まだ起きていない殺人の相談を受けています。

春山 渡

プロローグ

 その朝、墨名を殺す人間は、まだただの読者だった。


 候補は四人。


 墨名叙一郎すみなじょいちろうの名を目にすれば、誰もがわずかに顔を曇らせる。けれど今の彼らには、まだ墨名を殺す理由まではない。


 机の上には、同じ題名を持つ四冊の確認用冊子が並んでいた。十年前、当時十七歳だった少女が姿を消した事件を描いた小説である。


 表紙も、頁数も、物語の大部分も同じだった。

異なるのは、事件の関係者について書かれた、ほんの数頁だけだ。


 一冊は、少女の親友へ。

 一冊は、実の弟へ。

 一冊は、当時の教師へ。

 一冊は、事件を報じた人間へ。


 四人には、それぞれ異なる過去が用意されていた。


 どれも完全な嘘ではない。だからこそ、読んだ人間は簡単には切り捨てられない。自分だけが知っている誤りを見つければ、人は黙っていられなくなる。


 そこまではしていない。自分がしたのは、別のことだ。本当に責められるべきなのは、自分ではない。否定するために言葉を重ねれば、書かれていないことまで明かしてしまう。


 墨名が欲しいのは、質問への答えではなかった。間違った物語を与えられた人間が、それを正すために何を語り、誰を代わりに差し出すのか。


 その選択だった。墨名は最初の冊子を封筒へ収めた。指先がわずかに震えていたが、恐怖によるものではない。物語が作者の手を離れ、登場人物自身によって続きを書かれようとしている。


 その瞬間を前にすると、いつも少しだけ身体が先走った。誰が最初に、自分へ与えられた役を拒むのか。誰が過去を守るため、別の誰かを差し出すのか。


 そして誰が、役から逃れようとして、もっともその役にふさわしい行動を選ぶのか。


 犯人の名前は、まだ書けない。

用意するのは、空欄だけでよかった。


 そこへ名前を記すのは、墨名ではない。

登場人物自身でなければ、意味がなかった。


 四通目の封を閉じる。

後日、物語は、それを待ち望まない読者のもとへ送り出される。


 まだ誰も、墨名を殺そうと思っていない。

殺意はまだ、目覚めない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る