第9話 買ったことになっている馬
馬は、十二年で二十二頭買われていた。
買われたことになっている、と書き直すほうが正しい。あの厩に、その二十二頭は一頭もいない。
ニナさんに断られた次の朝、私は自分の部屋の床にもう一度、四十七枚を並べた。
人に聞く道は、これで塞がった。話してくれる人が一人だけいて、その人が話さないと決めている。頼み直す言葉を、私は持っていない。
だったら紙だ。紙のいいところは、こちらの都合を聞いてくれないところにある。頼んでも黙らないし、困った顔もしない。書いてあることは、何度見に行っても同じことしか言わない。
馬にかかわる頁は、六枚あった。
十二年で二十二頭。多くも少なくもない。あれだけの家の厩なら、それくらいは入れ替わる。
額もばらばらだった。いちばん高い一頭と、いちばん安い一頭で、三倍近く違う。年ごとに値の違う馬を買っている。まことしやかだ。
まことしやかなものを見るときは、額から見てはいけない。額はいくらでも作れる。作った人は、たいてい額を作ったところで安心してしまう。
だから日付だけを抜き出して、二十二個、白紙に写した。
写しながら、途中で手が遅くなった。
二十二個の日付は、全部、若草の月に入っていた。それだけではなく、八日から十四日のあいだに、一つ残らず収まっている。
十二年、毎年、同じ七日間。
馬を買う日がそろうことは、ありえないわけではない。市が立てば、人はその週に買う。牛でも麦でも同じことだ。
なら、その週に市が立っているかどうかを確かめればいい。
監査院の二階でその話をすると、クラウスさまは棚から薄い綴りを一冊抜いてきた。王都で立つ市の日取りを、年ごとに写してある綴りだった。
「王都の馬市は実りの月と冬の入りです。春には立ちません。春の馬は、どこの町も出し惜しみますから」
綴りは十二年ぶんそろっていた。若草の月の頁には、市の記しが一つも打たれていない。年をさかのぼっても同じだった。
春に王都で馬を買おうとしたら、売り手のところまで自分で出向くしかない。
王都に市の立たない週に、王都で馬が二十二頭、十二年ぶん買われている。
誰かの都合でそろっている日付だ、と思った。買う側の都合ではない。買う側なら、市の週に寄せる。
売る側の都合で決まっている日付は、売る側を調べれば理由が出る。
ドレーの店は、下町の坂を下りきったところにあった。
坂の上のバスクの店より、道が広い。馬を通すからだ。石畳の目地に藁が詰まっていて、歩くと足の裏がやわらかい。
店といっても、表にあるのは低い塀と、大きく開いた木戸だけだった。中は土の中庭で、奥に厩が二棟。糞と藁と汗のにおいが、まとまって一つのにおいになっている。
入る前に、木戸のところで厩の数を数えた。二棟で、馬房は左に八つ、右に六つ。埋まっているのは九つ。
空いた馬房の床は、藁が薄い。長く空けていると人は藁をけちる。この店はいま、思っているほど景気がよくない。
中庭で、白髪の混じった男が馬の前脚を持ち上げて、蹄の裏を掻いていた。
年は五十くらい。日に焼けて、首から下が全部太い。私が入っていくと、脚を下ろして、手を腰の布で拭いた。
「お嬢さま。うちは乗り馬より荷馬のほうが多うございますが」
最初のひと言が売り込みだった。私が何をしに来たかを聞く前に、もう商売を始めている。
この人は、たぶん一日じゅう喋っている。喋る人は、黙る訓練をしていない。
「フェルゼン公爵家のことで伺いました」
手が、腰の布の上で止まった。
止まったのは一拍だけで、次にはもう笑っている。笑い方が上手だった。上手なのは、何度も使っているからだ。
「あちらさまとは、長いおつきあいで」
「そのおつきあいの日付を、持ってきました」
鞄から白紙を出して、木の台の上に置いた。二十二個の日付だけを、年の順に縦に書いたものだ。額は書いていない。
額を見せると、人は額の話をする。額の話になると、高いだの安いだのと言い分が出てきて、話が転がる。
日付には、言い分がない。
ドレーは台に手をついて、上からのぞきこんだ。読める人だった。読めない人はもっと顔を近づけるし、読めるふりをする人は先に何か喋る。
「なんの日付でしょうな」
そちらが公爵家に馬を売った日です、と答えた。
ドレーは紙から目を離さないまま、口の端だけを動かした。
「十二年も前のことは、覚えておりませんよ」
覚えていない、はいい返事だ。知らない、ではないところが、この人の慣れているところだと思う。
「では、確かめていただけますか」
私は、なるべく何でもない声を出した。
「そちらの帳面で。売った日が違っていれば、この紙のほうが間違いだということになります」
