妹の自筆

「私は誓っていない」


 ルシア本人の手紙は、その一文から始まっていた。


 聖座の伝令船が運んだ封筒には、修道院長の印も家の印もない。薬房の納品書へ紛れさせ、港の薬商からミロ宛てに送られている。差出人欄は空白でも、明るく跳ねる字と、末尾を言い切る癖は姉が知るルシアのものだった。


 本人証明のため、各頁の右下には薬房で担当した処方番号が一つずつ書かれている。修道院の投薬帳と照合すれば、ルシアがその日に起きて働き、同じ手で手紙を書いたことを確かめられる。姉にしか分からない筆跡だけへ頼らず、第三者が追える証拠を自分で組み込んでいた。


「いつ届いた」


「今朝です。開封条件の一つ、ルシア本人からの照会に当たると判断しました」


 ミロは封印箱から誓願資料一包を出し、受領記録を並べた。手紙には日付が三つあり、誓願式の前、受理通知の後、出航前に同じ拒否を書いたことが分かる。


「同じ意思を三度残しています」


「代理証人の一度より強い?」


「自筆と署名が確認できれば。継続した意思表示は、代理人が一度聞いたという証言を崩す材料になります」


 ルシアは病床にいたが、意識を失ってはいなかった。薬学の講義へ週三日出て、咳が強い日は薬房の帳簿を寝台で付けている。終身誓願を拒む一方、家へ帰ることも望まず、期限を一年ごとに更新する学修契約を求めていた。


 手紙には体温、咳の回数、服薬量まで日ごとに付いている。病身という一語で意思能力を奪われないよう、自分の身体を自分で記録したのだ。具合のよい日だけでなく、熱のある日にも同じ拒否を書き、状態が変わっても望みは続いていると示している。


「姉様が証書を持ち出したことは知っています。私を助けたつもりでしょう。でも、私が誓わないことと、姉様が私の紙を盗むことは別です」


 声に出して読むと、責める文が想像より穏やかであることが痛かった。ルシアは姉を許すとも、帰ってきて救えとも書いていない。ただ自分の選択と姉の行為を別々に裁いている。


「原本を返してほしいとは?」


「今は返さないで、とあります」


 偽誓願の代理証人はカタリ名を使ったが、署名を実際に書いた者が修道院内にいる。原本が戻れば筆跡比較の前に書き換えられる可能性があるため、ルシアは姉に保管を求めていた。二本線はやはり否認印で、通知が外へ出る直前に自分で付けたとも明記している。


「誰が偽造したか分かったのか」


「まだです。写字係は三人、代理印を使えるのは院長と副院長。イネ院長は偽造を命じていないと書いています」


「イネを信じている?」


「信じるとは書いていません。調べるため同行すると」


 ルシアはイネと同じ聖座船でノヴィアへ向かっていた。病身を理由に残されるのを拒み、船医へ自分の薬方を渡し、航海中の勤務として薬箱を管理する契約を結んでいる。守られる荷物ではなく、働く乗員として運賃を相殺した。


 航海には熱、船酔い、薬の不足があり、姉なら止めたくなる理由がいくらでもある。ルシアはその危険を知らないのではなく、必要な乾燥薬、休息日、途中港で下船する条件まで契約へ書いた。危険をなくすのでなく、どこで中止するかを自分で決めている。


「あの子まで来る必要はない」


「必要かどうかを、誰が決めますか」


 ミロの問いに、カタリは言葉を止めた。ルシアを連れ戻すため、自分が旧大陸へ渡る計画を夜ごと考えていた。偽証人を捕らえ、妹を修道院から出し、安全な場所へ連れていく。その安全がどこかを本人へ聞く部分だけ、計画にはなかった。


「私は、また同じことをするところだった」


「何を?」


「妹を救う役を選び、妹が選ぶ時間を奪う」


 手紙には、到着後も家へ戻らず、終身誓願もしないとある。一年間の薬学修了証を得てから、自分で次の居場所を決める。そのために偽誓願を無効にし、同時に叔父の後見権を一時停止する方法を探すと書いていた。


 偽誓願だけを無効にすれば、法はルシアを家の未婚娘へ戻す。そこで学修保護客の申立てを同日に出し、空白となる身分を期限付きの学生へつなぐ計画だった。無効の先を用意せず自由だけを宣言しなかった点で、姉の逃亡より慎重である。


「そんな制度はある?」


「聖座の学修保護客なら、期限付きで教会の保護下へ入れます。通常は男子学生向けですが、薬房勤務の実績があれば争える」


「あの子が見つけたのか」


「手紙では、イネ院長が条文を教え、ルシア本人が申立書を書いたと」


 イネは誓願を安全だと信じたまま、ルシアが別の安全を選ぶ手続きにも力を貸している。敵か味方か一行で決められない大人が、母の削られた手紙と一緒に海を渡ってくる。


「姉様へ。迎えに来ないでください。逃げないで、待っていてください。会った時、私の証書を私へ返してください」


 最後の依頼は、救出より難しかった。動けば役に立てるが、待つ間は自分の罪と不安を抱えなければならない。ルシアが到着するまで、証書を隠し続けることも、勝手に異議を出さないことも選択になる。


 待つことは何もしないことではない。原本の湿気を確認し、通知と筆跡を分けて保管し、到着船が遅れた時だけ照会を出す条件を決める。カタリは妹を動かす計画の代わりに、妹が動ける場所を壊さず残す仕事へ切り替えた。


「返事を書きますか」


「カタリ名では出せない」


「アント名なら、法的な姉ではありません」


「返事を出せば、船の到着前に誰かが読む」


 カタリは便箋を取らず、手紙の受領だけをミロの記録へ残した。ルシア本人の筆跡、三つの日付、二本線の説明、学修保護客の申立て。姉の解釈ではなく、妹が書いた順で保管する。


「待つ。あの子が来るまで、連れ戻す計画は止める」


「逃げないことも?」


「難しいほうを一度くらい選ぶ」


 ミロは笑わず、到着予定を航海表で確認した。聖座船は季節風を避けて南港を回り、サン・イグナシオへ入るのは三週間後である。


 その日付を誓願資料の封へ追記し、遅延七日までは開封条件を変えないことにした。船が来なければ心配し、来れば正体が露見する。どちらも恐ろしいまま、カタリは三週間という待つべき長さを初めて手に入れた。


 待つ期限が数字になったことで、恐れは消えなくても、次に確認すべき日だけは選べた。


 それは姉でなく、ルシアが決めた日だった。

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