第28話 再び、ニースへ
一ヶ月後。つわりが落ち着いた茉子は、結人と日常的にメッセージのやり取りができるようになった。
『茉子さん、今日もちゃんと食べた?』
『食べたよ。結人さんもリハビリ頑張って』
一見他愛ないやり取りだが、結人はすぐに返信を返してくれる。ブロックされていた期間が堪えたのか、結人は『おはよう』などの挨拶にも『ありがとう』と返してくるようになっていた。
『茉子さんと連絡を取り合えることが、一番のご褒美だよ』
結人のこのメッセージに、茉子は『これからもたくさんご褒美あげるね』と返したあと、フランスで買った香水を首筋にかけた。
妊娠二十週に入り、茉子は産婦人科に健診に訪れた。エコーに写るのは、少し成長した小さな人間の姿だった。
「つわりはだいぶ落ち着きましたか?」
内診を終え、医師は穏やかな笑顔を浮かべながら、茉子にエコー写真を渡した。
「はい。……あの、聞きたいことがあって」
「何でしょう?」
「……来月、フランスへ行ってもいいでしょうか」
茉子がそう言うと、医師はデスクの上のパソコンを見つめていた。カルテ情報が表示されている。
「フランス? ご旅行ですか?」
「いえ……。フランスには、彼が……いるので」
医師はカルテ情報の『宮下茉子』の名前を見てから、もう一度茉子の顔を見た。もしかして、察しているのかもしれない。
「医師として、長めのフライトは推奨することはできません。くれぐれも無理はしないでください。どうしても行きたいなら、自己責任になりますが……。航空会社にも確認しておいてください」
「はい。両親も付き添ってくれますので、無理しないようにします」
茉子はお腹を擦った。すると、お腹の赤ちゃんがポコリと動き、「僕は大丈夫だから」と言ってくれているようだった。
長時間フライトのリスクも、もし何かあったら後悔することも、わかっていた。それでも、茉子はフランスへ行きたかった。
八月。妊娠二十四週の茉子のお腹の膨らみは、服の上からでも分かるようになっていた。そんな茉子は、両親と一緒にフランスへ向かった。
「約一年ぶりだが、何度見てもニースの街並みは最高だな」
ニースに着くと、父は何度もデジカメで写真を撮っていた。夕方頃にはスタジアム周辺に着き、茉子と両親は、以前結人に教えてもらったレストランで食事を楽しんだ。その後、夜九時からのキックオフに合わせて、スタジアムの中へ入った。
サッカー観戦は父の希望だった。結人はケガで離脱しているが、結人の所属クラブの試合が見てみたいのだという。茉子と両親は『ASAHINA』と印字された十番のレプリカユニフォームを身に纏い、指定された席に座った。
「Are you guys fans of Yuito?」
(あなたたちはユイトのファンなの?)
父の隣にいたファンに声かけられた。現地のファンらしい。
お父さん、ちゃんと話せるかな……。茉子は不安に思ったが、驚くことに、父は英語で答えた。
「Yes. We are sad we can't see him play, but we wanted to watch the team anyway.」
(そうだよ。彼の活躍が見られてなくて残念だが、チームの試合は見たくてね)
「お父さんはね、最近は英会話教室に通ってるの」
母が茉子に耳打ちした。
「I'm waiting for his knee to heal so he can get back on the pitch. He's the ace of this team, after all!」
(私もユイトのケガが早く治って、ピッチに戻ってきてくれることを待っているよ。彼はこのチームのエースだからね!)
ファンはそう言って、父と握手をした。
「That's right. He needs to come back soon.」
(そうだとも。結人くんには早く復帰してもらわないとな)
父は茉子のお腹を見る。それに気づいたファンが、茉子に話しかけた。
「Wait... are you Yuito's girlfriend, by any chance?」
(もしかして、ユイトの彼女?)
「あ、いえ、私は……」
思わず日本語が出てきて、茉子は顔を真っ赤にさせて俯いた。
「Guess not. If you were his girlfriend, you'd probably be sitting in a much better seat!」
(違うんだね。もしユイトの彼女だったら、もっと良い席にいるかもしれないものね)
ファンの方の声は落ち着いていたが、茉子の心は全く落ち着かなかった。
試合が終わる頃には、夜は更けていた。茉子たちはホテルへ戻った。チームが勝利したことで上機嫌な父は、「お酒でも飲もう」と言って、茉子と母をホテルのラウンジに連れていった。
「茉子。結人くんに連絡はしたのか?」
父はワインを飲みながらそう尋ねてきた。
「これから、連絡しようと思って……」
茉子がそう答えると、母が「まだなの?」と言いながらビールを口に含ませていた。
「彼に、心配をかけたくなかったんだ。長時間のフライトになるけど、身体は大丈夫? とか言ってきそうだから……」
そう言いながら、茉子は自分の頬が熱くなっているのに気づいた。
「……あら、ラブラブね」
母にそうはっきり言われると、茉子は両手で顔を覆った。余計に恥ずかしくなった。
ラウンジで父と母と別れ、茉子は自分が泊まる部屋へ向かった。広めのシングルルームだった。
茉子はスマホを取り出し、結人の連絡先をタップした。呼び出し音が何度も鳴り、「やっぱり今日はもう寝たのかな」と思って電話を切ろうとした瞬間、「茉子さん!?」と結人のなんとも間抜けな声が聞こえた。
「茉子さん、どうしました? 日本は朝ですよね、ごめんなさい、フランスは夜だから、今寝てて」
「……うん。寝てるときに電話してごめんね」
「いや! え、もしかしてお腹の赤ちゃんに何かあった?」
「ううん。……今、フランスに来てるんだ」
すると、十秒ほど沈黙が流れた。
「え!? フランスに、来てる?」
結人の声は想像以上に大きかった。
「両親と一緒に来たの。今はニースのホテルにいるんだけど……」
「え、それ、本当?」
「うん。本当だよ」
「身体は大丈夫なの? お腹は?」
「大丈夫。……それで、明日、」
「どのホテル? 今から行くよ!」
茉子のセリフは結人に遮られた。茉子がホテルを教えると、結人は「そこなら十分くらいで着くから! ロビーで待ってて!」と勢いよく言うと、電話を切ってしまった。
結人さん、かなり驚いてたな。驚かすつもりはなかったんだけど……。そう思いながら、茉子はホテルのロビーへ向かった。
深夜というのもあり、ロビーには客はおらず、スタッフも数人しかいなかった。すると、エントランスのあたりから車のライトが近づいてくるのがわかった。
「茉子さん!」
タクシーを降り、エントランスから結人がやってきた。慌ててきたのか、Tシャツに短パンという、ラフな姿だ。松葉杖はしていなかった。
「どうして先に教えてくれなかったんですか!」
結人は小声でそう言うと、茉子に駆け寄り、そっと手を握った。
「ごめんね。結人さんに先に伝えたら、心配しちゃうかなと思って」
茉子は手を握り返した。
「そうですよ。……心配しました」
声を潜め、結人は続けた。
「……すみません。何も考えずに来ちゃって。このあと、どうしますか」
結人の目は泳いでいた。
このあとのことなど、茉子も考えていなかった。結人とは電話で話すつもりで電話しただけで、夜中に再会するつもりではなかった。
でも、会えたのなら、一緒にいたい。茉子は結人の甘い匂いを嗅いだ。この甘い匂いの先へ、行ってみたかった。
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