ドレーは少しのあいだ、私の顔を見ていた。
それから中庭の隅の小屋へ行って、帳面を三冊抱えて戻ってきた。抱え方が慣れている。この人も、書くほうの人だ。
私は待った。待っているあいだ、厩のほうで馬が一頭、鼻を鳴らした。
彼は台の上で頁をめくって、指を止めた。
「ございました。若草の月の十日、フェルゼンさま、荷馬一頭」
声が、さっきより大きくなっていた。
勝ったと思ったのだと思う。書いてあるものを見せれば話は終わる、と思った人の声だった。
私はその頁を見なかった。かわりに、その二枚前を指した。
「その前の週は、どちらにいらっしゃいましたか」
指が、頁の縁で止まった。
私はもう見えていた。台の上に開いた頁の、左の端。日付の下に小さく「東」と書いてある行が、上から下までびっしり並んでいる。
東の町の市の売上だ。
馬市は七日間立つ。八日から十四日まで。その七日間、この人は東の町にいて、朝から晩まで馬を売っている。宿代も、渡し賃も、飼葉代も、ちゃんと経費で立ててある。
立てないわけがない。経費は落とすためのものだから、人は経費だけは正直に書く。
「若草の月の八日から十四日は、十二年ぶん全部、東の町です」
私は指を、頁の上で少し滑らせた。
「その七日のうちに、王都で馬をお売りになっています。十二年、毎年」
中庭が、急に広くなった気がした。
ドレーは何も言わなかった。厩の馬が藁を踏む音と、どこかで水を使う音だけがしている。
「三度、足しました」
声から高さが抜けているのが、言いながら分かった。数を言うとき、私の喉はいつも平らになる。
「三度とも同じでした。この二十二頭は、道を通っていません」
紙は机の上で作れるけれど、荷物は道を通らないと動かない。前の暮らしで先輩から聞いた言葉のうち、私が覚えているのはこれ一つきりだ。
顔も名前も思い出せない人の、この一行だけが、こういう場所でいつも先に立っている。
馬は荷物より大きい。四本の脚で、自分で歩いてくる。歩いてきた馬は厩に入って、飼葉を食べて、糞をする。
二十二頭ぶんの飼葉が、あの家の帳簿には一度も出てこない。
ドレーは台から手を離して、二歩下がった。それから、腰の布でもう一度、手を拭いた。
拭くところは、もう汚れていなかった。
この人は怒鳴らなかった。追い出しもしなかった。追い出せば、次に来るのが私ではなくなると分かっているからだと思う。
言い返す言葉を探しているあいだ、人はたいてい手を動かす。動かす手の中身がなくなったとき、口が開く。
「……印だけです」
最初のひと言は、それだった。
「名前と、印だけ。馬は一頭も動いておりません」
手数料はいくらでしたか、と聞いた。
「一件、銀貨十枚。何頭でも、いくらの馬でも、同じ額で」
同じ額。そこで、頭の中の何かが一つ、はまった。
馬の値段は毎年変えてあったのに、この人に払う手数料だけは、十二年ずっと同じだった。値を動かす手間をかけた人が、そこでは手間をかけていない。
見られる数字と、見られない数字を、書いた人は分けて考えている。分けられるのは、どちらが見られるか分かっている人だけだ。
証文を持ってきたのはどなたですか、と聞いた。
「お屋敷のガルニエさま」
その名前は、もう何度目か分からない。
「毎年、私が東から帰った次の日に、いらっしゃいました。日暮れどきに、お一人で。証文を書いて、印を押して、それで終わりです」
ドレーは、そこで少しだけ言い訳をした。
「馬のことは訊かれましたが、金のことは訊かれませんでした。印は、押しても減りませんのでね」
減らない。たしかに減らない。
減らないものを貸して、銀貨十枚。二十二件で、二百二十枚。この人の取り分は、抜かれた総額のなかに置くと、端のほうで見えなくなる。
小さく分けて配ると、受け取る側は自分がいくらの悪事に加わっているか分からなくなる。分からないから、十二年続く。
私は鞄から紙を出して、書いた。
「私には、罰を軽くする力はありません」
書きながら言った。ここを間違えると、あとで全部ひっくり返る。
「監査院の外の人間ですので、そういう約束はできません。できるのは、あなたが自分から出したと書くことだけです。それを読むかどうかは、読む人が決めます」
ドレーの喉が、上下した。
「それだけですか」
「それだけです」
言ってから、少し間を置いた。
「ただ、書いた紙には日付と、私の名前が残ります。番号のついた控えも出ます。十年たっても、あなたが自分から出したことは残ります」
人は、書いてあるものを信じる。この人はさっき、書いてあるものを見せれば助かると思った人だ。
