第12話 侯爵令嬢、魔法の来客を知る

 地理の教師が、教室に入ってきた。


 白髪混じりの、——五十代の、男性。黒の法衣に、——銀の縁取り。丁寧な、お辞儀。


「皆さま、——お久ぶり。プルデンティア・セヴェリーニ嬢の復学に、お喜び、申し上げます」


 教室の令嬢たちが、——少しだけ、頷いた。


 律子も、軽く会釈した。


「——本日の地理は、——各国情勢の、お授業で、ございます」


 教師は、——黒板の前に、——大きな世界地図を、——広げた。


 紙の地図。色分けされた、——五つの国。


「皆さま、この地図を、よく、ご覧くださいませ」


 律子は、地図を見上げた。


 ……ああ。


 律子の前世の記憶が蘇った。乙女ゲームでは、何度もその世界の地図を見た。オープニングでゆっくりと画面を横切る、世界の絵。


 ……あれに似ている。


 律子はノートに視線を落とした。前世の声色で内心、呟いた。


 ……あれ、やっぱりこれ、ゲームの世界?

 ……いや、待って。

 ……本当に、ゲームの世界?


 ◇


 教師の、——細い指が、地図の中央の南側を、指した。


「我が国、セルヴィア法王国、でございます」


 律子の祖国。緑色の、一区画。


「セルヴィアは、——法と、教会の伝統を、持っています。しかし、——ここ百年の間に、大きな変化が、ございました」


 教師は、——眼鏡の位置を、——指で、軽く、直した。


「教会法廷と、並立する形で、——世俗法学部が、——設けられました。本学院の、——皆さまの進路の、一つでもございます」


 ……世俗法学部。

 ……これは、聞いたことがある。

 ……お父さまの書斎の本、半分はそっち系統だった。

 ……お屋敷に、聖職者は、出入りしない。

 ……お母さまの机にも、聖書はなかった。

 ……うちは新世俗派、ね。確定。

 ……前世なら——プロテスタントの国の貴族みたいなものかしら。

 ……いえ、もう少し複雑。

 ……「教会法廷と並立」って、教会法廷を消したわけではない、ってこと。

 ……つまり、両方の管轄が、まだ、生きている。

 ……対立じゃなくて、競合。

 ……これは、案件の管轄問題と、構造が似ている。

 ……家事事件の、教会調停と世俗調停みたいに。


「ご存じの通り、——セルヴィア国内にも、——様々な、——お立場が、ございます。——いずれ、——上級学年で、——詳しく、お習いに、なります」


 ……「お立場」、——

 ……つまり、——派閥がある。

 ……新世俗派と、旧教会派ということね。


 ◇


 教師の指が、——地図の、西側に、——移動した。


「自由都市、リミニ」


 黄緑の、大きな区画。


「リミニは、——産業の都市でございます。蒸気機関の、工場、鉄道、——そして、最近では、自動車も作られています」


「自動車!」


 令嬢の一人が、——小さく、声を、上げた。マチルダの、声。


「ええ。——お持ちに、なるのが、——夢の方も、増えている、と、伺っております」


 律子の中で、——ドライブの記憶が蘇った。


 ……自動車。

 ……お母さまの机の、運転教本。

 ……我が家の自動車もリミニ製。

 ……商人の国、ね。

 ……お父さまの新聞でも、リミニ商会連合の名前は、よく出ていた。

 ……経済の中心でもあり、産業の発信地、ね。

 ……これは、調べる価値がある。

 ……お母さまの遺品のリストに、「リミニ関連」、項目立てなくちゃ。


 ◇


 教師の指が、——地図の、東側に、——移動した。


「アルカディア公国」


 水色の一区画。


「魔法の国、——でございます。アルカディア魔法評議会が、——全ての魔法使いを、管理しています。以前は教会と対立していましたが、現在は、魔法は神を守る力と解釈されています」


 ……これは、サントーニ先生のお話と、ドンピシャ。

 ……アルカディアは、魔法の登録国家。

 ……前世なら——特許庁と医師免許庁と公安が一体化した感じかしら。

 ……「全ての魔法使いを管理」、——これ、聞こえは良いけれど、相当の権力。

 ……登録されない魔法使いは、たぶん、違法。

 ……影さん、あなたも、いずれ登録されるのね。


 ◇


 教師の指が、——地図の、北側に、——移動した。


「聖シュタイン帝国」


 茶色の、大きな区画。


「北の、——軍事大国、——でございます。広大な領土と、当時は強大な騎士団、現在は近代化された機甲部隊を持って、おります。我が国とは、遠く、——皆さまの日常との、お繋がりは、——あまりありますまい」


