サッカーを知らない派遣社員の私が恋をしたのは、日本代表のエースストライカーでした

おまつり

第1話 ニースの助け舟


 九月。フランスのニースの街並みは絵に描いたような綺麗な景色で、父も母も「素敵ね」と写真をたくさん撮っていた。

 

「パリも良かったけれど、ニースも街並みが最高だ」

 

 父の正雄はキャッスルヒルの展望台から、青い海と茶色い屋根の街並みを何度もデジカメに収め、そのたびに感嘆の声をあげていた。

 

「こんな景色が見られるなんて、定年まで仕事を頑張った甲斐があった」

 

「そうね、お父さん」 

 母の恵美子も携帯電話のカメラでたくさん写真を撮っていた。

 

「茉子のスマホでも撮りなさい」

 

「うん……」

 

 娘の茉子は他の観光客と同じようにスマホを掲げたが、映る街並みを見ても何とも思わなかった。


 茉子は、父の定年退職祝い旅行で、両親とともにフランスへやってきた。前半はパリでエッフェル塔やモンサンミッシェルなどの観光地を回り、後半はニースで観光だ。ニースの海沿いの景色はたしかに綺麗だったが、わざわざ写真に残して見返したいかと言われると、違う気がした。


「インスタ? とかにあげたらいいんじゃないか。友達が羨ましがるかも」 

 父はそう言うが、茉子は首を横に振った。

 

「インスタなんてやってないよ。友達には、あとで写真を見せる」

 

 茉子は数枚だけ写真を撮った。せっかくフランスに来たというのに、観光客が多すぎて、自分がちっぽけな存在であることが顕著にわかる。自分も、この群衆のなかのただ一人にすぎない。


 今日のツアーは夕方で解散になり、茉子たちは旧市街の前で観光バスを降ろされた。宿泊先のホテルまでは歩いていける距離だが、夕飯は各自で自由に済ませることになっている。

 

「綺麗な街並みだから、きっと食事も美味いだろう」

 

 父はそう言って、率先して歩いていく。よく見ると、カフェやレストランがたくさんあり、至るところで客たちはテラス席で料理に舌鼓を打っていた。

 

「ここにしよう」

 

 父が選んだのは、小さなビストロだった。店名はフランス語で書かれているのでよくわからない。地中海料理なのか、フレンチなのか、まったく分からなかったが、父はドアを開けた。


 茉子たちはテラス席に通され、メニューを渡された。父は「Thank you」と言ってからメニューを受け取ったが、メニューを開くと目が点になる。

 

「なんだこれは?」

 

 茉子もメニューを見てみる。そこに書かれてあるのは、フランス語の羅列だった。観光客向けに英語表記が添えられているわけではなく、フランス語のみで写真もない。

 

「お父さん、店員さんが来たわよ」

 

 母が父に話しかけ、父が顔を上げると、そこには案内してくれた方とは別の店員さんが、父の顔を覗いていた。

 

「あぁ……えっと……」

 

「お父さん、まずは飲み物を頼むんじゃないの?」

 

 母はメニューをめくるが、どれが飲み物なのかわからない。茉子も分からず、メニューをじっと見るしかなかった。

  

「Bonsoir, vous avez choisi ? Une boisson pour commencer, peut-être ? On a de très bons vins locaux, sinon de l'eau, plate ou gazeuse ?」

 

 早すぎて、単語の切れ目すらわからない。父は「あ、あ」と言ったきり、固まってしまった。


 どうしよう。父も母も困っているが、私には何もできない。茉子は目線をメニューの紙からテーブルクロスに移した。穴があったら入りたい。

 

「もしかして、日本の方ですか?」

 

 茉子の後ろから、日本語が聞こえてきた。振り向いてみると、そこには二十代くらいの若い男性が立っていた。背が高く、白いシャツに黒いズボンを履いて、帽子を深くかぶっている。いかにも爽やかな感じ。

 

「店員さんの言葉が、わからなくて……」

 茉子はこの男性の腰辺りを見つめながら答えた。

 

「あぁ、そうですか。通訳しますよ」

 男性はそう言うと、店員さんに向かって何か話し始めた。


「Bonsoir. Ce sont des amis à moi, ils ne parlent pas français. Je vais traduire, si ça ne vous dérange pas. Vous disiez, tout à l'heure ?」

 (こんばんは。この人たちは僕の知り合いです。フランス語がわからないようで、僕が通訳します。先ほどは何と言ったのですか)

 

「Ah, d'accord. Je demandais juste s'ils voulaient commencer par une boisson.」

 (そうでしたか。まずは飲み物を、と伺っていました)

 

 男性は、茉子たちの方を向いた。

 

「飲み物だそうです」 

 メニューを開き、飲み物のページを指す。

 

「飲み物はどうされます? ワインですかね?」

 

「じゃあ……ワインにしようかな。オススメでいいよ」

 父がそう答えると、男性は店員に向き直った。

 

「Ils aimeraient une recommandation, pour le vin.」

 (オススメのワインを、とのことです)


「Ah, très bien ! Alors, je dirais plutôt un rosé de Provence, léger et fruité, ça se marie bien avec nos plats. Ou sinon un petit blanc sec, si vous préférez.」

 (でしたら、プロヴァンスのロゼがおすすめです。軽やかでフルーティーで、当店の料理とよく合いますよ。もしくは辛口の白も、お好みでしたら)

 

 男性は少し考えるような間を置いてから、こちらを向いた。

 

「ロゼか、白の辛口がおすすめだそうです。ロゼは軽くてフルーティー、料理にも合うって」

「じゃあ、ロゼで」

 父が即答すると、男性はもう一度店員に向かって短く言った。

「Un rosé, s'il vous plaît. Merci.」

(ロゼをお願いします。ありがとう)

 店員は頷き、メモを取ると、軽やかな足取りで奥へ戻っていった。


「すごいな君は。助かったよ。どうもありがとう」

 父は立ち上がり、男性に握手を求めた。

 

「いえいえ。大したことはしていないです。料理はどうされます? オススメを聞きますか?」

 

 男性は父と握手をしてから、再びメニュー表に視線を移していた。

 

「そうだな。わからないから、この店のオススメを食べることにしよう。茉子も恵美子も、それでいいか?」

 

「えぇ」

 母が軽く頷き、茉子も同じように頷いた。

 

「あなたは一人で来てたんですか?」

 母が尋ねると、男性は軽く苦笑いをした。

 

「いいえ。チームメイト……いや、仕事仲間と一緒に来ていたんですが、彼は急用を思い出したと言って帰ってしまいました。今は一人で食べてますよ」

 

「そうなのか。では、もし良かったら、一緒に食べませんか」

 

 父は空いている席に目をやった。茉子の隣の席だ。

 

「いいんですか? ありがとうございます。一人で食べるのも寂しいんで、ありがたいです」

 

「いやいや、こちらこそ」

 

 父はそう言うと、その男性を茉子の隣の席に座るように促した。男性は「失礼します」と言って、茉子の隣に座る。この男性の香水の匂いか、それともニースの街並みの匂いか分からなかったが、甘い香りがした。いい匂いだった。不思議と、悪い気はしなかった。

 

 

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