返家

猫能しろ(ねこのしろ)

返家

3日前に殺したはずの恋人が、家に帰ってきた。


「はやく、はやくあけて」



                 *


「……はっ」


真夜中に、飛び起きた。息が荒い。全身に嫌な汗をびっしりかいている。またあの夢だ。もう彼女はこの部屋にいないのに、眠るたびに悪夢を見る。取り返しのつかない焦燥感が、今の俺を支配していた。


「わざとじゃない。わざとじゃなかったんだ……」


あれは不可抗力だった。気晴らしのつもりで、ずっと我慢していたスロットに行っただけだ。もちろんすぐに帰ってくるつもりだったし、使うお金だって上限を決めていた。なのに。その日、同棲中の彼女は俺を許さなかった。2人の貯金を勝手に使い込んだとか、昔のことまで持ち出してきて俺を責めたてた。初めは些細な言い争いをしていたはずなのに、気がついたら床の上に彼女が転がっていた。ノースリーブの赤いワンピースから出た細い手は、2度と動くことはなかった。




「あのさ、彼女ちゃんにメッセージ送っても全然連絡返ってこないんだけど、家にいる?」

「娘に連絡するように言ってくれる?なんかスマホの電源を切ってるみたいで」


昨日から何通も何通も、彼女の家族や知り合いが俺に連絡をよこしてくる。テーブルの上に置いたままの彼女のスマホは、通知がうるさ過ぎて電源を切ったままだ。誰にも言えっこない。今彼女が、遠くの山で土の中に埋まっていることなんて。そのうち親族が警察に相談して、遅かれ早かれ俺のところにも来るはずだ。


「ダメだ、終わった……誰か、助けてくれ、なんでもする。頼む……頼む!!」


真っ暗な部屋で頭を抱えていると、どこからかクスクスと、小さな子どもの笑い声のようなものが聞こえてきた。


「そのお願い、叶えてあげてもいいよ」

「そうだね、叶えてあげないこともないよ」


目の前には、同じ顔の子どもが2人、宙に浮かんでいた。足元まである白いワンピースのような不思議な服。全体的に色素が薄く、髪もまつ毛も発光するように白く、その表情まではっきり見えた。だが、顔立ちは幼いのに、その背にある羽だけが異様だった。濡れた漆みたいな艶を帯びていてカラスを思わせる、不吉な光だった。まだ俺は夢を見ているんだろうか?それとも、とうとう頭がおかしくなったのだろうか。


「夢じゃないよ。カナエにお願いある?」

「夢じゃないよ。カナタにお願いする?」


――お願い?そんなもの。もしもなんでも叶うというのであれば。


「俺は絶対に捕まりたくない。こんなことで人生を棒に振るなんてまっぴらごめんだ。どうにかしてくれ。全部忘れてあの時に戻りたい。すべてを元に。元に戻してほしい」


クスクスクス。楽しそうな笑い声が響く。


「わかった。記憶は消してあげるね」

「わかった。元にもどしてあげるね」


2人は同時に言葉を発してお互いを見つめあう。そして、突然現れた時とおなじように、ふっと目の前から姿を消した。



「……はっ」


おかしな夢を見ていた。でもなんだったのか頭がぼんやりとして思い出せない。ベッド脇の時計をみるとすでに7時を過ぎていた。まずい、もう起きないと。洗面所で歯を磨こうとすると違和感を覚えた。


「あれ、なんで歯ブラシが2つもあるんだ?しかも使いかけ……あ、やば」


まるで、誰かと一緒に暮らしているみたいだ。とにかく今は時間がない。俺は深く考えるのをやめて、慌てて家を飛び出した。


少し残業をして、会社の同僚と軽く飲んだ帰り道。薄暗い路地に入ったところで、誰かに後をつけられているような気がした。息を飲んで振り向くと、20メートルほど後ろに、背の高い赤いワンピースの女が立っていた。女はじっとこちらを見つめている。しかも靴を履いておらず、裸足のままだった。