 ……軍事大国。

 ……地理的に遠い。

 ……新聞でも、たまにしか名前が出ない。



 教師の指が、——地図の中央に、戻った。


「——エアル王国」


 黄色の、細長い、一区画。


 大国に、囲まれた、中央。


「皆さまの、お地図を、よく、ご覧くださいませ。——エアル王国は、どの国にも挟まれた場所にございます」


 律子は、地図を、見上げた。


 ……ええ、見えるわよ。

 ……四方を、大国に囲まれた、細長い国。

 ……前世なら、緩衝国の典型。

 ……地政学的に、揉まれる場所。


「——百年前まで、エアルは、小さな王国で、ございました」


 教師の声が、少しだけ、温度を、変えた。


「——ある事件を契機に、エアルは、永世中立国に、そして世界的な金融国家に変わりました」


 律子の、背筋が、わずかに伸びた。


 ……あら。

 ……「永世中立国」で、「金融センター」に。

 ……前世のスイス、オーストリア、コスタリカ。

 ……どれも、——大戦争の疲弊の後で、——「もう戦争はしません」と宣言した国。

 ……つまり——エアルにも、それに相当する出来事があった。


 マチルダが、——手を、挙げた。


「先生、————リーナ・ヴァイス・フローラ事件、——でしょうか」


 教師の眼鏡が、——一瞬、——光を、反射した。


「左様で、——ございます」


 ……あら、これも繋がる。

 ……サントーニ先生から聞いた、リーナ・ヴァイス・フローラ。

 ……「世界中の不平等な契約書が消えた」、——百年前のお仕事。

 ……それと、エアルの永世中立化が、繋がる。


「——百年前、——リーナ・ヴァイス・フローラ、という魔法使いが、大きな仕事を成しとげました」


 教師の声は、丁寧だった。


「——教科書で、お読みになった方も、いらっしゃるかもしれません。その仕事の後、世界は大きな変革を、経験しました。——政治体制の整理、産業振興」


 教師は、——一呼吸、——置いた。


 律子は、——息を、——軽く、吐いた。


 ……不平等な契約書を、世界規模で、無効化する。

 ……前世でこれをやろうとしたら——

 ……不可能、ね。

 ……国際条約と、各国国内法と、商慣習を、——全部、書き換える。

 ……どこの国の弁護士も、何百年かけても、——出来なかった。

 ……それを、一人で、——

 ……何の権限で?