だから、書いてあるものが助けになるという言い方だけが、この人には届く。
ドレーはしばらく足元を見ていた。それから小屋へ戻って、麻の紐で縛った紙の束を持ってきた。
埃をかぶっていた。上から二本、指で払って、台に置く。
「押した控えです。全部あります。うちは、捨てないもので」
受け取って、その場で枚数を確かめた。頼まれなくても、指が勝手に動く。
二十三枚。
馬は二十二頭のはずだった。もう一度、はじめから数えた。二十三枚。
顔には出さずに、束を鞄にしまった。この人の前で数え直すと、この人が中身を思い出してしまう。思い出した人は、次の日に別のことを言い出す。
礼を言って、木戸を出た。振り返らなかった。
坂を上りながら、鞄の重さを肩ではかった。紙の束は軽い。軽いものが、いちばん重い場所へ落ちる。
帰り道でずっと考えていたのは、一枚多い理由のほうだった。多く数えたのなら、私が二度間違えたことになる。私は同じ数え間違いを二度しない。
その夜は、監査院に泊まった。
二階の机を二つ、向かい合わせに寄せた。片側に控えの束、片側に四十七枚。私が控えの日付と額を読み上げて、クラウスさまが帳簿の側を追う。
声に出して読むと、目で追うより遅い。遅いぶん、間違えない。
ろうそくが二本めに変わったころ、彼が引き出しからパンと干した果物を出してきた。二人分に分けてある。分け方が几帳面すぎて、少しおかしかった。
「若草の月、十日、銀貨百四十」
あります、と返す。次を読む。彼が追う。あります、と返す。
それだけの晩だった。四十七枚のうち六枚と、二十三枚の控え。ろうそくと、切ったパンと、冷めたお茶。話したことは全部、日付と額だった。
十年、私は誰かと数字の話をしたことがなかった。ユリウスは笑い、父は黙り、屋敷の人たちは目をそらした。数字の話は、いつも私が一人で始めて、一人で終わるものだった。
向かいに、読み上げれば返ってくる人がいる。それだけのことが、ずいぶん妙な感じがした。
嬉しいとは違う。嬉しいのは、もっと落ち着かない。
これは、椅子の高さが体に合っているときの感じに似ている。ずっと合わない椅子に座っていた人は、合う椅子に座ると、かえって座り方が分からなくなる。
落ち着かないので、頁をめくる速さを上げた。上げても、向かいから返ってくる間は変わらない。
この人は急がない。急がないから、こちらも急がなくてよくなる。それが厄介だった。
私は今日、人ひとりの商売を終わらせてきたところだ。厩に九頭いる店の主人が、明日から何を売るのかを、私は考えていない。考えないでいられるのは、いま向かいに人がいるからだと思う。
十二年ぶんが半分ほど済んだところで、記憶が切れた。
目が覚めたとき、窓の外がもう白かった。机に伏せたまま寝ていたらしい。頬の下に、控えの束の角の跡がついている。
肩が重かった。
黒い上着がかかっていた。
持ち上げると、袖の内側だけが妙に薄くなっている。書きものをする人の袖だ。八日前、監査院の階段で最初に見たときも、私はそこを見ていた。
顔を上げると、彼は向かいの机で、もう次の頁を開いていた。上着はなく、シャツの袖をまくっている。
声をかけようとした。かける言葉が、うまく出てこない。
「二十二」
先に、彼のほうが言った。
「昨夜の分で、二十二頭ぶん合いました。日付も額も、全部そちらの控えと同じです」
こちらを見ていなかった。
この人は、上着のことを覚えていない。覚えていないというより、たぶん、数えていない。数えていないものは、この人の中に残らないのだと思う。
私は上着を椅子の背にかけ直して、自分の椅子に座った。
「あと一枚あります」
束のいちばん下から、その一枚を引き抜いた。
同じ形の控えだった。同じ大きさの紙、同じ並び。日付があって、額があって、下に印がある。
字が、違った。
二十二枚の「7」は、縦の棒を引いてから、上の横棒を左から右へ短く入れてある。この一枚の「7」は、横棒が長い。しかも真ん中に、もう一本、短い線が入っている。
桁を区切る点の位置も違った。二十二枚は数字の足元に打ってあるのに、この一枚だけ、数字の腰の高さに浮いている。
書いた手が違う。
二十二枚は、十二年ぶん全部が同じ手で書かれていた。同じ癖、同じ傾き、同じ疲れ方。十二年ずっと、あの家の紙を書き続けてきた手だ。
この一枚だけ、その手ではない。
紙を明るいほうへ寄せて、いちばん上の行を読んだ。
買った側の名前が入るところに、フェルゼンの字はなかった。
レンフィールド伯爵家、と書いてあった。
*
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