第3話
1コーナーへのアプローチ。濡れた路面でトラクションを失った前走車たちが、まるでコマのように不規則な軌道を描いて交錯する。眼前で巨大な黒い影が横滑りしてきた。
ぶつかる。
直感が働き、中嶋は夢中でステアリングを切り切った。車体はエスケープゾーンの濡れた芝生の上へと弾き飛ばされる。
激しい衝撃。そして、エンジンの回転数がふっと落ち、不快な静寂とともにジャッドV8が完全に停止した。ストールだ。
ヘルメットの中で一気に冷や汗が吹き出し、息が途切れる。
終わった。
胸の奥に冷たい諦めが広がり、6点式ハーネスのバックルに手をかけようとしたその瞬間、雨を突いて駆け寄ってきたマーシャルが、バイザーを激しく叩いた。
「赤旗だ! 1周目だからグリッドに戻れ! 早くしろ!」
叩きつけられる怒鳴り声と同時に、マーシャルたちがマシンのリアを押し始める。
中嶋はすぐさまギアを入れ直し、押し掛けの合図とともにクラッチを繋いだ。息を吹き返したエンジンの振動が、背中を通じて直に伝わってくる。
破損したノーズコーンを抱え、九死に一生を得たマシンは、煙る雨の中を再びピットロードへと滑り込んでいった。
ピットでの迅速な作業によってノーズコーンが交換され、マシンは再び本来の姿を取り戻していた。
雨水に洗われた鮮やかなキャメルイエローのカウルが、薄暗いアデレードの空の下で静かな光沢を放っている。
1stスタートの混乱が赤旗によって白紙に戻されたことで、中嶋は本来の予選順位である23番手グリッドへと再びマシンを進めた。
濡れたバケットシートから腰骨を介し、ジャッドV8エンジンの不規則な微振動が直接脳裏へと届いていた。
6点式ハーネスが胸郭を締め上げ、呼吸のたびに肋骨へ冷たい圧力を加える。
前方を見遣るが、格子状に並ぶマシン群の輪郭すら叩きつける雨の幕に溶けて判然としない。
コース脇の防護フェンスには、濡れたカンガルーのイラスト入り観光看板が斜めに傾いて固定されていた。
看板の表面を伝い落ちる太い水滴が、荒涼としたサーキットの風景の中にポツリと浮いている。
あの看板の位置が、1コーナーへ向けたおおよその制動開始ポイントの目印となるはずだった。
頭上のシグナルが赤から緑へと切り替わった。
一斉に叩きつけられるエンジン群の咆哮が市街地に跳ね返り、鼓膜を激しく震わせる。
前走車たちが一気に吐き出した巨大な水煙が、まるで白い生コンクリートの壁のように目の前へ立ち塞がった。
全開のまま、視界ゼロの白い闇へとマシンごと突っ込んでいく。
前方のクリッピングポイントどころか、数メートル先の路面すら見えない。
ヘルメットのシェルを叩く雨音は破片のような強烈な打撃音となり、バイザーの視界を狂おしく奪い続けていた。
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