 ……教科書、読んでみよう。お父さまの書斎に、あるはず。

 ……たぶん、——事件の余波で、各国の政治体制が変わった、ということ。

 ……地政学的には不安定な、長い国境線の国が、——「中立」という法的概念で、——守られている。

 ……法律で、国境を守る、というやり方。

 ……これは、——

 ……これは、面白い。

 ……法律家の発想で、国を、守れる、ということ。


 教師は、——眼鏡を、もう一度、指で軽く、直した。


「——詳細は、上級学年でお習いに、なります。——本日の、お授業の、眼目は、——」


 教師は、——令嬢たちを、——ゆっくりと、見渡した。


「一人一人の、仕事が、——世界の構造を、変えることが、史実として、あるのだ、ということでございます」


 律子の、——目が、——少しだけ、——見開かれた。


 ……あら。

 ……これは、地理の授業のまとめ、にしては、——少し、踏み込んでいる。

 ……「一人の働きが、世界の構造を変える」、——

 ……これは、思想の問題。


 律子は、気が付いた。


 ……これは、本物の世界だ。

 ……それぞれの国に産業と思想、そして長い歴史がある。


 律子の心臓が少し速くなった。


 ……これが、ゲームの世界であるわけがない。

 ……これは、ヒロインが攻略対象と恋愛して、「めでたしめでたし」で終わる世界、ではない。


 律子はペンを握り直した。手がわずかに震えていた。しかし、目は燃えていた。


 ……よし。

 ……もっと知る。

 ……この世界の構造を、もっと知る。


「——本日は、以上でございます」


 教師は、——一礼した。


 令嬢たちが、——立ち上がって、——会釈、した。律子も、——立ち上がった。


 地図の中央に、——黄色いエアル王国が、——四方を大国に囲まれて、——黙って、——存在していた。


 ◇


 翌日の日曜日は良い天気だった。


 屋敷の南側のガレージから、作業をする音が漏れている。扉が開いており、そこに午後の光が傾いて差し込んでいた。


 油の匂い。金属の音。お父さまの黒い自動車。ボンネットが開けたままだ。


 ロドリゴが工具を手に、作業していた。執事の黒い装いの上に、作業用のエプロン。袖をまくっている。


 今朝のロドリゴは……執事の顔ではなく、御者頭の顔だった。


 律子はガレージの入り口で立ち止まった。ロドリゴが気配に気づいて、顔を上げた。


「お嬢様」


「ロドリゴ、——お邪魔して、よろしいかしら」


「もちろん、で、ございます」


 ロドリゴは工具を置いた。エプロンで手を拭いた。


 律子はガレージに入った。油の匂いが鼻に届いた。侯爵の自動車の傍に立った。


「綺麗にしてくれているのね、お父さまの、お車」


「週に一度、整備して、おります」


「ロドリゴが、お一人で?」


「御者頭として、長く、お仕えしましたので」


 律子は少しだけ笑った。


 ……御者頭。

 ……あのピクニックの日も、ロドリゴがエンジンを温めていた。


「お母さまは、自動車を、あの子、と呼んでいました。きっと、時々、見に来ていらしたのよね」


 ロドリゴがプルデンティアを見返した。


「……お嬢様、ご存じで」


「お母さまの、お部屋で、——運転教本を、見つけたの」


「左様で、ございましたか」


「コルネリア様は、ある日、ガレージにお一人でいらして、お車の前にお立ちになって、——」


「それから時折、お一人でガレージにお通いになりました。書物をお開きになって、——お車の機構を、お調べになっていました、——」


 律子は気づいた。


 ……ロドリゴは、お母さまの独学を見守っていらした。

 ……でも、何もおっしゃらなかった。

 ……お母さまのご意志を尊重なさった。


 律子の胸が少しだけ温かくなった。


 ……お母さまには、黙って見守ってくださる、お味方がいらしたのだ。


 ◇


 律子は本題に入ることに決めた。


「ロドリゴ」


「はい、お嬢様」


「お母さまが、慈善活動で行かれた先を、覚えていらっしゃる?」


 ロドリゴが考えるように、ゆっくりと、エプロンでもう一度、手を拭いた。記憶を辿る、老執事の所作。


「さて、奥様は、色々な施設にお通いでしたから」


 ロドリゴは、思い出しながら口にし始めた。


「女性のための保護施設、——病院の慈善病棟、——教会の社会事業所、それに——孤児院でしょうか」


 律子が頷いた。


「孤児院?のお名前が、分かりますか?」


「全部の名前は、もう、思い出せませんが…」


 ロドリゴは少し躊躇った。それから続けた。


「しかし、——何度かお通いだった所は、——」


「……」


「聖ルチア孤児院、で、ございました」


 律子はその名前を頭の中で繰り返した。


 ……頭に刻む。

 ……聖ルチア孤児院。