「なんだよあれ……気味が悪い」


絶対にかかわりたくない。歩く速度を速めて、角を曲がった先で走って大通りに出た。もう一度後ろを振り返ると、もうあの女はついてきていないようだった。それでもいやな感じはいつまでも消えず、急いで家に帰った。


「ただいま」


自然に言葉がでて、あれ?と思った。俺は一人暮らしのはずなのに。なぜか毎日誰かに向かってこの言葉を言っていたような気がする。玄関脇にあるガラスの皿に鍵をいれようとして、不思議なことに気がついた。


「なんで鍵がもうひとつここにあるんだ?」


そこには、可愛らしい猫のキーホルダーが付いた鍵が入っていた。見覚えのない飾りなのに、それが自宅の鍵だと分かった。


ピンポーン。


靴も脱がず、玄関で鍵を眺めたまましばらく茫然としていると、突然インターホンが鳴った。その音に全身が強張る。俺は、恐る恐るドアスコープから玄関ドアの向こうにいる人物を確認した。


「……っ!!!!!」


悲鳴が出そうになり、口もとを手で押さえる。ドアスコープ越しに、血走った真っ赤な目と目が合ってしまった。それはあの女だった。先ほど見た赤いワンピースの女が、レンズに顔を近づけて、中を覗き込んでいる。女はドアをカリカリと爪でひっかきながら、小さく何かをブツブツと呟いている。なんだ、いったい何を言っているんだ。音を立てないように、ドアにぴったりと右耳をくっつける。


「……あけてあけてあけてあけてあけてあけて。ただいまただいまただいまただいまあけてあけてあけてただいまただいまただいま」


どうしよう。警察に連絡してもいいんだろうか。玄関に置いたままのカバンに手を突っ込む。


ガチャ。


すぐ真後ろでドアの開く音がした。まずい。知らないスペアキーに気を取られて、鍵をかけるのを忘れていた。慌てて力を入れてドアを手前に引き寄せたが、すでに遅かった。


ペタ、ペタ。


少しだけ開いたドアの隙間から、土まみれの汚い裸足の足がみえた。その周りに赤いワンピースの裾がヒラヒラと風に揺れている。同時にものすごい腐敗臭が鼻をつく。甘いような生ごみのような強烈な匂い。


やがてスローモーションのようにドアが全開になり、女の全身が姿を現した。赤いワンピースの上にのった顔は、皮膚がところどころ腐って剥がれ落ちていた。


「ただ……いまぁ」


にたぁ、と女が笑う。その拍子に歯が抜け落ちて、玄関に跳ね返って俺の足に当たった。


喉の奥でひっと声が鳴る。声がでなかった。全身の毛が逆立って、腰が抜けそうになる。とにかく逃げなくては。俺は這うようにしながら、キッチンへと向かった。とにかく武器だ。なんでもいいから抵抗できるものが欲しい。


「来るな、来るなっこっちへ来るな」

「……ただ、いまぁ。ただい、ま」


ペタ。ペタペタ。女が通ってきたフローリングの上に、まるでヘドロのような液体の跡がべっとりとついている。


「お願いだ、それ以上近づかないでくれ」

「おかえり……は……?」


俺の言葉は届かない。おかしな女は俺を追ってどんどん距離を詰めてくる。震える両手で包丁を握りしめた俺は祈るしかなかった。頼む。消えてくれ。来ないでくれ。やめてくれ。


「た、だ、い、まぁ」

「やめろぉぉっ」


女の手がまっすぐ伸ばされ、俺の体に触れようとした瞬間、俺は無我夢中で手を振りまわした。


――気が付くと、赤いワンピースの女は、床に転がっていた。俺が、やったのか?まさか。本当に?ゆっくりと床にへたり込むと、力がぬけ、持っていた包丁がゴトンという音を立てて、手から離れていった。



その時、どこからかクスクスと、子どもの笑い声が響いてきた。


「夢じゃないよ。カナエにお願いある?」

「夢じゃないよ。カナタにお願いする?」











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返家 猫能しろ(ねこのしろ) @9ron9ron

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