第4話 わたしの窓口だけ、なぜか行列なんですけど
朝、役所の裏口から入ったところで、掃除のおじさんに呼び止められた。
「ねえちゃん、今日は覚悟しときな」
意味がわからないまま廊下を曲がって、窓口の島が見えたところで足が止まった。
列ができている。
開庁の三十分前なのに、もう廊下の壁に沿って人がならんでいる。列は角を曲がって、玄関のほうまで続いていた。
こんな朝は三年で一度もない。役所の紙をもらうために、みんなが早起きする理由なんてないからだ。
わたしは自分の席へ回りこんで、荷物を置いた。列の先頭が、すかさず身を乗り出してきた。
「六番の窓口の人、あんただろう?」
「はい、そうですけど」
「よかった。ここでいいんだよな。監察官さまが見てる窓口ってのは」
言われた意味が、頭に入るまでに少しかかった。
列の先頭は若い鹿の男の人で、その後ろの奥さんらしき人が、こくこくうなずいている。
「うちの兄貴が言ってたんだ。あそこの窓口の紙は、監察官さまが毎日ひとつ残らず見てるって」
「はあ」
「つまり、そこで通った紙は、あとから絶対に文句を言われないってことだろう。安心だ」
わたしは口を開けたまま、しばらく何も言えなかった。
そういう話に、なっていたのか。
毎日突き返されているのは、わたしのほうなのに。
噂というのは、途中で必ず都合よく折りたたまれる。折りたたまれた形のほうが、みんなに好かれる。
三年も窓口にいると、そういうのはさんざん見てきた。でも、まさか自分がその折り目の中に入るとは思わなかった。
八時半。窓口を開けた瞬間、列がどっと動いた。
紙を書く机が全部ふさがって、書けない人が壁ぎわに立って、板を下敷きにして書きはじめる。
番の届けを持った獣人さんたちが、しっぽとしっぽをぶつけながら順番待ちをしている。
その光景を、隣の窓口からののがぽかんとながめていた。
「先輩」
ののは椅子から半分立ち上がって、廊下のほうを指でさした。
「なんですか、これ」
「わかんない。安心なんだって、わたしのとこ」
「安心」
ののは自分の窓口の前を見た。誰もいない。一人もいない。
その隣も、そのまた隣も、ぽつりぽつりと二、三人しか立っていない。
六つある窓口のうち、五つが暇で、いちばん端のわたしのところだけが、玄関まで届く行列になっている。
「先輩、こっち空いてますよー」
ののが手を上げて呼びかけた。列の人たちが、そろってこちらを見て、それから首を横に振った。
「いや、こっちで待つよ」
「監察官さまが見てくれてる窓口がいいから」
ののの耳が、ぺたんと倒れた。
ののは自分の窓口の札を、意味もなく裏返して、また表に戻した。
「先輩。わたし、ちょっと傷つきました」
「代わってあげたいよ、ほんとに」
そこへ猪飼課長が出てきた。廊下の列を見て、目を丸くして、それから機嫌よく笑った。
「おお、今日は多いな。いいことだ」
「課長、これ、うちの窓口だけなんですけど」
「いいじゃないか。数が出れば月末の報告が楽になる」
課長は列の長さを指で数えるふりをして、満足そうにうなずいた。
「みんな、もっと呼びこみなさい。ほら、ほかの窓口も空いてるぞ」
呼びこんでいるのはさっきからののです、と言おうとしたら、課長はもう自分の部屋へ戻っていた。
牙の欠けたところが見えるくらいには、笑っていた。
そこから先は、もう何も考える暇がなかった。
紙を受け取る。名前を見る。日付を見る。証人の欄を見る。書き損じがあれば書き直してもらう。
判のうらを温めて、朱肉にとんとん当てて、捺印欄におろす。ぱたん。
「おめでとうございます。受理しました」
次の人。紙を受け取る。名前を見る。日付を見る。ぱたん。
「おめでとうございます」
次。ぱたん。次。ぱたん。
十時を過ぎたころには、自分が何を言っているのかもよくわからなくなっていた。
紙を受け取って、目を通して、押して、返す。それだけの動きなのに、腕の付け根が熱を持ってくる。
途中で、番とはまったく関係のない届けを持った人が混じりはじめた。
「あの、これ、犬の登録の更新なんだけど、ここで押してもらえないかい」