 弁護士の聴取の作法。


 律子は次の質問に移った。核心の質問。声を少しだけ柔らかくした。


「ロドリゴ、——もう一つ、伺っても、よろしいかしら」


「はい、お嬢様」


「お母さまが、お亡くなりになられる前、」


「——お母さまのご様子に、お変わりはなかった?」


 ロドリゴの肩が一瞬、動いた。老執事の目が深くなった。


 律子の鼓動が一拍、速くなった。しかし、表情は変えない。


「……ございました」


 ロドリゴの声は低かった。しかし、揺るぎなかった。


 ……長く抱えていた何かを、ようやく口に出す声。


 ◇


 ロドリゴは語り始めた。


「最後の半年ほどで、ございましょうか」


「奥様のお出かけが、以前よりお急ぎになるように、なりました」


「ペッピーノが、奥様の夕食のお量が減ったと、心配しておりました」


「ご家族とのお時間は変わらず、お楽しみになっていらっしゃいましたが、お一人のお時間に、お顔がお険しくなることが、ございました」


 ロドリゴの声が少しだけ揺らいだ。


「ロドリゴは、奥様のお変わりに気づいて、おりました」


「しかし、何がお辛いのか、伺うことは出来ませんでした」


「奥様は、お一人で抱えていらっしゃるご様子で、——」


「お一人でお運びになっていらっしゃる、その何かを、ロドリゴがお助け申し上げる術は、ございませんでした」


 ロドリゴの目が少し濡れた。涙は流さない。執事の所作。


 律子は静かに答えた。


「ロドリゴ」


「はい、お嬢様」


「それは、あなたのご責任では、ございません」


「……お嬢様」


 律子は令嬢の所作で軽く頷いた。


 ◇


 律子は時期を確認した。


「ご様子の変化は、いつ頃から?」


「……七、八ヶ月前から、少しずつ、で、ございました」


 律子は記憶に刻んだ。


 ……七、八ヶ月前から。

 ……お母さまは、その頃に何かをお知りになった。

 ……文箱のお便りの日付と、後で照合する必要がある。


 しかし、もう一つ、大事な質問。律子は少し声を抑えて尋ねた。


「ロドリゴ」


「はい、お嬢様」


「何か、——きっかけのようなことは、なかった?」


「お母さまのご様子がお変わりになる、その引き金のようなこと」


 ロドリゴは少し考えた。しばらく動かなかった。記憶を辿る、老執事の目。それから少しだけ目を開いた。気づいた、ように。


「……お嬢様」


「ロドリゴ?」


「思い起こせば、——」


 ロドリゴはゆっくりと続けた。声にわずかに震えが混じっていた。


「あの日、——以降で、ございました」


「あの日?」


「ある日、奥様が応接間で、お一人の男性とお話なさっていらっしゃいました」


 律子の鼓動がもう一拍、速くなった。しかし、表情は変えない。


「どなた、で、いらっしゃいましたの?」


「……それが、お嬢様」


 ロドリゴは少し躊躇った。言葉を選ぶように。


「ロドリゴは、——」


「ロドリゴは、そのお方が屋敷にお入りになるお姿を、——」


「拝見していないので、ございます」


 律子の眉がわずかに動いた。


「屋敷に入るところを?」


「はい、お嬢様」


「気づきました時には、奥様が応接間で、そのお方とお話しになっていらっしゃいました」


「ご紹介状もお名刺も、ロドリゴはお預かりしておりません」


「お通しした覚えも、ございません」


「他の使用人にも、後で確認しました」


 律子の背筋が少しだけ冷たくなった。


 ……誰も通していない、お客様。

 ……それでも、お母さまは応接間でその方とお話なさっていた。


 弁護士の頭が回り始めた。しかし、律子は表情を変えなかった。


「お続け、ください、ロドリゴ」


「はい、お嬢様」


 ロドリゴは目を伏せた。それから続けた。


「お言葉に少しだけ、お国訛りが、ございました」


「どこのお国のお訛りか、ロドリゴには分かりませんでした」


「お洋服は、上等なお仕立てで、——しかし、どこの国のお仕立てか、これも分かりませんでした」


「奥様と応接間で、長い時間お話なさいました。何をお話になっていたかは存じ上げません」


 律子は黙って聞いていた。ロドリゴは続けた。


「そのお方は、日が暮れる前にお帰りになりました」


「奥様が玄関までお見送りになりました」


「そのお方は、表門からお出になりました」


 ロドリゴの声が少しだけ固くなった。


「ロドリゴは表門から出ていくお姿を、見ました」


「しかし、——」


「——入っていらっしゃるお姿は、見ていない」


「……」


「お客様がどこからお入りになったか、私が把握していない、——これは、あってはならないことです」


 律子は息を整えた。


「続けて、ロドリゴ」


 ロドリゴは頷いた。


「そのお方がお帰りになって、しばらくして」


