倒だから放っておくことにした顔だ。
やがて、クレイグは大きな階段を上がり、その廊下の奥にある一室の前で足を止めた。
古びた木の扉には、小さな金属板が打ちつけられている。
そこには、おそらくこの世界の文字で何かが書かれていたけれど、ぼくには読めなかった。
クレイグが扉を開けた瞬間、むわりとした匂いが鼻を直撃した。
「みゃっ……!?」
思わずローブの中で身をすくめる。
草の青臭い匂い。
埃っぽい紙の匂い。
古い木箱の匂い。
そして、それらに混ざって漂ってくる――鼻につく酒の匂い。
そこは、どうやらクレイグの部屋らしかった。
けれど……部屋と呼ぶには、あまりにもひどい有様だった。
床には本や紙束が積み上げられ、乾いた薬草の束や、空になった瓶が雑多に転がっている。
椅子の背にはよれた上着が引っかかり、机の上には書きかけの紙と、飲みかけらしい酒瓶と、いつのものとも分からない皿が置かれていた。
ぼくはローブの中から、じっとクレイグを見上げた。
……もしこの部屋が、猫の好奇心を満たすため、あえて雑多にしつらえられたものなのであれば、その心遣いには点数を甘めにつけてあげてもいい。
猫にとって危険なものが少しばかり散らばっているのはいただけないが、ぼくは賢い猫なので、それを避けるくらい造作もない。
だが、どうもそういうわけではないようだ。
何が言いたいかというと――
この部屋は、人間が暮らす部屋としてはあまりにもひどい。
もはやゼロ点を通り越して、マイナスなのではないだろうか?
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