第8話 朝比奈結人です
一週間後。昼休みに、茉子は派遣先の会社のデスクでお弁当を食べていた。昨日作ったチャーハンの残りだが、一日経つとなかなか美味しくなっている。
「昨日の試合見た? やっぱり朝比奈結人は日本のエースだよねぇ。二得点も決めてくれたよ」
社員の浅野さんが、コンビニの袋を下げて、喋りながらオフィスに戻ってきた。
「俺は観戦に行きましたよ。海外クラブの選手の試合なんて、代表戦くらいでしか見られませんから」
同じく社員の伊藤くんが、浅野さんと楽しそうに話していた。
その時、茉子のスマホの通知音が鳴った。ゆいとさんからだった。
『これからフランスへ帰ります! 十二月、会えるの楽しみにしています』
あぁ、帰るんだ。茉子は『お気をつけて』と返事をし、スマホをカバンにしまった。茉子は上がりかけた口角をなんとか戻し、平静を装った。
「次の代表戦は十二月か。楽しみだなぁ」
浅野さんの浮かれた声が聞こえきた。茉子は通勤途中にコンビニで買ったクッキーを頬張りながら、今日の晩御飯の事を考えようとしたが、頭の中では、まだ彼の言葉がちらついていた。
それから、ゆいとさんは茉子に頻繁にメッセージを送ってくるようになった。毎日とまではいかないが、一週間に一回は必ず送られてくる。内容は、フランスで買ったお菓子やケーキなどの紹介が多かった。写真が何枚か送られてきて、『茉子さんはどれが食べたいですか?』とコメントが入る。
『私は一番上のチョコレートが食べたいです』
茉子はそう返事をした。他になんて返せばいいかわからなかった。
十二月の初旬、彼が日本へやってきた。茉子は彼のためにオシャレなカフェを予約し、そこで待ち合わせた。店内はクリスマスの装飾が目立ち、BGMもクリスマスソングが流れていた。
「茉子さん、お久しぶりです」
茉子が奥の席でコーヒーを飲んでいると、彼が帽子を被ってやってきた。今日も伊達メガネをしている。
「二ヶ月ぶりですね。どうぞ、座って」
「はい」
彼は茉子の正面の席に座った。目が合うと、彼は目を細めた。
「お仕事、どうですか? 年末で忙しいですか?」
茉子は当たり障りのない話題を振った。
「えぇ、まぁ……」
彼は窓を眺め、どこか遠くを見ていた。遠くでは、大きなクリスマスツリーが輝いている。
「あれから二ヶ月が経ちましたが、茉子さんはまた俺に会ってくれた。俺が口説いてるって言ったのに」
彼は窓を見たまま、続ける。
「告白しても、いいですか」
茉子も窓を見つめた。窓に映る彼の顔と目が合い、そらした。それは、この二ヶ月間、ずっと考えていたことだった。
彼は視線を茉子に戻し、目を合わせた。
「俺は、茉子さんが好きです。遠距離になりますが、付き合ってくれませんか」
その言葉に、茉子は全身が震えた。二ヶ月も考える時間があって、わかってはいたはずなのに実際にその言葉を聞くと震えが止まらない。
「あ、えっと……」
ここまで言って、茉子はあることに気づいた。私は、ゆいとさんの本名を知らない。
「あの……聞き忘れてたんですけど」
「あ、はい」
その声は、少し拍子抜けしていた。
「ゆいとさんの本名は何ていうのですか? フルネームを、知らないなと思って」
茉子がそう言うと、彼の表情が曇った。俯き、唇を噛み締める。え、私なんか変なことを聞いたかな。名前を聞いただけなのに。
「これからお付き合いする相手なら、お名前は知っておかないと……」
茉子のその言葉に、彼は顔を上げた。目が丸くなっている。
「お付き合い、してくれるんですね」
「はい……」
茉子はコーヒーを口に含ませた。砂糖を入れていないはずなのに甘い。
「ありがとう。嬉しいです」
彼は少し笑い、コーヒーカップを持ち上げた。しかしまだ、肝心なことが聞けていない。
「それで、お名前は?」
もう一度聞くと、彼は再び俯いてしまった。
「……朝比奈結人です」
彼の声はカフェの喧騒に流れていった。
「ごめんなさい、聞き取れなかったので……」
茉子は彼のそばに耳を近づけた。彼も近寄り、茉子の耳元でもう一度名前を言った。
「朝比奈、結人です」
「朝比奈さん? よかった、名字はそういうんですね」
茉子は座り直し、コーヒーを飲んだ。もうそろそろ注文したランチプレートが運ばれてくるかな。
「朝比奈さんか。初めて聞く名字かも」
朝比奈は珍しい名字ではないが、茉子の今までの人生で出会ったことのない名字だった。なるほど、朝比奈さんか。
「茉子さん。……実は」
「お待たせしました、ランチプレートです」
店員さんがランチプレートを二つ持ってきて、結人の言葉は遮られた。
「ランチプレート、美味しそうですね。予約した甲斐があったかも」
茉子は早速サラダにフォークを刺していた。しかし、結人は食べようとしない。
「どうしたんですか? 食べないんですか?」
「茉子さん。朝比奈結人って聞いて驚かないんですね」
「はい。え? 有名人に同姓同名がいるんですか?」
結人はなぜかフォークを見つめていた。瞬きが増え、フォークも震えている。
「……いえ、大丈夫です」
結人は目頭をハンカチで押さえていた。
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