「……表門を叩く者がいまして」


「ロドリゴが出ました」


「立っていたのは、屋敷のメイドの一人で、ございました」


 律子は少し首を傾けた。


「……メイド?」


「はい、お嬢様」


「中庭でお洗濯物をお取り込みになっていた、下働きのメイド、で、ございます」


「そのメイドは、錯乱した様子でした」


「要領を得ない話ばかりを繰り返していました」


「『中庭にいたはずなのに……』、と」


「『気づいたら、知らない部屋にいて……』、と」


「『また気づいたら、門の外で……』、と」


 律子の身体が一瞬、止まった。


 ……知らない部屋。

 ……気づいたら、門の外。


 律子の頭の中で何かが引っかかった。


 ロドリゴは目を伏せた。


「メイドのことは、侯爵様にも、奥様にも、ご報告は申し上げませんでした」


「メイド本人が混乱していて、ご報告できる内容が、ございませんでしたゆえ」


「そのメイドは、その後、ほどなくして屋敷勤めを辞めました」


「『精神的に屋敷でお働きを続けることが、難しい』、と」


「故郷にお戻りになったと聞いております——」


 律子は黙って聞いていた。弁護士の頭が既に回っていた。


 ……これは通常の訪問ではない。

 ……家令がお通ししていない、客。

 ……同じ時刻、中庭でメイドが消えた。

 ……その客が表門から出た時刻と、メイドが門外で錯乱して戻った時刻。

 ……二つは同じ事象の二つの面、かもしれない。


 しかし、律子の知識では、どんな仕組みでそれが起きたのか、——まだ分からない。


 ……手がかりだけが増えた。

 ……答えは、後。


 律子はロドリゴに向き合った。


「ロドリゴ」


「はい、お嬢様」


「あなたは、家令として、何も間違っていません」


「説明できない出来事が起きた、——それは、あなたのご責任ではない」


「お母さまもロドリゴを責めていらっしゃるはずがない」


 ロドリゴはもう一度、頭を下げた。


「そのお方は、その後もお訪ねになった?」


 ロドリゴは首を振った。


「いいえ、お嬢様」


「一度だけ、で、ございました」


 律子は記憶に刻んだ。


 ……一度だけ。

 ……普通の知人なら、複数回訪れる。

 ……ビジネスなら、定期的に来る。

 ……一度だけは、特別な目的を持った接触の証拠。


 律子はもう一つ確認した。


「メイドのお名前は、覚えていらっしゃる?」


「……お嬢様」


「いつか、お会いする必要が出るかもしれない、——念のため」


 ロドリゴは頷いた。


「ジーナ、で、ございます」


「ジーナ」


 律子はその名前を頭に刻んだ。


 ……ジーナ。

 ……いつか、訪ねなければ。


 律子は立ち上がった。


「ロドリゴ」


「はい、お嬢様」


「ありがとう、——今日は、お邪魔いたしました」


「いえ、お嬢様。——いつでも、お声がけくださいませ」


「またお伺いするわ」


「お待ち、しております」


 律子はガレージを出た。秋の午後の光が傾いて、屋敷の影を地面に落としていた。


 律子の足元の影が少しだけ動いた。律子は気づいた。


「あなたも、——色々、聞けたわね」


 影は応えなかった。しかし、少しだけ形を変えた。律子の足元で、いつもより近かった。


 ◇


 律子は自室に戻った。机の前に座った。目録を開いた。


 しかし、ペンを握る前に、少し考えた。


 ……目録に書くか、書かないか。

 ……書けば、証拠として残る。

 ……しかし、お父さまの目に触れる危険がある。


 律子は目録を閉じた。


 ……今日の聞き取りは、頭の中だけに保管する。

 ……弁護士の、記憶への刻印。

 ……聖ルチア孤児院。

 ……お母さまのご様子の変化は、七、八ヶ月前から。

 ……変化の引き金は、ある異邦人の一度の訪問。

 ……家令がお通ししていない、客。

 ……同じ時刻、中庭でメイドが消えた。

 ……メイドの名前は、ジーナ。

 ……その客は、表門から出ていった。

 ……メイドは、門外で錯乱して戻った。


 律子は目を閉じた。


 ……これは、大きな手がかり。

 ……しかし、今は、まだ解けない。


 律子は気づいた。


 ……これは、おそらく魔法。

 ……前世にはなかった、この世界の論理。

 ……私は、まだその全てを知らない。

 ……世界の構造を、もっと深く学ばなければならない。


 律子は目を開けた。窓の外に初夏の午後の光。


 律子は少しだけ口元を上げた。弁護士の長期戦の笑み。


 ……日常は続いていた。

 ……調査も続いていた。

 ……二つは並行して進む。

 ……律子の長期戦。

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