「二階の窓口です」
「二階のより、こっちのほうが確かだって聞いたんだ」
「番の届けしか受けられないんです。ほんとに」
その人は残念そうに帰っていった。三十分もならんだのに、と言われて、こっちが謝った。
そのあとには、去年出した番の届けを持ってきた牛の大男がならんでいた。
「これ、もう一回押してもらえないかい」
「一度受理したものは、押し直しません」
「そこをなんとか。監察官さまのお墨つきってやつが欲しいんだよ」
お墨つきなんて、この窓口には一枚も出したことがない。
出しているのは、ふつうの受理印だ。ほかの窓口とまったく同じ、課の備品の判だ。
説明しても、大男はにこにこして動かなかった。しまいには後ろの人が「早くしろ」と言って、やっと帰ってくれた。
昼になっても、列は短くならなかった。
昼休みの札を出そうとして、列の長さを見て、やめた。ここで止めたら、この人たちは午後もならび直すことになる。
みんな仕事を抜けてきている。番の届けなんて、一生に一度だ。
わたしは札を引き出しに戻して、次の紙を受け取った。
一時を回ったころ、隣からそっと手が伸びてきた。ののが、紙に包んだパンを机のはしに置いていった。
「食べる時間、ないと思って」
「ありがとう」
「わたし、代わりに押すのは、その、できないので」
「うん。わかってる」
ののは自分の席に戻って、暇な窓口で帳面をつけはじめた。
それでいい。この子を巻きこむ理由はどこにもない。パンは、あとで固くなってから食べた。
午後もぱたん、ぱたん、と続いた。指の腹が朱肉で赤くなって、洗っても落ちなくなった。
こんなに押した日は初めてだ。おかしなことに、腕が痛くなってくると、押し方がかえって安定してくる。
余計な力が入らなくなるからだと思う。体が疲れて、必要なところしか動かなくなる。
そのことに気づいたとき、少しだけうれしくなった。こんな日でも、覚えることはあるらしい。
その紙に気づいたのは、三時を過ぎたころだった。
受け取った瞬間、手が止まった。
きれいなのだ。
折り目が、まんなかできっちり合っている。左右のずれが、たぶん一ミリもない。
名前の字は、太さがどこも同じで、はねの角度までそろっている。
ふりがなの点が、全部おなじ大きさで、おなじ間隔でならんでいる。
証人の欄も、住所の欄も、字の高さが一本の線にのっている。
三年やってきて、こんな紙は見たことがなかった。
番の届けというのは、たいてい汚い。手が震えていたり、うれしくて字が大きくなったり、書き損じを消した跡が残っていたりする。
わたしはその跡が好きだ。跡があると、ああ、この人たちは本当にこの紙を書いたんだな、とわかるから。
この紙には、跡がひとつもなかった。
紙そのものも新しかった。角がひとつも丸くなっていない。ふところに入れて持ち歩けば、紙の角は必ずどこか丸くなる。
この紙は、書いてから今までのあいだ、一度も曲がっていない。
顔を上げた。カウンターの向こうには、狐の若い男女が立っている。
服装はふつう。表情もふつう。番の届けを出しに来た人の顔をしている。
しっぽも近い。手も軽くつないでいる。
どこもおかしくない。おかしくないのだけれど、後ろにならんでいる人たちと見くらべると、何かが足りない。
足りないものが何なのか、そのときは言葉にできなかった。
「あの、失礼ですけど、これはご自分で書かれましたか」
聞いてしまった。聞いてから、聞く必要のないことだと気づいた。
「はい」
女の人が答えた。それだけだった。
書式にまちがいはない。欄はすべて埋まっている。証人の名前も、住所も、日付も、規定どおりだ。
突き返す理由が、ひとつもない。
突き返す理由がないのに、突き返したいと思った。
自分でも、なぜだかわからなかった。
うまく言えないけれど、この紙は、番の届けというより、番の届けの見本みたいだった。
こういう紙を書きなさいと壁に貼ってある、あの見本だ。
でも、見本どおりに書くのは悪いことだろうか。
字がきれいなのは罪だろうか。
役所というのは決まりに合っていれば通すところだ。気持ち悪いから通さない、なんて欄はどこにもない。
