第33話 ワールドカップのスタンド席
翌年六月。サッカーワールドカップの会場は大きく盛り上がっていた。日本代表の試合もそこに漏れず、試合開始前だというのに大きな盛り上がりを見せていた。
結人が用意してくれた家族専用席は、ピッチからほど近いスタンド席だった。茉子は日本代表のレプリカユニフォームを着て、生後七ヶ月になる長男の傑(すぐる)を連れてきていた。
「すーくん、もうすぐパパの試合が始まるよ」
そう言って、茉子は傑に聴覚保護用のヘッドホンを着けさせ、試合を観戦した。
前半は0-0で終了した。結人は何度かシュートをしたが、なかなか決まらない。
「朝比奈ー! 決めてくれよー!」
日本人のサポーターの声が、大きく響いていた。
試合は後半二十分に動いた。
中盤でボールを奪った日本代表は、素早く攻め上がった。ボールは味方から味方へと繋がれ、やがて結人の足元に収まる。
「朝比奈、行けー!」
周りのサポーターが一斉に立ち上がった。茉子も傑を抱いたまま、思わず腰を浮かせる。
結人は相手ディフェンダーを一人かわし、さらにもう一人。茉子にはよく分からないが、その動きだけで周囲のどよめきが大きくなっていくのが分かった。
ゴール前、結人がボールを持ったまま倒れ込みそうになりながらも、体勢を崩さずに右足を振り抜く。
スタジアム中の視線が、宙を舞うボールに集まった。
ボールはゴールの隅を突き刺すように、ネットに突き刺さった。
一拍置いて、スタジアムが大歓声に包まれた。
「入ったー!」
「朝比奈ー!!」
周囲のサポーターが抱き合い、飛び跳ねている。
ピッチの上で、結人は両手を大きく広げ、駆け出していた。チームメイトが次々と抱きついてくる。その輪の中心で、結人がこちらを――家族席の方を、はっきりと見た気がした。
「すーくん、パパがゴール決めたよ」
茉子は傑の耳元でそう囁いた。傑は状況を分かっているのかいないのか、小さな手でぱちぱちと叩いていた。
スコアボードには「1-0」の文字が表示されていた。
試合は、そのまま1-0のまま日本代表が勝利した。日本代表たちは皆、ピッチの上で勝利を喜んでいた。
その時、結人と目が合った気がした。結人はタオルとペットボトルを持ったまま、スタンド席に近づいていく。
え……まさか、こっちに来る?
その予想通り、結人はフル出場して汗だくな姿でスタンド席にいる茉子のもとへやってきた。目の前には柵があるが、結人はそっと手を伸ばし、傑のほっぺたに触れた。
「茉子さん、すーくん、見てくれてありがとう」
「結人さん……」
茉子は立ち上がり、傑を柵の近くまで近づけた。結人は傑の頭を撫でると、傑が「あうー」と声をあげる。
「すーくん、ちゃんと見てた?」
その笑顔は、さっきまで試合に出てた日本代表の顔ではなかった。ただの、父親の顔だ。
「ゴールの瞬間、すーくんは手を叩いてたんだよ」
「そっか。すーくんはゴールが分かるのかな?」
「そうかもね。結人さん、ゴールおめでとう」
「ありがとう、茉子さん……」
二人は少しだけ見つめ合ったが、結人はスタッフに促されてピッチの方へ戻っていった。口元が「またね」と言っているように見えた。
*****
日本時間では朝八時。伊藤くんの会社では、まだ始業前だというのに、たくさんの社員たちの目が休憩室のテレビに向いていた。
「日本代表が勝ったから、今日の仕事がはかどりそうだな」
課長はそう言ってデスクへ戻っていく。伊藤くんは、試合終了後の様子もテレビにかじりつくように見ていた。
その時、画面にはスタンド席に向かう朝比奈結人が映っていた。そこにいたのは、日本代表のレプリカユニフォームを着た女性と小さな赤ちゃんだ。
『あれは朝比奈の家族ですかね』
『公表はしてませんけど、そうなんでしょうね。それにしても赤ちゃん、顔が朝比奈にそっくりだなぁ』
解説と実況の穏やかな声と同時に、スタンド席にいる妻子に手を振る朝比奈結人の姿が見える。
あれって……。
伊藤くんは息を呑んだ。そこにいたのは、あの宮下さんだったからだ。
宮下さん。やっぱり、そうだったんですね。
伊藤くんは心のなかでつぶやき、自分のデスクへ戻った。それでも、あの時の宮下さんのセリフが忘れられない。
「……ただの、二十七歳の男性です」
伊藤くんは、その言葉を頭の中で反芻した。それだけで、朝比奈結人という雲の上の存在が、何だか身近に感じられた気がした。
*****
その日の夜、日本は「日本代表の勝利」と同じくらい、ある話題で大きく目立っていた。
『朝比奈結人って結婚してたの!?』
『お相手は一般人っぽいよね、もしかして、昨年探してた宮下茉子さんじゃない?』
『赤ちゃんもいるなんて!』
『昨年の朝比奈があんなに宮下茉子を探してた理由がわかったよ。妊娠してたんなら、そりゃあ必死になって探すわな』
『赤ちゃんが朝比奈にそっくりでかわいい……』
これを踏まえ、日本の所属事務所とフランスの所属クラブは、それぞれ連名でコメントを発表した。
『朝比奈結人選手はこれまで私生活について公表しておりませんでしたが、結婚しており、お子様もいらっしゃいます。本人からも事実であるとの確認を得ております。結婚時期やお相手の詳細につきましては、本人の意向によりお答えを差し控えさせていただきます。今後とも温かく見守っていただけますと幸いです』
翌日。日本で話題になっていることを知った茉子は、結人に電話をかけた。
「カメラに撮られちゃったみたいだよ。私もすーくんも映ってる」
茉子がそう言うと、結人は少し沈黙してから答えた。
「ごめん。でも、真っ先に一番大切な人のところにいきたかったから……」
「うん……」
茉子は自分の頬が火照るのを感じた。
「事務所やクラブからコメントは出したよ。公表することになっちゃって、ごめんなさい……」
結人の声は力なかった。日本のエースなんだから、もっとシャキッとしてもらわないと困る。
「いいよ。隠すことでもないかもしれないし」
茉子は、はっきりと言った。
「ありがとう。次の試合も、真っ先に茉子さんのところに行ってもいい?」
結人の声は覇気を取り戻していく。
「いいけど、ちゃんとゴール決めてよ?」
「わかってるよ」
その時、ベビーベッドで寝ていた傑が起きたのか、「ほぎゃー」という鳴き声が隣の部屋から聞こえてきた。
「……すーくんが起きちゃったから、またね」
「うん。またね、茉子さん」
茉子は電話を切り、すぐに傑のもとへ駆け寄った。
「お外、見る?」
傑を抱っこしながら、ホテルの窓から夜景を眺めた。大きな月が、輝いていた。
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