突き返すには理由が要る。理由を書く欄もある。そこに何と書けばいい。
紙がきれいすぎます。字がそろいすぎています。
書いた瞬間に笑われる。課長に見せたら、その場で破られるだろう。
しかも今日は後ろに三十人ならんでいる。この一組で止まったら、いちばん後ろの人は日が暮れる。
わたしは判を持ち上げた。指がいつもより重かった。
朱肉にとんとん当てて、捺印欄におろす。
ぱたん。
「おめでとうございます。受理しました」
控えを渡すと、二人は軽く頭を下げて、列を離れていった。
最後まで一度も、こちらの顔を見なかった気がする。
番の届けを出した人は、たいてい帰りぎわに一度こっちを見る。うれしいからだ。
礼を言う人もいるし、控えを両手で押しいただく人もいる。泣く人だっている。
あの二人はまっすぐ玄関へ歩いていった。控えは男の人が受け取って、そのまま懐に入れた。
次の人が窓口に来た。書き損じだらけの紙を差し出して、耳を赤くしている。
わたしはその紙を受け取って、なぜだかほっとした。
列の残りをさばききって、窓口を閉めたのは、いつもより一時間半あとだった。
立ち上がろうとしたら、腰が伸びなかった。腕は上がるけれど、肩から先が自分のものじゃないみたいだ。
机の上には、今日ぶんの受理済みの束が、いつもの三倍の高さで積んである。
その束を運ぶために台車を取りに行こうとしたとき、役所の音が下がった。
振り向かなくても、誰が来たのかはわかる。この役所で、こういう静まり方をさせる人は一人しかいない。
まず遠くのペン先が止まって、その静けさが順に手前へ寄ってくる。最後に、窓口のあたりの声が消える。
監察官さまが、窓口の前に立っていた。
わたしは机に手をついて、覚悟を決めた。
今日は数が数だ。どこかで必ず何かをやっている。傾きも、濃さも、そろっている自信なんてない。
でも監察官さまは、いつものように紙をカウンターに置かなかった。
置くものを持っていなかった。手ぶらだった。
白い耳が、少しだけこっちを向いている。
「……あの、今日の不備は」
「ない」
九日つづけて、一日も飛ばずに来ていた人が、はじめて何も言わなかった。
肩の力が抜けかけて、途中で止まった。おかしい。この人が用もなくここに立つわけがない。
監察官さまの視線が、机の上の束へ動いた。
長い指が伸びて、束の上のほうを、ぱらぱらと繰った。速い。目で追えないくらい速い。
その手が、途中でぴたりと止まった。
抜き出したのは一枚だった。
折り目がまんなかで合っていて、字の高さが一本の線にのっていて、書き損じの跡がひとつもない紙。
あの、きれいすぎる紙だった。
「これは、預かる」
理由は言わない。どこが不備かも言わない。振り向きもしない。
紙きれもくれなかった。あれから毎日くれていた、細い字の紙きれだ。
抜いた一枚を懐に入れて、監察官さまはそのまま人のあいだを抜けていった。
まだ列の残りがカウンターの前にいたのに、誰も呼び止めなかった。呼び止められる人がいなかった、というほうが近い。
わたしのほうも、預かるとはどういう意味ですかと聞けなかった。聞いていい相手かどうかを、三年かかっても決められないままだ。
わたしは机の前に立ったまま、しばらく動けずにいた。
三百枚近く押した中から、あの人は一枚だけ抜いていった。
ぱらぱらと繰っただけだ。時間にすれば、十を数えるくらいだったと思う。
わたしは半日かけて、あの紙の前でようやく手が止まった。あの人は繰りながら見つけた。
わたしが変だと思った紙を、あの人も変だと思ったということになる。
同じものを見て、同じところで手が止まった。それがどういう意味なのか、その場ではうまく考えられなかった。
不備はなかった。今日は一度も突き返されなかった。
なのに、あの人は手ぶらでは帰らなかった。
持っていったのは、わたしが変だと思いながら、それでも自分で判を押した、あの一枚だった。
*
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